思わず立ち止まりたくなる5題





1:石段



でかい図体に白いスーツ。人ごみのなかでもひょこっと飛び出した角松の頭は厭でも人目を惹いた。軍服を着た如月と連れ立って歩いているから軍関係者と思われているだろうが、その通りであったとしてもそんなつもりのない2人はついため息を吐いた。同時に同じ動作。2人はお互いに顔を見合わせたが、反応は違っていた。角松は少し困ったように苦笑し、如月は無表情の中にさりげなく苛立ちを覗かせた。
 どこかに落ち着く場所はないのかと角松が尋ねた。如月は少し考え、先にたって歩き出す。角松が続く。
 家々の間を通り抜ける道は次第に細く狭くなっていき、それにしたがって人ごみは遠ざかっていった。人目につくという意味では井戸端会議をしているご婦人方の遠慮のない視線があるが、数は減っていく。やがて如月は石段を登った。うすっぺらい雑木林が周囲を取り囲む。人の声は消え、代わりに鳥や虫のさえずりが2人を取り囲んだ。石段を黙々と登る。呼吸さえ乱さずに。
 如月が立ち止まった。だから角松も立ち止まり、2人は見つめあう。
 無表情の顔にはりついた瞳だけはやわらかく微笑していて、如月の機嫌が良いことがわかる。
 一方の角松は違和感を感じていた。なんだろうと考えるよりも早く、如月が言った。
 ここなら私のほうが背が高い。違和感の原因に気づいた角松が笑う。気にしていたのか。まあ、時々な。如月の手が角松の首筋を撫でた。こういうことをする時は、背が高いほうが便利だ。
 角松の視界から石段は消え、くちびると首筋に触れたあたたかさが全てになった。 





2:放課後の教室



生徒のいなくなった教室は不気味なほど静かだ。この場所はやかましいものだと耳が憶えこんでしまっているのだろう。まるで別の世界にトリップしたかのような不安感。
 夕陽に彩られた黒板、机、椅子、教室のドア。ドアを開けたまま立ち尽くす自分の身体と、窓枠に腰掛けた生徒の影。逆行で顔の判別がつかないその人物はもうシルエットだけで誰だかわかるほどの間柄だ。親友。なのだろう。
 角松は扉を開けた存在などまるで気づかない様子で窓の外に見入っている。目線の向こうはきっと海だ。彼の大好きな。唯一彼の心を捉えている、海。
 ゆっくり近づいていくとようやく角松はこちらを見た。あいかわらずの穏やかな表情。なぜだか安堵する。部活に行かなくていいのかと訊けば、今日はサボリと返事が返ってきた。放課後のわずかな練習時間を無駄にしたことのない学生長らしくないセリフ。どうしたんだと問えば、海に行きたいなどと、答えになっていないような答えが返ってきた。
彼の望むのはきっと目の前にある海ではないのだ。自由にどこまでも行ける海。わかっていたが、あえて呆れたように毎日あれだけしごかれていて足りないのかと言ってやった。角松は笑う。海のいきものに生まれてくるべきだったと言って。鯨とか?そうそう、鮫とかな。お前は鯨だろう、でかい身体をしているのに深くまで潜れる。ぷっと2人して笑いあって、角松はまた彼の中の海を見た。
「海に生まれてくればよかった」
 やさしい心と本能だけで生きることのできる海のいきもの。同族同士で戦うことも、矛盾に悩むことのない、美しい世界。
「俺は厭だな」
 気がつけばそんな言葉が口をついて出ていた。親友は反論に驚いたような表情をしている。
 親友、という関係はもう苦しくなりつつある。もし本能だけの世界に生まれていたのなら、こんな感情を抱くことは決してなかったに違いなかった。雄が雄を性的に求めることなど。
「自分が生きのびることしか考えないものになど、なりたくない」
 ひょいと肩をすくめてそう言って、本来の目的であるノートを机から取り出した。
「それに、本能だけで生きるのは、楽かもしれないけれどつまらないだろう?」
 この想いを否定せず、かといって期待もしない。苦悩は続き、やがて自分の一部になってゆくだろう。
 それでも笑って捻じ伏せてやるのだ、ほら、こうやって。
 納得したのかうなずいた角松に行こうと促して、教室を後にする。
 教室には欲望が詰まっている。放課後には、残骸が。 






