冬にやりたい10のこと





1:初雪降ったら雪見をしよう



 九州生まれ、九州育ちの角松洋介は、この歳になっても雪という自然現象に憧れをもっている。雪が降ってきたと見るやいなや真っ先に外へと飛び出していくタイプの人間だ。真っ白に積もっていようものなら足跡どころか顔面の跡をつける。大人気ないというよりは子供そのものになってはしゃいでしまう。
 だから草加が雪が降り出したといささかうんざりした口調で告げた時、目を輝かせて温かな室内から初雪舞い散る屋外へと引っ張りだしたとしても、角松に悪気はまったくないのだ。

「そんなに大げさにはしゃぐものでもないでしょうに」

 呆れ気味の草加に何を言うとばかりに角松は憤慨した。

「初雪だぞ初雪!今年の一番最初って、なんか縁起物で嬉しいだろ?」
「そういうものですか」

 夜空を見上げる。降るという舞うというほうがふさわしいだろう。空間をあけてちいさな白い花が落ちてくる。このぶんなら積もることなく朝には止んでいるだろう。

「…なんだ、雪嫌いだったのか?」
「あまり。雪かきが大変だとか交通機関が麻痺するとかスリップしないように注意しなくてはだとか、面倒ばかり思い浮かびます」

 東北出身なので。苦笑する草加にそういうものかと角松は感心した。苦労していると発想が現実的になるのだろう。

「じゃ、戻るか」
「気は済みましたか?」
「済んだ。ただ一緒に見たかっただけなんだ」
「これからいくらでも見られるでしょうに…」
「でも、意味が違うだろ」

 くす、と笑う角松はやさしい顔だ。恋愛初心者の年下の恋人が可愛くてたまらない、子供を一歩はなれたところから微笑ましく見守る大人の顔だった。

「つきあいだして一番最初の初雪と、2年目3年目の初雪と、同じだと思うか?」
「………」

 一番最初の感動はいつだって新鮮だ。もう二度とないと思えばいっそうその記憶はいとおしいものになる。新しいものは必ず古くなっていく。時は止められない。だからこそ。

「一緒に見たかったんだ」
「角松さん」

 どうしよう、どうしたらいいのかわからない。まっすぐに与えられた愛情に草加は胸を熱く詰まらせ、立ち尽くした。

「好きです」

 唐突な告白に、角松は目を丸くした。

「どうしたらいいのかわからないくらい、大好きです」
「…お前いっつもいきなりだな」

 笑う角松の息は彼の熱を周囲にまで及ぼす。白く吐き出されていくそれは初雪と反対に空へと昇り、昇りきらないまま消えていく。じゃあもう少し見ておくか。嬉しそうに角松が言った。
 はい、と草加は答えた。





2:そうだ、スキー旅行に行こう



 誰が言ったか知らないが『スキー場では2割り増し』。けだし、名言だ。
 ようするに普段見慣れた人の見慣れない姿というのはときめいてしまうもの、ということであろう。それがたとえ、とっくに30を超えたおっさんであっても。

「わ――!!」

 ドサッと雪煙をあげて、角松が盛大に転がった。
 雪というのはやわらかいが、それは始めのうちだけで一晩中降り続いた雪が朝日に溶けて固まれば、それはあなどれないほどの強度を持つ。つまりは転ぶと痛い。

「またか」
「意外だ…」

 派手に尻餅をついた角松を、あーあという顔で親友二人は振り返った。体格の良さが災いして重い体を雪から引っこ抜くのを手伝ってやる。大きくぽっかりとあいた落とし穴を、恨みがましげに角松が埋め立てた。

「洋介、よく怪我しないよなぁ」

 ぱんぱんと雪を払う角松に、いっそ感心するというように尾栗が言った。こう度々転んでいれば骨の一本くらい折っていそうなものだが、運がいいのか頑丈なのか、青あざくらいで今のところこれといった怪我もない。笑い混じりの言葉に心配そうに眉を寄せたのは菊池で、彼はそっと切り出した。

「いいかげん、あきらめたらどうだ」
「い・や・だ!あきらめたらそこでゲーム終了って、昔の偉い人もいってるだろ!」

 いやそれは過去の偉人ではなくてスポーツ漫画のセリフじゃなかったかとは誰もツッコミを入れない。ここには先生も監督も、艦長もいないからだ。ストッパーのいない副長はただいま絶好調にスキーを堪能している。もっぱら反対の意味で。


