背徳の恋で10のお題
1.誰にも言えない
このところ、夜中に眼が覚める。
菊池雅行は身体の奥にこもった熱と咽喉の渇きに耐えかねて半身を起こした。ため息。
そっとベッドを降りてスリッパを履く。連日の夜中の覚醒に疲れきっている身体が今夜も持ち主に抗議する。眠い。
頭は冴えているのに身体が重たい。中途半端な眠りにイラついていた。
ゆっくりと足音を立てないように、彼は親友のベッドを覗き込んだ。
上掛けを半ばまで跳ね除け、片手を胸に乗せる体勢で角松洋介は眠っていた。
顔は反対側を向いていて、横顔しか窺うことはできなかった。暗闇の中で白くぼんやりと浮かび上がる、何も知らずに眠る顔。
「…………」
菊池はしばらく角松を見つめてから、部屋を出た。眠る顔に触れたいと疼く指や名前を呼ぼうとする口を理性で押し込めて衝動をやり過ごすために。
呼べば角松はすぐに起きてくれるだろう。触れるだけでも、きっと眼を開ける。彼はそういう男だった。
夜の生ぬるい空気を裂いて歩く。目的地はトイレだ。先に『使用者』がいたのか、換気扇が回り窓が僅かに開けられていた。にも拘らず、微かに残る独特の青臭い臭い。若いというのはただそれだけで厄介だ。菊池は自分も同類かと苦笑いを浮かべた。違うのだろうと頭の片隅で思った。同類が思い浮かべていたであろうやわらかくてたおやかな肢体ではなく、自分の相手はこともあろうに親友なのだから。
自覚した時の戸惑いや自分への嫌悪は、即物的な快感を知ってしまえばあっさりと流されてしまった。洋介、と声には出さずに囁き、彼の悶え乱れる様を思い浮かべて手を動かす。罪悪感があったのは最初の頃だけで、今ではこれだけで済んでいることに安堵するほどだ。
咽喉の奥で呻く。一瞬身体が張り詰め、手の中にねっとりとしたあたたかいものが放たれた。トイレットペーパーでそれを拭い、水で流した。息が整うのを待って個室を出る。
手を洗う。正面の鏡に映った自分にぎこちなく笑ってみせる。大丈夫。まだ俺は大丈夫だ、と。
少しずつ少しずつ。体内の細胞が新陳代謝を繰り返しているように目には見えないほどの速度でゆっくりと、自分は壊れていっているのだろう。誰にもいうことのない恋心。親友2人にはもちろんのこと、昼間の自分自身にさえ自覚を促すことはできない。もういよいよダメだと悟ったら逃げ出そうと菊池は心に決めていた。
「…どうしたんだ?」
気遣わしげな潜められた声が部屋に戻った菊池にかけられた。角松だった。
ベッドに潜り込んだまま、顔だけを彼に向けている。それがどれほど危険なことなのか、角松にはまったくわかっていない。
菊池はやや目元を染め、困ったようにトイレと答えた。それだけで事情を察した角松がちょっと目を丸くして、それから気まずそうにそっか、と言った。それっきり、何も言わなかった。
抱いて欲しい、と今角松に言ったらどうなるだろうか。菊池は想像する。きっと、莫迦なことを言うなとたしなめられるだろう。そうなったら自分は、外聞もなく泣いて懇願し、彼に縋ってしまうかもしれなかった。そして、そんなことをするくらいなら死んだほうがマシだと思った。菊池は片手で口を押さえ、苦々しいものを嚥下するように咽喉を動かした。薬指を噛む。
角松洋介を騙して誘い込み、目を塞ぎ抵抗を捻じ伏せて無理矢理犯してしまいたい。壊れた細胞が彼に囁く。いつかお前は、それを実行するだろう。
2.恋人同士の逢瀬はほんのわずかな時間だけ
角松洋介と会うのは、なぜこうも命がけなのだろうか。それを含めて楽しんでいる自分を知っていながら、如月克己は内心で悪態をついた。欲張ってはいけないと思いつつももっとゆっくりとした時間を彼と過ごしてみたいと願わずにはいられない。せめて僅かでもこの時代を楽しむゆとりを、彼に与えてやりたかった。
