人魚





1:メルヘンクラッシャー



 人魚、と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、童話にある「人魚姫」であろう。
 長くたなびく髪、豊かな胸を貝殻で慎ましく隠し、たおやかな肢体をくねらせて優美に泳ぐ女の子。真珠の首飾りを身につけ、それよりも美しい瞳が微笑む。海の中で彼女の友となれるのは魚たちだけ。彼女は歌う。孤独を慰めるかのように。陸への憧れを募らせ、まだ見ぬ運命への期待を膨らませながら。どこまでも美しく、無垢であるがゆえに儚い存在。それが「人魚」だ。
 ところがどっこい、草加拓海の「人魚」はそんな都合の良い想像など粉々に打ち砕いたあげく無残にも風で飛ばされる、そんな相手だった。



 夏休みの思い出にと、家族で豪華客船に乗った草加を待っていたのは沈没だった。
 何が、と振り返ることもできないまま、10歳の子供の体は大人たちに圧されて海へと落ちていった。両親が必死で呼びかける声があっという間に遠ざかる。夜の空は満天の星だというのに船からあがる黒い煙がはっきりと見えた。次の瞬間海面に叩きつけられた草加は意識を失った。船が揺れ、緊急脱出用のボートに人々が群がる。乗員たちの悲鳴が夜の海にこだました。

 ふっと気がついた草加がまず見たものは、夜の海だった。
 船が軋む音が響きわたり、はっとして振り返る。まるで映画のワンシーンのような光景。沈む船からどうやって助かったのか――気絶していたはずなのに。自分の身に降りかかった不幸に嘆く前に草加はしっかりと自分を抱きしめてくれている腕の持ち主を見た。太くてたくましい腕にふさわしい、がっしりした…というよりはどちらかというとゴツい大人の男を。太い首から続くむっちりとした胸は筋肉がこれでもかとついており、それが腹まで繋がっている。こうまできっちり線のある腹筋を見たのは始めてだった。
 そこまではいい。しかし問題はそこから下だった。草加の目が点になる。
 上半身が裸であったのは、服を着ていては泳ぎにくいという理由でよしとしよう。だが下半身となれば話は別だ。しかも、その肝心の下半身が魚であるというのはいかがなものだろうか。
 いままであった不安や悲しみが吹っ飛び、嘘だと草加が思ったとしても、仕方がないことであろう。たとえ草加が10歳の子供であっても、夢と現実の区別くらいはつく。目の前の、いささかたくましい――をとおりこしてもはやマッチョな男性が人魚であることは、紛れもない事実であった。
 だから草加が助けられたことへの礼も言わずに

「だましたな!」

 と叫んでしまったとしても、無理のないことであろう。
 叫ばれたほうの人魚はというと、当然のことながら何に対してのことかわからなかった。突然のことに呆気にとられ、そして子供が目を覚ましたことににっこりと笑った。

「気づいたか」

 その時の草加にはもうツッコミをいれる気力もなかったのだが、人魚は日本語を用いていた。ちなみにこの海域は日本ギリギリだ。
 それから人魚は草加がまことに理不尽な怒りを抱いていることなど気づきもせずに、何が?と尋ねてきた。二人の後ろでは今まさに豪華客船が沈む阿鼻叫喚が繰り広げられているのだが、思考がふっとんでいる草加と人間がどうなろうが知ったことではなさそうな人魚には無視されている。うまい具合に流されてきたブランド物のトランクを人魚が引き寄せ、草加に捕まらせた。いつまでも抱いているわけにもいかないのだ。

「人魚なのに、なんでそんな男なんだ!」
「は?」
 
 わけがわからないといった顔をした人魚に苛立った草加が、上記の人魚像を説明した。話を聞くにつれ人魚は笑い出し、ついには腹を抱えて海面をばちゃばちゃ叩いた。豪快な笑いに草加の人魚像に更なるヒビが入る。