 せっかく冬なんだし、スキーに行きたいなと言ったのは尾栗だった。
 それに真っ先に賛成の意を示したのは角松で、彼はどうせなら艦内レクリエーションとして行ってはどうかと話をさらに大きくした。角松は今まで一度もスキーをしたことがないと言って、なかば強引に話を決めた。今までに行く機会がなかったのは周囲がこうなることを見越したのか、それとも九州育ちという距離ゆえか。ともかく角松の決めたことに反対する者は誰もいなかった。誰が言ったか『スキー場は2割り増し』、スキーウエアに身を包み颯爽と滑る角松洋介を、誰もが期待していたのだ。
 そして判明した意外すぎる事実。角松洋介はスキーがヘタ、というのは予想外すぎてかえってうけた。乗員たちの好感度はさらにアップしたのだが本人は当然不本意らしく、滑れないのが自分だけというこれまた意外な事実にムキになった。上級者コースで滑ろうとした親友に対しここぞとばかりに上官命令を持ち出して訓練を開始した。こうなった角松を誰も止められない。というか止めてくれる者がいない。普段真面目で頼りがいのある副長がドジッ子キャラに変身を遂げたのである。これに萌えあがらないものは「みらい」に存在しなかった。
 角松は一生懸命なのだが、それでも雪まみれで転ぶという経験すら楽しくてしかたがないらしい。滑ったり転んだりするたびに大げさに悲鳴をあげ、げらげらと笑った。

「スキーでここまで楽しむ奴ってのも、今時珍しいよな」

 絶対筋肉痛になるぞあいつ、と尾栗は苦笑した。菊池も同意する。

「…かわいいじゃないか」
「ま、そうだけどさ」

 尾栗は肩を竦めて周囲を見回した。気がつけばどうも妙な空間ができあがってしまっている。「みらい」の者たちだけではない、一般のスキーヤーまでが角松に注目していた。

「熱いねぇ」
「雪が解けたらあいつのせいだな」

 ぎゃー、とまた悲鳴があがった。こーへー、まさゆきーと助けを請う声。えすおーえす!
 大変、姫が救助を要請しています。二人の男は顔を見合わせて、救助へと向かった。





3:君と一緒にこたつでみかん



 どうしてあくびがでるのかな。くはぁと大きな欠伸をひとつして、角松はそのままごろんと横になった。下半身はすっぽりとこたつの中でぬくぬくしている。特に眠たいわけではないが、でもなんとなく眠い。半端なまどろみの中で舟を漕いでいると、部屋の主である如月が買い物から帰ってきた。カチャン、とわざと音を立てて鍵を閉めることで帰宅を知らせている。わずかな床のきしみすらさせずに歩く男にいちいち驚いていた頃はもう過ぎたが、知らないうちに背後を取られていたりするので油断はできない。心臓が嫌な感じで高鳴るのだ。お前はどこのホラーだと文句のひとつもでてくるというものだ。
 スラリと、これはさすがに音がして障子が開かれた。如月はこたつに潜り込んで丸くなっているやけに図体のでかい猫を無言で見つめた。
 おかえり如月ーと間延びしきった声で、顔もあげずに角松が言う。人に買い物に行かせておいてとっていい態度ではないが、それを気にする角松でも、如月でもなかった。

「角松、みかんだ」
「ん」

 買ってきたばかりのみかんを籠に入れ、こたつの中央に置く。正しいみかんの位置だ。
 角松はむっくりと起き上がると、早速ひとつを手に取った。
 手を洗いコートを脱いだ如月が対面に座る。角松が足を伸ばした。如月の足に当然ぶつかる。
 ズボンの裾から足指を潜り込ませてくすぐってみても、如月の表情は何ひとつ変わらなかった。

「角松」
「ん?」
「退屈なのか?」

 悪戯を止めない足を、如月の足指が器用に抓った。くくっと角松の喉が鳴る。

「そうかも」
「そうか…」

 ふわっと如月が微笑した。めったに拝めない笑顔に角松はドキリとする。ひどく穏やかなそれは、なぜか角松にわずかな不安を抱かせた。如月は歳の割りに妙に老成してしまっているがゆえに、こういう他愛ない日常というものと無縁だったのではないかと思う。公園で猫まみれになるほど猫が好きなくせに、けして飼おうとしないのは、いつ自分が消えてしまってもいいようにと思ってのことなのではないだろうか。誰も、角松すらも、如月克己の本当の姿を知らない。彼の内側には誰も入れない。