それが不可能であることなど承知している如月はだからおくびにもださずに角松の話を聞き、自分の為すべきことを確認した。別にわざわざ角松が陸にあがってまで直接如月に伝えるべきことではない簡単なこと。何かと目をつけられている角松ではなく、たとえば暗号などを使った伝言でも構わないのに角松は直接言いに来る。それは角松自身のきわめて個人的なわがままからきている行動だったが、如月は知るよしもなかった。気づかないフリをしていた。
ゆるゆると、弓が張り詰めていくように空気が緊張していくのをお互いに感じている。
とうとう角松の声が途切れた。
如月は切なさに傷む胸を押し殺して密やかに息を吸い、努めてなんでもないことのようにうなずいてみせた。
「――了解した。…では、また」
深くかぶった軍帽の下の黒い瞳がただまっすぐに自分を見つめている黒い瞳とぶつかった。ぷつんと何かが切れる音。そして、胸の奥に何かが命中した。
くちびるが、重なった。
ほんの一瞬の恋人との逢瀬で、2人は確かな想いが交錯したのを理解した。
3.モラルに逆らうというリスク
「お前さ、帰らなくていいの?」
と、尾栗が言った。
「そっちこそ」
と、角松が応えた。
カチン、とグラスを重ねること早数回に及んでいる。久しぶりに会う親友3人組はひとり減って2人になっていた。先に酔いつぶれた菊池はタクシーで帰っていった。尾栗がまた、質問をした。ごく他愛のない、世間話だ。
「一洋くん、いくつになったんだっけ?」
「5つだ。生意気盛り。幼稚園の悪ガキに汚い言葉を教わってきてはうちのに叱られてる」
そっちは?と角松が尋ねた。子供の我儘ぶりを思い出したのだろう、優しい笑顔になっている。
「うちは、まだなんだよな〜」
尾栗のところにはまだ子供がいない。夫婦仲は極めて良好なのだが、タイミングが悪いのか他の理由か、一向に気配すら見えないままだった。女の子が生まれたら角松の息子と結婚させると息巻いていたのだが、今のところそれは果たせそうにない野望だ。
「…で、いいの?」
「何を今さら」
学生時代から続く「悪い遊び」は、結婚しても子供が生まれても、止める理由にはならずにいた。常識も、それを知ったら悲しむだろう人のことも、互いに燻ぶっている火を熾す風にしかならなかった。2人にとってリスクは足枷ではなく、楽しみのひとつだった。胸の痛みに流す涙でさえ。
4.ばれてはいけない
こうも退屈な日々を倦むことなく過ごすことができるのは、常に冷静沈着な特務中尉がいてくれたおかげだろう。目下のところ絶対安静を言い渡されている怪我人にとって、如月克己の存在は得難い友人であり、外界へと繋がる目であり耳でもあった。
「…船の手配が済んだ」
「そうか……」
如月は相変わらずの無表情で、角松に感情を悟らせなかった。定められた別離に肩の荷を降ろした気分なのか、それとも名残を惜しんでくれているのか。どちらなのだろうと思う。
そういう自分はどうだろう。角松は思った。如月といる時に感じる安心感。それに浸ってしまいたい自分を角松は懼れた。守る側の自分が守られる側に立つわけにはいかない。けれど。
この男を手放したくない。求めれば、おそらく如月は応えてくれるだろう。角松は自分を戒める。ばれてはいけない。ゆっくりと胸に満ちてゆく想いが何であるか、角松はとっくに気づいていたが、それに名前をつけてはいけない。自分にも、如月にも、知られてはいけないものだった。
如月は器用に新聞をたたみながらそっと角松を窺った。そうかと呟いたきり目を閉じた彼の中に自分の求める色を探してしまいそうで、如月は彼から新聞へと目を戻した。それはどれだけ願っても詮無きことなのだ。