「メスしかいないで、どうやって繁殖するんだ?」

 まことにごもっともである。子供であってもその辺の教育くらい、されていなくてもなんとなくわかっている草加は沈黙するしかなかった。人魚は感心した。

「人間はおかしなことを思いつくんだな」

 結局草加が礼を言ったのは、さんざん質問し人魚を大笑いさせついには呆れさせた後だった。





2:人魚の事情



 人間の子供というのは、まったくよくしゃべる生き物だと、人魚は思った。
 どうして?から始まり答えのなかにわからないことがあればすぐさままた尋ねてくるのだ。内心ではそんなことをしている場合ではないという危惧もあったが、人魚は根気よくつきあってやった。ぷかぷか浮く子供を、さりげなく沈没する船から遠ざけながら。


 人魚が草加を助けた理由はたったひとつ。彼が子供だったからである。
 人魚の世界では、子供は貴重だった。
 元々単独、あるいは家族単位で暮らしていた人魚が群れを成すようになったのは、少子化という切実な問題があるからだった。子供が生まれてこないということは、種が消えるということでもある。人魚たちは次世代がいないことに危機感を募らせた。少人数になれば当然ながら、繁殖ができない環境におのずと陥ってしまう。おまけに人魚は一夫一婦制だ。ひとたび伴侶を得れば他には目もくれなくなる。運良く別の群れから相手が見つかればいいが、ヘタをすれば生涯独身になりかねない。最悪、近親婚になるだろう。血の巡りが悪くなれば歪みが生まれることは本能的に知っている。
 子供=大切にすべきものという図式は、この人魚にも叩き込まれていた。計算などそこにはない。助けなければと思い、人魚は実行しただけだった。

「ちゃんとそばにいるから、少し寝ろ。その間に移動する」
「………うん」

 驚愕と怒りが静まり、ひととおり質疑応答を終えてしまうと、今さらのように悲しみと疲労が子供に押し寄せた。九死に一生を得たばかりで泣くこともできずにいた子供を人魚は抱きしめた。体温の低下を防ぐ意味もあるが、こうしたほうが落ち着くだろう。頭を撫でてやると子供は素直に眠りについた。

「………」

 子供が深く眠るのを待って、人魚は泳ぎ始めた。浮かぶトランクに子供を乗せる。ビート版にしがみつくような形の泳ぎ方になった。これを見たらまた草加が怒り出しそうだが幸い眠っている。どんな泳ぎ方であろうがさすがは人魚。結構なスピードが出た。
 目的地は一番近い陸だ。助けたからにはきちんと面倒を見てやるつもりだった。
 人魚は独身で、子供がいない。だがきっとこういうものなのだろうと草加を可愛く思った。なによりこの振って湧いた子供は人魚の孤独を慰めた。群れから追い出され、ひとり大海原を彷徨っていた人魚の元に落ちてきた子供。
 人魚が元々いた群れは、そのほとんどが成人したオスだった。行き詰った群れの典型だろう。
 子供は少なく、どれもが幼いものばかり。群れにはなわばりがあり、だからこそメスと出会う確率はゼロに近かった。どうにかしなければならない。大人の人魚たちは相談し、結論をだした。まだ若く、一番歌の下手なものを、追い出そう。
 海の生き物というのは皆歌が好きだ。人魚も例外ではない。ひとりが歌えば、皆がそれに唱和する。合わせられないものはつまり群れに適しないもの。
 結果選ばれたのが、彼だった。
 悲しくなかったわけではないが彼も自分が皆とどうも違うなと自覚していたからわりとアッサリ承諾して群れを出た。ひとりでやっていける自信もあった。海を旅し、新たな群れを自分で築けば良い。
 だが、現実にはめぐりあう人魚は皆無だった。
 どこにもいない仲間を求め、人魚は海の中を歌いながら移動した。鯨やイルカがたまに返事をしてくれる。人魚なんてめずらしいね。どこに行くの?あっちにはシャチの親子が居たよ。人魚の群れ?うーん、見ないねぇ。
 そういえば南の海がすごいことになってるよ。何がどうひどいのかは言わなかったが、いかにも怖ろしいことのように言う鯨に人魚は興味を引かれた。もともと人魚の歌には海を慰める力がある。日々殺される命を悲しむ海への鎮魂歌。日々生まれてくる命を祝う歓喜の歌。人魚は歌いながらそこへ辿り着いた。人間たちがたくさん乗った大きな船が、なんと沈もうとしている。
 人魚はあまりのことに唖然とし、深く潜り込んだ。これは海が騒ぐわけだ。さてどうしようかと考え始めた人魚の目に、人間の子供が文字どおり飛び込んできたのだった。