「幸福だな」

 ぽつり。如月が言った。ここにいるにも関わらず、ガラス一枚隔てた世界を眺めて満足しているかのように。
 角松はこたつに手を突っ込むと如月の足を捕まえて引っ張った。足の裏を思いっきりくすぐってやる。

「かど、まつっ」

 如月が体をくねらせて身悶えた。笑い声があがる。がたがたと揺れるこたつの上からみかんがころんと落ちた。





4:クリスマスの準備をしよう



 白と黒の正装を着た如月に、角松は面食らった。

「…なんだそれ」

 口から出てきた実に正直な疑問に、如月は姿見から目を離さずに答えた。

「24日の準備だ」

 世間ではクリスマスイブ。冬の一大イベントだ。角松は妻子もちの自分をアッサリ棚に上げて腹を立てた。

「クリスマスだぜ、どこいくんだよそんなカッコで」
「米内さんの名代で、晩餐会だ」
「ばんさんかい?」

 耳慣れない、なんとなく上流階級の香りただよう単語に角松は素直に驚いた。米内の名代というのはまあわかるとしても、この現代日本において、いまだにそんな世界があろうとは。

「今時そんなもんがあるのか」
「社交界というのはこれでずぶとくてしぶといものだし、厄介なことに日本経済に根を張っている。こういうことも、仕事のうちだ」

 如月は面倒だと言わんばかりだ。

「それに、どうせあんたは帰るんだろう?」
「う。あ、ああ」

 角松洋介の家は、当然ここではない。帰りを待ちわびている妻子がいるのだ。自衛官といえども年末年始の休暇くらいある。帰れないと言えば、2人がこちらに来てしまうだろう。
 シュッと白手袋をはめて、こんなものかと如月は言った。
 角松もそう目が肥えているわけではないが、その燕尾服は如月のために仕立てられたものなのだろう。無駄なところが一切なく、動作の一つ一つに艶さえうかがわせる。彼は普段から色彩が豊かなものを身につけていないが、純白と漆黒のコントラストは如月克己をいっそう美しく際立たせた。
 うっかり見惚れてときめいてしまったのがバレないように、角松は目をそらした。くそ、かっこいいじゃないか。如月ひとりで社交界などというところに行かせて、変な虫がついてきたらどうしてくれる。角松は今ここにいない如月の育て親である米内に自分で行けと言いたくなった。ようするにむかついた。

「どんなことするんだ?晩餐会って」
「見栄の張り合いだ」

 如月は容赦なく一刀両断した。

「着飾った女性をエスコートして、食事と談笑。腹の探りあいをして気が向けばゲーム」
「…死ぬほどうんざりしそうだ」
「今からうんざりしている。…マシなのは、ダンスくらいか」
「ダンス?」

 角松はお世辞にも上手とはいえないまでも、ダンスができる。防大での授業に含まれているからだ。卒業式には他校との交流目的で(実際には男ばかりの世界に行くんだから今から唾くらいつけておけという意味合いで)プロムナードが催される。そこではパートナーと踊るのだ。どうでもいいことだが防大にはダンス部が存在する。

「笑って踊っているだけでいいからな」

 鼻で笑うように如月は言うが、しかし手を取り合い体を密着させるのだ。角松の機嫌は一気に急降下した。息を合わせて踊る女性の香水でもつけて帰ってきた日には嫉妬でどうにかなりそうな予感がする。すごく厭だ。ものすごく不愉快だ。
 角松は如月の手をとった。
 目を丸くする(といってもわずかにだが)如月に一礼してみせる。みるみるうちに如月の顔が赤く染まった。くちびるが引き結ばれた。肩が小刻みに震えている。

「ま、さか。そう、くるとは…」

 そこまでいって、如月は吹き出した。笑われるだろうとは思っていたが角松には笑い事ではない。自分でもちょっと気障すぎるとは思ったのだが他人と踊る如月を想像するとむかむかするんだからしょうがないじゃないか。むっつりと怒っている角松にすまないと笑って、如月も礼を返す。
 祭りごとはいつだって、準備のほうが楽しい。当日の切なさを封じ込めて、2人は見つめあった。