角松と日々を過ごすうち、如月は自分が変わっていくのを自覚するようになっていた。止めようもなく、心が優しくなっていく。角松の些細な願いもどんな我儘でも、叶えてやりたい。
俺にまかせておけと言いたくなるのを如月は戒めた。少なくとも職業軍人に言っていい台詞ではない。ばれてはいけない。仕事だけの関係にしておかなければならない。その手を戴いてどうか俺を望んでくれと懇願してしまいたくなる。
ばれてはいけない。大丈夫、この胸を刺す痛みは数日後に迫った別れの時までだ。すぐにまた多忙の日々が始まり、痛みは忘れることができるだろう。
とっくに気がついている互いの胸の内を必死で守りながら、2人は呪文のように自分に言い聞かせている。
5.自分のものだと言えたら
好きだ、と告白することができたら、この胸の痛みは少しは治まるのだろうか。菊池は思った。きっとそんなことはできはしないのだ。告白することも。できたとしても、この苦しみから解放されるとは到底思えなかった。
何故かという説明などできないが、角松洋介という彼の親友は菊池雅行にある種の焦燥を抱かせた。小・中・高とほぼトップというエリート街道についに現れたライバルということにはならなかったのだ。世間は広いだろうという覚悟は彼の中にあったのだから。そのほうが本人にとってよほど平和であっただろうが、そうはならなかった。
覚悟していなかったのは、その相手を、しかも同性の、さらにいえば親友にまでなった男に恋をしてしまうという事実にであった。その上何故か、もう1人の親友と3人で膚を合わせているというとんでもない関係にまで陥っている。考えるまでもなく、理性より欲望が勝った結果だ。人、これを泥沼という。
「…洋介、何読んでるんだ?」
3人で借りている休日の為の部屋。いつの間にか決まった自分のスペースに横になり、角松は手に持った便箋をひらりと振った。ブルーとグリーンの中間のような、淡い色の和風の便箋だった。
「ラブレター」
「な……っ?」
「マジ!?」
同じくゴロゴロしながら漫画を読んでいた尾栗が実に楽しげに跳ね起きた。角松は苦笑し、尾栗に引っ手繰られる前に便箋をたたんだ。
「今時レトロな奴だなー。男?」
「男」
うなずいて、どうしたもんかと2人を窺った。苦笑している。尾栗がぴゅうっと愉快そうな口笛を鳴らした。
「断るのか」
「あたりまえだ」
名前を見ても顔を思い出せないような奴とつきあうほど暇じゃない。ミもフタもない言い方だが、親友相手だから言える遠慮のなさでもあった。
「わざわざ手紙書くのもメンドーだし、直接言うか」
断りの文句といえども相手への配慮を忘れない角松だったが、いいかげんネタが尽きる。よくあることなのだ。まったく羨ましくないが。
羨ましいのは、角松にラブレターを書いた、その男だった。菊池は彼に嫉妬した。菊池がけして持ちえない勇気の持ち主に対する嫉妬であった。菊池にはこの親友三角関係のバランスを崩してしまうだけの度胸がなかった。
一度でもいい。角松と愛を語らってみたかった。尾栗のいない2人きりの空間で、愛していると言ってみたい。キスをして、抱きしめて、お前は俺のものだと。ただ一度でも。
それが叶わなぬ夢であることを充分知っている菊池は、キリキリと締め付ける胸の痛みに、そっとくちびるを噛んだ。
6.公衆の無責任な言葉の針
如月の立場は俗にいうところの『愛人』となる。別の言葉で表すなら『2号さん』であるし、悪い言い方をすれば『男妾』ということもできる。あんまりよろしくない言葉のオンパレードだ。
だから、というつもりはないものの、角松は部下たちに如月を紹介していなかった。その土地土地に愛人を抱えているというのは船乗りの夢であるが、角松は自分達が彼らの想像しているのとは違うことを自覚している。つまりは夜の立場だ。