 人魚が歌う。人間の耳には声というより音波のように聞こえるであろう。子守唄だった。どうかこの人間の子供が、せめて安らかに眠れますように。水中でくるんと一回転。海がそれにあわせてきた。子守唄にしてはやや明るく、楽しげな音階になっていく。奇妙な2人組みにはぴったりの行進曲だな、と。





3:食料事情



 メシだぞと言って手渡された生魚を、草加は見つめるしかなかった。コレをどうしろと。魚は手の中でまだ死にたくないといわんばかりにぴちぴちしている。
 人魚は委細おかまいなしで頭からがぶりといった。噛み砕くかと思いきやなんと丸呑み。まるでペンギンである。魚が咽喉を通っていくのが見えた。でこぼこする皮膚がいやにリアルだ。なんとも消化に悪そうな食べ方である。

「どうした?食わないのか?」
「え………」

 無下にいらないとも言えないが、真似して食べろと言われても困る。せめて刺身にしてくれないものかと思ったが漂流の身で我儘は言いにくい。口ごもった草加に肯定ととったのか人魚はちょっと待ってろと言って再び海に潜っていった。ちょっとホッとして草加は魚を逃がしてやったが、すでに遅かった。魚はしばらく浮かんでいたが、やがて沈んでいった。
 草加はトランクに乗りかかりながら人魚を待った。右も左もわからない大海原にひとりというのは怖い。どちらに行けばいいのかわからないのだ。流されないように時々足をばたつかせる。海面を叩く音で、人魚が位置をつかめるだろうという子供なりの配慮もあった。
 次に人魚が獲ってきた獲物はタコだった。当然のことながらこれまた生きている。

「……そ、それ…」

 今度こそ草加は青褪めた。タコは頭を鷲掴みにしている手を引き剥がそうとしているのか、8本の足を人魚の腕に絡みつかせている。

「これならどうだ!」

 いやどうだっていわれも。墨でてますよ。あきらかに怒ってますよそのタコ。
 確かにタコならそのままでも平気だろう。無理だということもできずにただうなずくと、人魚は足の付け根にかぶりついた。びったん、と足が暴れ、人魚の顔に抗議の一撃。かまうことなく噛み切った人魚はそれをべりっと引き剥がした。頬にはくっきりと吸盤の痕がついている。
 すみませんちょっぴり泣いてもいいですか。なんともやるせない気分に草加は襲われた。ああ弱肉強食ってこういうことか。良かった、人間で。ここまで生々しくない食べ物が恋しかった。

「ほら」
「あ、りがとう…」

 とりあえずひと口。吸盤が容赦なく舌に張り付いてきて痛かった。なんとか噛み千切って咀嚼する。海水の塩味がついているので思っていたより美味しかった。こりこりした食感と、タコのほのかな甘味。へぇ、と思いながらもうひと口。噛んでいるうちに顎が疲れてきた。
 人魚は暗い顔の子供を心配そうに見守っている。とはいえ彼もタコを食べているので、あまり深刻そうではなかった。ちなみにタコ(本体)は足の2,3本くらいなくなっても平気なようで、まだ人魚の腕と格闘している。