5:聖夜を一緒に



 クリスマスを誰とすごすか。
 家族と答えてしまえるほど菊池雅行は子供でも、健全でもなかった。かの神様とその息子を祭っている国でならそれで構わないというか、それこそが正しいすごし方なのだろうが、ここは商魂たくましい日本だ。恋人と、と言ってみたい。それでなければ、好きな人。
 洋介、クリスマスはどうするんだ?
 何気ない世間話のついでに、訊いてしまえばいい。そう思ってはいるものの、菊池はなかなか言い出せなかった。クリスマス、一緒にいないか?たぶん角松はOKしてくれるはずだ。なぜなら2人はつきあっているのだから。
 まだ学生の身で、それも将来自衛官の幹部となるべく防大に所属している身で、おおっぴらにつきあっていると宣言するのはさすがにまずいだろうと、2人の交際は親友の尾栗を除いて極秘になっていた。尾栗とは休日の部屋を共同で借りているので隠したところで無駄というか、物分りの良い彼は緩衝材として非常にありがたい存在であった。2人なら怪しまれても、3人だとバカやっているようにしか見えないのだ。何より尾栗ならば、誰にも言わないだろうという信頼があった。
 問題は、角松と菊池の距離、それも心理的な距離に、勘付く者がいるのではないかという懸念だった。角松は学生長という立場もあって周囲から頼られる存在である。非常に目立つのだ。また、本人は気づいていないが、菊池と同様の目で彼を見る者や単純に憧れを抱く者が多いので、菊池としてはいっそバラして追い払いたいと思うこともしばしばだった。

「雅行、聞いたか?」

 内心頭を抱えて悩んでいる菊池に、のほほんと角松が話しかけてきた。やけに楽しそうだ。彼には悩み事などないのかもしれない。悶々と、この『おつきあい』をさらに進展させ深いものにしたいのは自分だけなのだろうか。菊池は俺もしかしてむっつりなのかとまた別な意味で悩んでしまう。

「いや、なにをだ?」
「康平のやつ。…彼女できたって」

 後半部分が小声になったのは、男所帯で彼女持ちというのがどれほどやっかみを買うのかわかっているからだった。

「え、本当か?」

 一体いつの間に。驚く菊池に本人に聞いたから間違いないと角松は胸を張った。

「合コン企画した甲斐があったというもんだ」
「…合コン?」

 そんなことしてたのか。知らされていなかった菊池は単純に拗ねた。企画・立案したとなれば当然角松も参加したに違いないのに、自分に何ひとつ悟らせなかったのがまた悔しい。そんな菊池に気づくことなく角松が笑う。どことなく、悪い笑みだ。

「あいつ独りだけほったらかしっていうのも、悪いだろ」

 角松はすばやく周囲に目を走らせ、誰もいないことを確認した。キスを強請るように恋人に囁く。

「これでクリスマス、…2人っきりだ」

 菊池雅行の恋人は、彼よりも大胆で、そしてしたたかだった。





6:あけましておめでとう、初詣に行こう



 ゴォン…と除夜の鐘を鳴り響かせたのはTVだった。あけましておめでとうございますと着飾った女性アナウンサーが告げている。どうか今年一年もよろしくお願いします。画面が切り替わって全国のお正月風景を映し出した。雪の降り積もる中にも関わらず、大勢の参拝客がつめかけている神社。なんて平和な日本のお正月。

「なー、初詣どうする?」
「近所の神社でいいんじゃないか」
「俺靖国に行ったことない。行ってみたい」

 上から角松・菊池・尾栗のセリフだ。え、お前行ったことないのか?と角松がゴロリとこたつの中で体勢を変える。その顔はさすがにもう眠いと訴えている。そういえば俺もないと菊池も続けた。お前ら関東育ちなのになんで行ったことないんだ。そういう洋介はなんで?俺はじいちゃんに連れられて。ああそっかー。
 そんなやり取りの末、3人は靖国神社へ行くことになった。途中電車内でそろって眠りこけてしまい、乗換駅を過ぎてしまったのは、まあお約束だろう。

「…来るんじゃなかった」

 まだ夜も明けきらないというのに参道までの道からすでに混んでいる。尾栗をして人の波に怖気づかせるほどだ。毎年恒例の行列なのだろうさすがに人員整理が行われているが、参拝するまでどれくらい待つのか、見当がつかない。