「…そんなこと、言わなければいいだろう」
「そりゃそうだが、お前はそれでいいのか?」
絶対に、如月が抱かれる側だと思われているだろう。まあいつもの副長を知っているものにしたら、逆を想像するのが難しいことではあるが。
「別に構わない…が、あんたがそんなに気になるなら手を打とう」
後半のセリフはよく聞き取れなかった。だが如月がどうも不穏なことを考えているのはなんとなく角松にもわかった。
しかしだからといって、航海演習の監査官にどういうわけかなりおおせ、こんなにも堂々と顔を出すとは、一体誰が予想できただろう。
顔合わせの時に角松が思い切り「如月!」と叫んでしまったため、如月克己特別監査官が「あの」如月克己であると、一気に艦内に伝わった。上官のゴシップなどという面白いことを、娯楽に飢えた船乗りが逃すはずがない。
だが誰も、2人の関係について深く尋ねてくるものはなかった。
なぜなら、興味津々にインタビュアーよろしく訊いてきた航海長に、如月は彼らしい、あくまでも真面目くさった表情で、こう言ったのだ。
「洋介と離れているのがイヤで、来たのか?」
「そうだ」
きっぱりと言い切り、笑顔のまま凍りついた尾栗(+周りで聞き耳を立てていたその他大勢)にとどめをさした。どうでもいいことだがこの後しばらく、尾栗康平3等海佐は『後悔長』とあだ名されることになる。
「あまりプライバシーには詮索してほしくない。私も特別、誰かを不幸にしたいとは思わないので」
さて、考えるまでもなく、航海演習に一般人が参加できるはずがない。ましてや監査官などという立場になど不可能と断定しても構わないだろう。
つまり如月がその気になりさえすれば、誰かを不幸のどん底に陥れることも容易である(それがどのようなものかは想像するしかないが)ということだ。
如月克己が何者であるか、恋人である角松でさえ正確なところは掴んでいないが、只者でないことは全員が理解した。
結果は角松が望む以上の効果であった。2人の関係に誰も口を挟んでこないし、あのような人物を愛人としていることに、尊敬の眼差しすら向けられる始末だ。
角松はよくやってくれたと褒めるべきか、やりすぎだと怒るべきか、半分の気分を味わう羽目になった。同時に如月の果断さに舌を巻いた。公衆の無責任な言葉の針。そんなものは折ってしまえば痛くも痒くもないのだった。
7.理解者
私は彼を理解している。他の誰よりも、そう、たとえば彼の艦長や2人の親友たちよりもずっと。草加拓海は確信に近い強さでそう思っていた。
だが彼は自分を理解してくれているのだろうか。ふと湧き上がった疑問は黒い染みのように草加の心に染み付いた。
そっと、懐の銃を確認する。
なぜこんなことになったのか。常に対極に位置した草加と角松の道程。ぶつかることはあっても重なり合うことはなかった。草加は自分の来し方を振り返る――角松に救われる以前の自分であったら発狂しているだろうほどの血塗られた道だ。しかも、その血のなかには自分を慕い、ひたすらに信じ、尽くしてくれた後輩までもが含まれている。死んだはずの自分が叫ぶ。同朋を犠牲にしてまで進むのか。過去は容赦なく彼を責め立てた。どれほどの犠牲であろうとも、それは大日本帝国という国へであって、だからこそ戦士の御霊は靖国へと還ることができるのだ。草加の「ジパング」にではない。草加の計画による死では、彼らはどこへ還るのだろう。たとえ今際の際に思い浮かべ、くちびるに乗せるのが母なり妻なりであったとしても、魂の価値に変わりはないのだ。それを思う時、草加はいつもたとえようのない自己嫌悪に襲われる。死んでしまったものが生き返ることなどけしてない。だが、仕方がないなどと、どうして言えるものか!