「イカのほうが良かったか?」

 ごくんと飲み込んで、人魚が的外れな質問をした。一応考えてはくれているらしい。

「いや、タコとかイカとかの問題じゃなくて…。生きてるのを見ちゃうと、ちょっとかわいそうかなと思って」

 申し訳なさと居た堪れなさだ。たとえばどこかの寿司屋の生け簀かなにかであれば、草加も躊躇うことはなかっただろう。それをすでに「食料」として認識していれば。
 だが人魚が獲ってきて、あげくなにやら言い聞かせているのを見ると、さすがに罪悪感がわいてくる。
 人魚は子供の言い分を理解できなかった。人魚にしてみればごく自然なことなのだ。ごめんな。でも食べないと生きていけないから。いただきます。それくらいは人間だっていうものではないのだろうか。

「じゃあ、どうやって食べるんだ?」
「そうですね、タコなら…たこ焼きが一番一般的かな。刺身でも食べるけど、あんま味ないし。茹でて酢の物にするとか。いろいろあるよ」
「へぇ…。面白いな」

 人魚にとってメシは生で食べるものである。習慣のちがいを2人は話し合った。人魚の窺い見ることのできない陸の上の世界。人魚が感心して聞くのものだから子供も喜んで話した。笑って話す元気があるのなら大丈夫かなと人魚は思った。空には南国の太陽が輝いている。
 本当に大変なのは、これからなのだ。





4:初めての



 危惧していたことは、太陽が中天に達した頃現実のものとなった。

「大丈夫か?」

 大丈夫ではないとわかっているが、他に言葉がみつからない。人間の子供は頭に海藻をかぶったままぐったりとトランクにしがみついている。人魚の言葉にやや遅れてうなずいた。
 気を抜いてしまえば体から力が抜けて、海中に沈んでしまうだろう。
 生ものばかりとはいえ食事はなんとかすることができた。だかここは海のまんなか。どう頑張っても人間の渇きを癒す真水は手に入れることができないのだった。海の生物であれば何の問題もないが、陸上生物には死活問題である。
 人間が海水を飲めないことは人魚も知っていた。そして自分がその問題に対して無力であることも。
 人魚は懸命に考えた。陸まで一直線に進んでいるが、あと一昼夜はかかるだろう。運良く人間の船が通りかかってくれるとは思えない。子供の体力はおそらくそれまでもたないだろう。

「……どうするか…」

 考えた人魚は海水でないもの、代価案を思いついた。自慢の尻尾を撫でる。キラキラと日差しに反射して光る青い鱗は、鮫の歯ですら容易く噛み切れない硬度を誇る。その一枚に、手をかけた。

「……くっ」

 自分の身を引き剥がす激痛に力が抜けそうになる。それを堪え、とうとう一枚剥ぎ取った。サッと血が海に溶ける。
 パキンと清涼感のある音に、草加は目を開けた。海の音ばかりを聞いていた耳に、その音は心地よかった。

「…………?」

 と、人魚の顔が近づいて、生臭いものがぬるりと口に入ってきた。嫌悪感はあったが乾ききった咽喉がそれを嚥下した。
 口移しで、何かを飲まされた。

「な、なにを…」

 掠れた声で抗議した草加は目を見張った。
 人魚は自分の手を自分の鱗で切り裂いて、血液を草加に飲ませたのだ。
 驚く草加にホラと手を差し出した。一見人間のものと変わりない赤い血。
 草加が戸惑っているのをどう思ったのか、人魚は自分の血をすすり、再び口移しで飲ませてきた。

「………っ」

 拒絶もままならないまま飲み込む。じわ、と草加の瞳が潤んだ。嫌悪のためではなく、一種の感動のためだった。

「…どうして、そこまで……?」

 子供の目が潤んでいることに新たな異変かと慌てた人魚はおろおろと彼の頭を撫でた。海の生き物に涙はない。あっても海へと溶けてしまうため、こうもはっきり涙の雫が見えることはないのだ。

「どうしてって、おまえは俺が拾ったんだ。ちゃんと、陸に帰してやるからな」

 そこにはただ草加を心配し、慈しむ感情しかない。草加は再び涙を溢れさせた。両親とはぐれ、海の只中でそれでも人魚がいてくれること。そのことに、たとえようのない心細さと安心が同時に押し寄せてきたのだった。