「はぐれないように気をつけないと…」

 という角松の忠告は、親友には届かなかった。時すでに遅し。彼が親友だと思って話しかけた相手は見知らぬ他人で、呆気にとられている相手にすみませんと頭を下げる恥ずかしいことになった。
 周りを見回しても人が多すぎて誰が誰だか判別がつかない。おまけに人員整理の係員が列になってお進みくださいと叫んだ。仕方なく、角松は列に入り前に進んだ。はぐれてしまったが、帰る部屋は同じなのだ。小さな子供じゃあるまいし、心配することもないだろう。
 参拝を済ませ、さて帰ろうと人ごみを抜けた時だった。

「…角松さん?」

 誰かが彼を呼んだ。振り返ると、そこには信じられないといわんばかりの表情を浮かべた日本海軍の第2種軍装を着た男が立っていた。
 咄嗟に角松が思ったのは、祖父の知り合いだろうかということだった。しかしすぐにこんなに若い人がいるはずがないと否定する。彼はどう見ても角松より年上、階級をみれば少佐だから30と少しだろう。
 彼は他に何も見えないというように角松だけを見つめている。琥珀色の瞳が感動に潤んでいた。

「…こんな、ところで会えるなんて」
「………?」
「角松二佐、会いたかった」
「二佐?」

 人違いだ。自分はまだ学生にすぎず、当然ながら男と会ったこともない。だがそれを言う前に男の指先がまるで慈しむように伸びてきた。

「あの、」
「会いたかった」

 ただそれだけだと、きっと彼は自分と会うためだけにここにいたのだ。なぜだか角松はそう思った。
 男が何か言っている。声は吹く風に遮られて角松まで届かなかった。至近距離が遠い。薄紅色の風がどうしても越えられない壁となって2人の間を遮っていた。英霊が泣いている。桜よ桜、花吹雪。
 呆然と、角松は立ち尽くしている自分に気がついた。

「洋介!」
「…康平、雅行」
「良かった、見つかって。…どうかしたのか?」
「迷子になって途方に暮れてた?」
「…アホか」

 夢だったのだろうか。どこを見ても目立つはずの第2種軍装はどこにもいなかった。

「なあ、これからどうする?」
「どうせなら初日の出も見ておきたいな」

 どうやら親友2人は眠らない気満々らしいと悟って角松は苦笑した。気を取り直して屋台をひやかし、自分たちと同じく初日の出を拝もうという人々の群れに混じって移動する。標高はそう高いわけではないが、都心部から離れた山はそれなりに見晴らしが良い。日の出を見るにはもってこいだ。
 薄く明るくなっていく天を見上げた。本日は晴天なり。少し風が強い。途中でもらった甘酒が美味しかった。
 ゆっくりとオレンジ色の光が昇りはじめると、人々から歓声が上がった。思い思いに祈りを捧げる人々に混じり、角松も瞑目する。

 ――いつかあの人に、また会えますように。





7:秘事始(ひめはじめ)



「じゃーんけーん」

 ぽん。

「あいこでしょ」
「あいこでしょっ」
「…………」

 角松はあきれ返って目の前の親友を見つめた。
 手に持ったスーパーのビニール袋が妙に重い。正月も2日になり、朝から(どころか、年末から)飲んでいた3人は、先ほど緊急事態に陥った。ようするに買い置きの酒がなくなったのだがこの寒空の中を、さて誰が買いだしに行くという問題で、貧乏くじを見事引き当てたのが角松洋介その人である。まあ理由というのが一番飲んでいるというものだったので多分に自業自得だったのだが、誰より飲んでいた彼が一番酔いが浅いというのも不幸だったろう。
 お正月大セールといって、スーパーマーケットは開いていた。さすがは日本である。角松は酒と、ついでにつまみを見繕って購入した。
 そして帰ってきてみれば親友がなにやら真剣にじゃんけんしているという奇怪な現象に遭遇している。
 2人は何度もあいこを繰り返し、仕切り直しをしてはまたあいこを繰り返していた。素晴らしいシンクロ率である。

「あーいこーでしょっ」

 もういいかげんにしろとばかりに出された手は3つ。パーが2つに、チョキが1つ。勝者、角松洋介。
 2人は割り込んできた手にギッと睨みつけてきたが、正体を知るとホッと肩を落とした。