――角松さん。
自分はなぜ生きているのか。そう思うたびに草加の中に染み付いた角松の鼓動が体中で鳴り響く。生きろ、と。
どうしてこんなことになったのだろうか。何が2人の道を分けたのか。やり直すことなど今さらできるはずもなく、しかし考えずにはいられない。
私は角松洋介を理解している。草加は目を閉じた。懐の中で体温を吸ったはずの凶器は、しかし痛みを覚えるほど冷たかった。角松の鼓動が草加の中で叫んでいる。生きろ。生きろ。生きろ。きっと本人と対面しても、彼は草加に向かって言うのだろう。
「…だから私は、あなたに捧げよう」
草加は呟く。静謐な眼差しが、自らが生み出した最悪の凶器に据えられた。
8.いつかあきられるかもしれないけど
如月との逢瀬は、いつも慌ただしい。というより、会うのがまず大変である。
それが自分のためだと思えばこそ、角松も耐えることができた。忙しくしていれば彼を思い出すことのない日だってある。薄情なことだとは思うが、べったりと仲の良いだけの関係ならまだしも、いい歳こいた男同士の恋愛だ。そんなものだろう。
だがその分、ふとした瞬間に思い出す切なさは、角松の人生の中でもっとも強いものだった。人ごみのなか、気がつくと見慣れた顔がないか捜していたり、潮の香りにあの乾いた土埃の混じる大陸の匂いを感じていたり。
どれほど遠く離れていても、確かに守られているという安心感が胸を突く。これほど自分に尽くしてくれている男に対し、自分がなにをしてきたか。ジレンマと罪悪感。そんな時、角松はこんな想像をして自分を慰めた。角松洋介から解放された如月克己は、彼に似合いの年若い娘を娶り、子供にも恵まれ、家族にかこまれて幸福に暮らす、そんな想像だ。
いつか、遠くない未来にきっと自分たちは別れねばならないのだろう。戦時下の中でそんなことをしている場合ではないとか、他に好きな人ができたとか、単純に飽きてしまったという理由でもいい。別れる理由など本人たちにすらわからない時だってあるのだ。
だが、自分の見ていないところで死んでしまう。そんな終わり方だけはやめてくれ。角松は目の前にいない恋人に、ただそれだけを願った。
9.逃がすものか
恋愛はゲームに似ている。逃げられたら追いたくなるし、追われたら逃げたくなる。今この時のように。
草加は自分に銃を突きつけている角松に銃を突きつけながらそんなことを考えていた。
やっとここまできた。ほとんど安堵に近い感覚で思う。もう逃がさない。その覚悟をもって草加はここに立っているし、同様の決意をもって角松も対峙していた。
はたして追い詰めたのか追い詰められたのか、どちらなのかはわからなかったが自分の目の前にいなければならない人が間違いなくいるという事実に草加は幸福を覚えた。いままで味わったことのない幸福感であった。
草加は優雅に微笑んだ。それを受けた角松も勝ち誇ったように笑った。
ああ、そうだ。恋愛は、戦争にも良く似ている。
10.好きです、何があっても
くすくすと耳障りな笑い声に、滝は眉を寄せた。傍らの、案内を務めている男に目で問う。彼も同じく眉を寄せ、ため息混じりにこれが毎日のことであると答えた。滝はますます眉根の皺を深くした。
「…草加」
滝の呼びかけに、笑い声がぴたりと止んだ。
コツ、と何かを置く音。少し待っていてくださいと聞きなれた草加の声が聞こえた。
そして、狭い窓から場違いなほど快活な草加拓海が顔を見せた。
「やあ、滝中佐。いや、もう大佐に昇進したのだったか?」
「…大佐だ」
「お元気そうでなによりだ」
「フン、お互いにな」
滝は案内人を下がらせた。男はしばらく躊躇していたが、指示に従い失礼いたしますと頭を下げて戻って行った。
事実上幽閉されている草加は滝の知る男となんら変わることなく、明晰な頭脳と冷静な判断力を有していた。彼の能力は衰えていなかった。左目の視力がほとんどないことを除けば、草加の肉体は健康そのものだった。
滝はあえて部屋の奥を覗き込まないようにしつつ、視線を草加の口元に留めた。彼の瞳を覗き込んだが最後、2度とここを訪れようとは思わなくなるだろう。草加の頭脳を必要としているのは滝だけではない。が、草加との面会に耐えられるのは滝しかいないのが現状であった。