3:小さなお店



案内された店は小さかった。小さなテーブルに小さな椅子。この時代に来てからたびたび感じていた自分の体格は、こんな時恨めしい。所在無いのだ。そして、目立つ。
 支那服の如月とスーツの角松は店の一番奥の、といってもテーブルは3つしかないのだが、隅に通された。中国人の店員はこの2人連れをどう思ったのか無愛想で、はいと言ってメニューを渡して厨房に入っていった。全て中国語で書かれたメニューは角松は読めない。何がいいと如月が目で問いかけてくるが、角松は肩をすくめてあんたと同じでいいと言った。如月はうなずいて、やはり聞き取れない中国語で注文する。
 退院祝いだと言って如月に連れてこられた。退院はすなわち別離でもある。名残を惜しむ気持ちが如月にも角松にもあった。
 並べられた料理を左手でゆっくりと口へ運ぶ。如月も角松に合わせたペースでゆっくりと食べた。会話は弾まない。必要な申し送りはすでに終わっていた。
 小さな狭いテーブルの下で足が絡まりあう。言葉に出してしまってはいけない想いがあることをお互いが知っていた。そしてお互いにそんな大人の分別が疎ましくて仕方がないことも。
 如月の選んだ料理はどれも美味しくて、角松は如月に中国語を習った。支払いの際に早速その言葉で料理の腕を褒め称えると、無愛想な店員は嬉しげに笑い、角松にはわからない返事を返してくれた。頭を下げて店を出て、如月に通訳を頼む。早く良くなるといいですね、という意味だと如月は教えてくれた。
 それからまた長い旅をして「みらい」に帰ってきたある日、ふっと思い立って角松はあの料理を調べてみた。「みらい」の皆にも食べさせてやりたいと水炊長に頼むと、彼はレシピを見て感心したようにうなずいた。
「なるほどいいメニューです、副長。疲労回復と体力増強ですね」
 瞬間、あの店が脳裏に蘇った。小さな店。如月は何も説明などせずにいつものように無表情にメニューを選んでいた。気遣うそぶりはなにひとつなかった。
 離れたくないのだと訴えていたのは足。絡まりあった心の奥。 






4:どこからか美しい音色



ふいに、夜中に目が覚めた。
 戦うために造られた、戦うことを拒絶する艦は草加の知るどの艦よりも静かで、静けさに逆に目が覚めてしまったのかもしれなかった。まだ痛みを訴える身体を動かして、ベッドから降りる。軍刀を杖代わりにして、足音を忍ばせながら歩く。足は自然と外―――甲板へと向かっていた。
 ドアを少し開いた時だった。何かが聞こえてきた。
 誰かがいる。
 さっと草加は緊張した。耳を澄ます。この艦で草加の立場はまだ危ういものなのだ。艦長と副長に認められていても、敵意を持つ者がいることは否めない。誰にも発見されずにここまで来たということは、今海に放り投げられても誰も知る者はいないということだ。負傷した身体では、敵意をむき出しにして襲い掛かってくるだろう相手にひとたまりもないだろう。音を立てないように慎重に、すぐさま軍刀を抜けるように、草加は身構えた。
 ―――…音?…声……?
 歌だとわかるまでに時間がかかったのは、聞こえてくるメロディが途切れ途切れで、しかも聞いた事のない歌詞だったからだ。さらにその歌は、英語で歌われている。
 声に聞き覚えがあったので、草加はひとまず力を抜いた。角松だ。だがこんな夜中にうろついているのがバレたら叱られてしまうだろう。どうしたものかと思ったが、立ち去るという選択は草加になかった。
 歌は続く。

you may say I'm a dreamer
but I'm not the only one
I hope someday you'll join us
and the world will be as one

 ―――それがあなたの望みなのか。
 草加はその場にしゃがみこんだ。薄く開かれたドアから差し込む光。半分の月が角松を照らす。
 美しい歌が聞こえてくる。彼の望む、理想の世界だ。
 自分とはあまりにも違う。
 草加は瞳を閉じて、理想の国に耳を澄ます。
 涙があふれた。






5:虹



 虹の根元には宝が埋まっている。
 何の物語だったかは忘れたが、それを信じ、虹を見つけるたびにその発生源へ向かって走ったことがある。子供の頃だ。夢を夢のまま手にできると信じていた頃の話。
「あ」
 ふいに声をあげ、隣の角松が立ち止まった。
「虹だ」
 空を見上げ、彼は笑った。その笑顔のまま草加を覗き込む。な?という仕草は父親が子供にむける眼差しのようにやさしくて、草加もついつられて微笑してしまった。
「綺麗だな」
「あなたの時代とはどこか違うか?」
「こっちのほうが綺麗に見える」
 意外な答えだ。目を丸くした草加に、どうしたと声がかかる。
「そうなのか…?」
 この戦時下に見る虹のほうが美しいだなんて。角松はうなずき、状況はともかく大気の色が違うと言った。この戦争が終わった21世紀には、オゾンは破壊され海は汚染され、自然は人間の手によって削り取られ続けている。そんな世界を、それでも角松は懐かしむように目を細めて語る。
「虹といえば、」
 言いかけて、くっくっ、といきなり笑い出した。
「根元に宝が埋まってるっていう話があってな、ガキの頃にそれを信じて探すうちに迷子になったことがあった」
「え………っ」
「夜遅くになってようやく家に辿り着いて、親父にこっぴどく叱られた時はほっとしたなー」
 走っても走っても近づけなくて、やがて消えて見えなくなった。空を見上げて立ち尽くす。特に何が欲しいという明確な「宝」を思い描いていたわけではなかったが、あの喪失感は子供心に強く刻み込まれた。
「…私も…やったことがある」
「おまえも?」
 照れくさかったが告白すると、角松も目を丸くした。
 2人して目を合わせて、笑う。大の男2人がにやにや笑いあっているのはどう見られているのか、通行人がチラチラと訝しげに眺めて通り過ぎていく。
 虹の根元など探さなくても、草加の宝はここにある。漠然としか想ったことのない、たったひとつの、かけがいのない、運命の人。
「角松さん……」
 きっときっと、そばにいてくれる。一緒に戦ってくれる。角松はきっとこの理想を認めてくれるだろう。



 伸ばした手は空を切った。草加は立ち尽くす。虹は消えていた。
 虹の根元に埋められていた宝は望んでいた人ではなく、人類史上最悪の、