「なにやってんだよ2人とも」

 酒買ってきたぞとスーパーの袋を掲げた角松に、抗議を申し立てたのは尾栗だった。

「ありがと。それよか邪魔すんなよ洋介。今どっちが先か決めてるんだから」
「なにを?」
「ひめはじめの順番に決まってるだろ」
「…ひめはじめ?」
「正月最大のイベント、ひめはじめ!どっちが先に洋介を抱くか、公平にじゃんけん勝負」
「………?」

 いやそもそも、ひめはじめは一体いつから正月最大のイベントになったのだろうか。もっと秘めやかに行われるべきではないだろうか。男同士でも姫というのか。いくつもの疑問が頭の中を駆け巡る。しかもなんだかやることが決定済みだ。本人の了承を得ていないのにこの意気込み。もっと健全なことにそのパワーを振り向けたら、もっとすごいことができるのではないのだろうか。角松は思ったが彼は賢くなにも言わずに留めておいた。ここでツッコミいれようものならひめはじめの重要性を2人がかりでこんこんと説明されそうだ。さすがに新年早々親友からそんなことを聞かされた日には、新年早々に親友をやめたくなる。あなた、ひめはじめやめますか、それとも親友やめますか。ちょっと古いがそんな感じ。ある意味究極の選択。

「……そうか…」

 遠いまなざしを2人に投げて、角松はこたつに潜り込んだ。2人は角松が納得したとみるやじゃんけん大会を再開する。これに疎外感を感じてしまう、俺って毒されてるなぁと思う。じゃーんけーんぽん。あーいこーでしょ。

「…がんばれー」

 力ない励ましの先で、TVは箱根駅伝を映していた。





8:雑煮が食いたい



 正月になると雑煮が食いたくなるのはなぜだろう。

「…正月だからではありませんか」
「日本人だな」

 潮風が強い。外套と手袋をしている部分こそあたたかいが、潮風にさらされている顔が凍りつきそうなほど冷えていく。それすら心地よく感じてしまうのは、船乗りの本能だろうか。
 そういえば今日は一月一日だ。せっかくだし初日の出を拝んでおくかと角松洋介中佐が誘ったのは草加拓海少佐だったが、話を聞きつけた乗員たちが我も我もと集まり、当直者以外の者たちが勢ぞろいして外甲板に集まった。

「晴れて良かったなぁ、これならお天道様もよく見える」
「富士がないのがちょっと残念ですね」

 日本人特有の風情だろう、誰かが詩的なことを言った。
 空は快晴。白々と明け始めた空から星が消えていく。変わりに水平線が光り輝く。角松は時計を見た。もうじき日の出の時刻だ。
 やがて空と海を朱に染め上げながら、ゆっくりと太陽が顔を出し始めた。
 おお、と歓声が上がる。
 日の出が昇るのを眺めるのは気持ちの良いものだ。正月ともなればなおさらである。たとえそれが、どんな時であっても。

「…中佐は、祈らないのですか?」

 部下たちはそれぞれ手を合わせ、祈願している。その脳裏に浮かぶのは家族の顔かそれとも別の誰かか。祈りの姿というものは尊く、だからこそ願わずにはいられない。未来ある者たちの時間がどうか末永く続きますように。
 邪魔をしないように小声で尋ねてきた草加に、角松は太陽よりも輝く笑顔を見せた。

「祈らない。本当に叶えたい願いは神様には頼らないよ俺は。自分の力で掴み取ったほうがいい」
「中佐らしいですね」

 では自分もそうします。目の前の想い人を振り向かせ、そしていつか、掴み取った平和で豊かな国で暮らして生きたい。それは確かに自分達がやらなくてはならないことだ。戦争をしている。その先に待つのは輝く未来であると思わなければ、軍人などやっていられなくなる。草加は目を細めた。出会って恋に落ちてしまった上官は、彼らしいふてぶてしい態度で実力をみせろと言う。彼の本当に叶えたい願いを、草加は知っている気がした。この人はいつもそれを願っているのだ。自分の手の届かない悲劇に胸を痛めながらも、手の届く範囲からなんとかしようと試みる。ちいさな波紋がいつかおおきく広がっていくことを信じて。

「…あちらさんもこれを見ているんだろうな」

 呟いた。出会ったが最後戦わなければならない敵国の兵にすら、彼の想いは降り注ぐのだ。視線が合う。草加がなにもかも了解している瞳で見ているのに、角松がうなずいた。わかっていることをわかってくれていることが嬉しかった。