滝はいくつかの相談事を草加に持ちかけた。現在の日本と世界の情勢を、滝と同様に知ることのできる草加は滝にいくつかの情報を確認すると、彼の中にある「みらい」の情報と照らし合わせ、返答した。概ね滝の考えと合致するものもあれば、予想もつかなかったが納得できるものまで。滝はつくづくこの男がここで一生を終えなければならないことを惜しんだ。
「…では、また何かあったら来る」
それは何もなければ来たくないと言っているのに等しかった。草加はまったくにこやかにうなずき、それから何かに気づいたように後ろを振り返った。
「…角松さんが、挨拶くらいしたいそうだ」
不覚にも、肩が跳ねた。さっさと立ち上がっていた滝は、部屋の奥へ行った草加が戻ってくる前に立ち去ってしまいたかったのだが、足が動かなかった。…純粋な、恐怖によって。
「………」
嬉しそうに戻ってきた草加がソレに何か言った。やや嫉妬交じりの口調で久しぶりに私以外の者と話せるので角松さんも嬉しいようだと滝に伝える。草加の態度は微笑ましさすら感じさせるほどであった――その手にあるものさえなければ。
草加が大切そうに持ち上げている角松洋介の頭部はすっかり干乾びており、一部が剥げ落ちて白い骨が覗いていた。草加はいとおしそうに彼を撫でた。ずるりと剥けてしまった髪の毛にすら目を細め、くちづける。何も映すことのない虚ろな眼窩がぽっかりと、滝を見ていた。
滝は何と言ってそこから逃げ出してきたのか(そうだ、逃げ出したのだ)、覚えていない。
なぜ草加がああなったのか。滝が知るのは断片だけで、真実は草加の中にあるのだろう。だが滝は思わずにはいられない。角松があの時死ななければ。草加が「大和」に乗っていなければ。あの時2人が出会わなければ。「みらい」が現れなかったら。それともあの時、2人が同時に死んでいれば良かったのかもしれない。
「みらい」と米軍のどちらの攻撃が決定打であったのか、今となっては定かではないが、ともかく双方からの攻撃をまともに喰らった「大和」はなすすべもなく沈没した。あの時何があったのかといえばそれだけだ。
ただ、人員がいない「大和」ではあったが、その内部では世界の命運をかけたといっても過言ではない戦いが繰り広げられていたのだ。そう、草加と、角松が。
「大和」を食い破るほどの大爆発。咄嗟に角松は草加を庇ったのだという。2人は縺れあいながら床に叩きつけられ、意識を失った。草加が気づいた時には爆発は一段落し、揺れも収まっていた。海水はいまだ2人のところまで到達しておらず、どう考えても逃げるのなら今しかない。そして草加は、自分に覆いかぶさっている角松に向けて、生きていることへのひたすら純粋な喜びの声をあげた。
「角松さん!!」
しかし応えはどこからも返ってなかった。角松は返事をしてくれなかった。草加が見上げた角松の身体、その上部にはあるべきものがなかった。噴出してくる生暖かな血液の、噎せ返るほどの臭気が鼻を刺す。それがどういうことであるのか草加が認識し、悲鳴をあげる間もなく再び爆発と揺れが来た。
咄嗟に床についた手に、濡れたやわらかいものが転がってきて、触れた。角松だった。まっすぐに、草加を見ていた。草加だけを。
草加は角松を抱きかかえて外へと脱出した。溺れかかっていた草加を救助した米軍人に、彼はこの人を助けてくれと必死になって懇願した。そうしなければ『クサカ』と話ができないと悟った彼らは相談し、一芝居打つことにした。すなわち、血まみれの角松洋介の頭部を綺麗にして、ほら、彼はもう大丈夫ですよと言ったのだ。草加はそれを信じた。信じなければ草加は生きてはいけなかったのだろう。たとえその代償とばかりに彼の中の何かが壊れてしまったとしても。
ある意味で、草加は幸せなのだろう。
草加は角松洋介と引き換えに、他のすべての自由を失った。必要であると政府が判断しない限り、他者との面会は許されていない。家族ですら例外ではなかった。あの直後、嵐によって消え去った「みらい」とその知識を吸収している唯一の人間として、草加は最重要人物になったのだった。
「角松さん。今、幸せですか?」
草加の腕の中で角松は笑い、いきいきとした瞳を輝かせる。甘い声が肯定の返事をした。
草加はうっとりとしたため息をもらし、もう何度目になるかわからない愛を彼に誓った。
「好きです――何があっても」
ガチャン、と鉄格子が閉まる音がどこからか響いた。
2人のための黄金の国に、草加だけが住んでいる。