「大丈夫だ。大丈夫だから。な?」

 何度も何度も言い聞かせてくれる人魚の声。それは、いつまでも草加の心に残った。





5:さよならを言う前に



 人間は血液に対し、口にすることへの拒否反応を本能的に持っている。それは共食いを避けるためだという。
 人魚の血を飲むことで、子供は命をとりとめた。血液は味に言及しなければ栄養バランスのとれた飲み物(?)である。もともと肉体を構成していた物質なのだから当然といえるだろう。
 体温の低下を防ぐ意味をこめて、草加はトランクに乗っている。水中に浸かり続けていては皮膚が溶け出してしまう。時々人魚が気遣わしげに声をかけ、口移しで血や食料を摂取させた。草加がこうまでぐったりしているのは体力の限界に加え、人魚に小脇に抱えられて泳がれたせいでもある。草加とトランクを両脇に抱えるという障害物があったものの、コツをつかんだ人魚は人間にはありえないスピードを出した。草加に呼吸をさせるため海面ぎりぎりを、シッポで叩きながら実に豪快な泳ぎっぷり。ついでに草加は顔にあたる水が痛いという受難の時でもあった。

「陸が見えるぞ」

 そしてとうとう陸地が見えた。泳ぐスピードをゆっくりなものに変えた人魚が半分気絶している草加を起こした。子供は顔をあげて、見た。夕陽に浮かび上がる、懐かしい陸地のシルエット。

「あ………」

 とたん草加に込み上げてきたのは人魚と別れなくてはならないのだという惜別の想いだった。もちろん助かったという安堵と、人魚への感謝もある。だがそれ以上に、この数日間で濃密な絆というべきものを結んだ人魚と離れたくないという想いが強かった。
 人魚は慎重に草加を浜辺へと連れて行った。人目について捕獲されてはたまらない。人間による人魚狩りの話を、彼も聞いたことがあった。なんでも干物にされたり、生きたまま肝を食べられたりするという。深海に逃げるまで、他の人間に発見されるのは避けなくてはならない。
 砂浜に上がっても、子供はすぐには立てなかった。海水で冷えた体が思うように動かないのだ。加えて浮力になれていたため、自分の体の重さで動けない。
 人魚も同じであるらしく、「重っ」と叫んでいた。それでもなんとか草加を波の届かないところまで引きずって行く。人魚の場合、そのたくましい筋肉の重みが地上では厄介になるのだろう。

「じゃ、元気でな」

 割りにアッサリと人魚が言って、ポンと子供の頭を撫でた。役目が果たせた満足感に笑っている。
 未練もなくよっこらしょとUターンする人魚に、草加は叫んだ。

「…草加拓海!」

 それは、自分の名前だった。名前すら教えていなかった。2人で会話をするときに、わざわざ名前を呼んだりしない。なあ、で通じ、ねえ、と呼びかければ事足りていたのだ。

「忘れないで、草加拓海―――僕の名前は、草加拓海だ!」

 かすれた声で、それでも精一杯の大きな声で名乗りをあげる。忘れないで、と。
 人魚は目を丸くして、それからちょっとはにかんだ笑みを浮かべた。

「…迂闊に人魚に名前を教えるもんじゃないぜ」
「え?」

 ポイ、と人魚が投げたものが草加の胸元に落ちてきた。鱗だった。暗がりのなか、キラリと輝いている。
 そして人魚は海に帰っていった。自分の重たい体をどっぺんでっぺんさせて行く様はまるでトドかアザラシのようで、草加の人魚像はもう木っ端微塵どころか吹く風に飛んでいく勢いだ。しかしそんな生々しさが人魚が単なる想像上の生き物ではなかったと証明するようだ。

「…さようなら」

 浅瀬で人魚がなんとか海に潜ろうと、必死でシッポをびちびちさせている。草加は笑った。笑うことで体力が戻ってきつつあるのを感じた。
 忘れないから。心に誓う。忘れないから、どうか――忘れないで。