「及ばずながら、私も」
「ああ。頼りにしている」

 笑いあう上官たちに明るい未来を予想したのか、部下たちが晴れやかにあけましておめでとうございますと口をそろえた。

「ところで艦長は、何をお願いしたんですか?」

 2人のやりとりを知らない無邪気な問い。角松は艦長の顔で笑い、決まってるだろと答えた。

「正月なんだから雑煮が食いたい!…だ」





9:ソファの上で、ゆっくり昼寝



 このままいけば確実に、体が痛くなる。ソファの上でまどろみながら角松は思った。隣の体温が気持ちいい。子供というのはどうしてこんなにもあたたかく、抱き心地が良いのだろう。愛する夫とのいとし子は角松の腕の中で丸くなって眠っている。まるで猫のようにくんにゃりとやわらかい。このまま眠ったらさぞかし気持ちがいいだろう。懸念はあったが誘惑には逆らいがたく、冬日はさあ眠りなさいと歌うように穏やかだった。
 ピンポーンと、チャイムが鳴ったが時すでに遅く、角松の瞼は閉じられた。留守です。



「角松さん」

 草加は再度チャイムを鳴らした。いつもならすぐ返ってくる応答がないことにがっかりする。こんな時間に留守なのだろうか。
 草加の手には貰いもののいちごがあった。
 仕事始めの挨拶回りで貰ったものだが、独り暮らしの草加では食べきる前に腐らせるだろう。それを口実にして、彼は出先から隣家に直行した。賃貸マンションの隣なのだからバレたらただではすまない。おまけに貰いものをこともあろうにお隣の奥さんにあげてしまうのは、会社という枠内においてルール違反だ。普通ならば会社の皆さんへとなるはずのいちごは、しかし草加にとって真昼間から恋する人妻にあうきっかけにしかならなかった。どうやって誑かすか。人妻はいちごのように甘くはない。
 多大な期待と下心が空振りした草加は、未練がましくドアを回してみた。カチャ、と軽やかにノブはターンし、草加の前にあっけなく開かれていく。幸運に感謝しつつ草加は角松の無用心さに心配になった。もし不審者でも入ってきたらどうするのだ。今の自分がそのまま不審者であることは棚にあげて、草加は憤った。
 とりあえず靴を確認してみれば角松は在宅している。

「…角松さん?」

 もしや何かあったのかと、悪阻で倒れた角松を救助した経験のある草加は内心これ幸いと上がりこんだ。恋する男に自制というものはないらしい。
 そして草加は、陽当たり良好の窓辺のソファで子供と一緒にまどろむ角松洋介を発見した。
 想像したような火サスな事態じゃなくて良かったと一瞬ホッとした草加は、次の瞬間この状況に急激に胸を高鳴らせた。ひょっとしてこれものすごいおいしいシチュエーションなのでは。
 ソファでまどろむの子持ちの人妻。その人妻を秘かに(草加視点)恋い慕う隣の好青年(あくまで草加視点)。
 角松さん。草加はそっとささやいて冬日のおだやかな光にさらされている黒髪をそっと撫でた。疲れているのか、どこか翳のある頬。もしかしたら旦那さんと上手くいってないのかもしれない。閉ざされた目元はやや憂いを帯びているようにも見えた。慈しむ指先の感触にん…と吐息を漏らし、角松が目を開けた。ぱちぱちと瞬きをして目の前の人物を見つめる。草加さん…?問う声は起き抜けで擦れていた。どうしてここに、と体を起こそうとするのを草加は押し留めた。すみません、勝手に。でもあなたに会いたくて。草加の謝罪に角松は首をかしげた。毎朝会っているのに。おかしな奴。ふわりとまだ寝ぼけた顔のままで笑う。草加はたまらない気持ちになった。いとおしさが溢れて堰を切る。好きなんです、あなたが…角松さん。角松は目を丸くして草加をまじまじと見つめ、それから頬を赤く染めた。まっすぐな告白は角松には久しぶりで、新鮮な響きだった。夫は仕事熱心なのは結構なのだが、このところちっともかまってくれなくて淋しい思いをしていたのだと、この時になって自覚する。夫の仕事のことさえなければ草加は好感のもてる男性だった。いつからか自分を見つめる彼の目が情熱を秘めていたのを、確かに知っている。けれどもどうしようもなかった。知ったからといって、告白されたからといって、どうしようもないのだ。目をそらす角松を追い詰めないように、しかし草加は言う。…角松さん、どうか。どうか、どうかって何。今だけでもいいですから…私のことだけを考えて。そっと覆いかぶさってくる草加の胸に手をついて角松は申しわけ程度に拒んでみせた。くちづけるとビクッと硬直する。しかしそれも一瞬のことですぐに信じられないほどくったりとやわらかくなる。くちびるを強く押し付ける。胸に置かれていた手が首に回された。目をそらした角松がつややかなくちびるを動かす。夫を愛している、と。しがみつく手に、力を込めながら。

「――…っ!!!」

 草加は自分の妄想に身悶えた。角松は恥らいながらも熟れた体を草加の好きにさせている。さすがは人妻、やるとなったら積極的だ。あんなこといいな、できたらいいな。子供が傍らにいるのだが、妄想のなかでは存在しない。

「あぶないところだった…」

 もっぱら危ないのは草加ひとりである。現実の角松はもちろん、汗やその他の液体にまみれることなくそれはもう穏やかに眠りこけたままだった。
 これはいかん、ヤバすぎる。自分の妄想を理性を総動員させて抑えこむと、草加は角松からそろそろと離れた。できることなら颯爽と、何事もなかったかのように去りたかったが、どうにもこうにも無理だった。男はつらいよ。下半身が切ない。
 せめてと、草加は角松のしどけない(くどいようだが草加視点)寝姿を携帯電話のカメラに撮った。本当にありがとうございます。これからしばらくこれをオカズに…ではなくて目の保養にしてイロイロと頑張れると思います。心の中で感謝しながら。


 草加が出て行ったのを確認してから角松は起き上がった。子供を起こさないようにぽんぽんと背中を叩いてあやし、ソファに寝かせてやる。

「……ったく…」

 何しに来たんだアイツは。せっかくの昼寝を邪魔された角松は、悪態をついた。実は家の中で呼ぶ声に目が覚めていたのだった。帰ってくれというか、普通は帰るだろうと眠ったフリをし続けていたが、なにやら妖しげなオーラを醸し出している草加に目を開けるタイミングを逃した。
 草加は危険な隣人だ。その危険性が増して決壊するまえに手を打たなければ貞操の危機になりかねない。

「ゆっくり昼寝くらいさせろ」

 眠気などはるか彼方に飛んでしまった角松は、今度はしっかりと、玄関の鍵を閉めた。





10:冬の海を見に行こう



「ヤダ」

 角松はこたつにもぐりこんだまま顔もあげずに否定し、

「この寒いのにか?」

 菊池もこれまたアッサリ拒否に同意し理由を重ねた。

「ひとりで行けよ」
「元ヤンはこれだから」

 返す刀でさらに斬りつける優等生な親友2人を、尾栗は鼻で笑い飛ばした。いい若者が何を言う。

「冬の海こそ、男の海だろっ」

 全然わからん。どういう根拠なのかわからないがきっぱり言い切る親友に親友2人はあきれた目を向けた。これが冬の海で良かった。もし夏だったらさぞかし暑苦しいだろう。

「まったく海なんて一年中飽きるほど見ているのに」

 どことなく楽しそうに言いながら、角松がこたつから這い出した。

「風邪ひかないようにしろよ」

 帰りに飲みに行くかと3人分のコートを取り出して菊池が言った。
 ぱあっと満面の笑みを浮かべ、なんだかんだ言いつつ結局はつきあいのいい親友たちに、尾栗はそうこなくっちゃ!と抱きついた。


 冬の海は、予想していたよりも混んでいた。
 元々一年中いるサーファーに加えて、寒稽古に励んでいる子供たちや、寒さを楽しんでいるカップルがいたからだ。もちろん夏とは比べものにならないが、人ひとりいない海を思い浮かべていただけに少々残念だった。
 しかもなんだか尾栗の意見を肯定するように、男が多い。冬の海というのは気合いを入れなおすには絶好の場所なのかもしれなかった。
 3人はちらりと、お互いの顔をうかがった。

「どうする?」

 むずむずと笑い出すのを堪えながら、角松が口火を切った。

「…行っとく?」

 問いの形式ではあるが有無を言わせない気満々で、尾栗が続いた。

「行くかー」

 他にどうしろというのだとむしろサッパリとした表情で、菊池が同意した。

 そして3人は、

『わ―――!!!』

 大声で叫びながら実に楽しそうに、冬の海に突進して行った。