夢のチョコレート戦争
バレンタインの思い出はありますか。
大人になってからは義理ばかりという味気ないものになってしまっても、思春期の頃には誰にでも甘酸っぱい思い出のひとつはあるだろう。いやむしろ、大人だからこその楽しみだって存在する。チョコレートという、普段四角くうすべらったい茶色のカカオ豆菓子に恋やら義理やら計算やらの想いを込めて。菓子メーカーの作戦勝ち?なんとでもいうがいい。イベントとは、楽しんだ者の勝ちなのだ。
尾栗康平の場合。
「…うちのとまだ付き合いだしたばかりの頃だったかな。限定品だっていう、やたら気合の入ったチョコ貰ったことあるぜ。ただ、ちょっと頂戴って言って大半食べられたけど。あれは絶対自分が食べたくて買ったんだな。ま、並んだっていうのは嬉しかったけど」
菊池雅行の場合。
「…高校生のとき、鞄に入りきらないくらいに貰って。仕方ないから生徒会の役員で食べたんだ。そしたら女子から非難された。捨ててもいいって言われて仕方なく受け取ったんだけど、捨てるよりは食べたほうがいいと思ったんだが。それを言ったらまた怒られた。なんでだか未だにわからん」
角松洋介の場合。
「…結婚一年目。うちのカミさんがやけにノリノリで『今年のチョコレートはア・タ・シ』をやってくれた。わざわざチョコの匂いがする香水と、茶色の下着姿だった。あれはなんというか…インパクトあったな。そーゆーキャラじゃなかっただけ余計に」
つい大笑いしたら逆ギレされた。どことなく懐かしい目で語る角松洋介は、ただいま女ざかり真っ只中である。
「圭子さん、そんなことを…」
「ネタでしかないな、それ」
「つきあい長いとバレンタインってもほとんど義務だからな。気分を変えたかったって言ってた」
くす、と笑う角松はその後新妻を美味しくいただいたことを思い出したのだろう、にやけた顔になった。どこか艶めいた、色っぽさがある。本人にその気はなくとも親友をどぎまぎさせるには充分だった。
「ま、今年は無理だな」
「チョコがねえもんなあ」
「代用品とかならあるのか?」
そもそもこの戦時下に、バレンタインはやっていい祭りなのだろうか。かの聖人は戦争に赴く男と彼を待つ女のために結婚式をあげたが、それだって違法行為だった。結局処刑されている。ここ昭和の日本において、バレンタインとははたしていかなるものなのか。女の子はいつだって、恋愛と甘いものには目がないものだ。好きな相手に愛の告白。一年に一度の絶好の機会を。
このときの3人に、どうして予想できただろう。なにげない会話、他愛ない笑い話にすぎなかったものが、とんでもない方向へ発展していくことなど。
士官室のホワイトボードにキュ、と黒のマーカーで書き込まれたのは『角松洋介の今後と対策』の文字。彼らの大事な副長が筋骨たくましい男性から曲線の美をつくした女性へと華麗なる変身をとげて早数ヶ月。いまだに戻る気配も方法もわからないままだった。おまけに尾栗の作戦にものの見事にはまって現れた草加が角松にしつこく求婚を迫り、現在「みらい」は非常に頭の痛い事態に陥っている。はっきりいって草加の『ジパング』などもはやどうでもいいと断言できるほどだ。
「大変不本意ではあるが、この姿も草加の計画をストップさせている役には立っているようだ」
不本意を具現化したらこんな表情と声になるだろう。角松の言葉に集合した士官たちは沈痛な面持ちだ。これが計画的な作戦で得られた結果であったならどれほど喜ばしいことか。それなのに、ああそれなのに角松女体化などというトンデモ事態の副産物にすぎないなんて。それでいいのか草加拓海。こんな男にしてやられたのかと思うとなんとも情けない。
「しかしだからといって、いつまでもこのままというわけにもいかん」
角松は言葉を続け、くるりと全員に背を向けた。自分で言っていて落ち込んだ。ちょっぴり涙が浮かんだが、重いため息を吐き出すことで堪えた。女になってからというものこんなことばかりで、正直しんどかった。
「座して死を待つより出でて活路を見出すべし、ともいう。元に戻る方法…何かアイデアがあったら聞かせてくれ」
死ぬ覚悟を持ち出されては、もういっそ女のままでいいじゃんとは誰も言えなかった。全員がこの荒唐無稽な現象を打破すべく、考え込んだ。
「前日と同じ行動をしてみる、とか」
まず誰もが思いつきそうなことを、菊池が言った。
前日と同じこととはいえいつもと変わらぬ日常を過ごしていただけだし、何かをやっていたとしてもこれだけ時間が経過していてはすべてを思い出すことなど不可能だ。角松はとりあえず否定も肯定もせず、ホワイトボードに書き込んだ。
「むしろ逆に、絶対にしないことをしてみるなんてどうだ?」
「たとえば?」
「女子供が好きそうなこと…って、何があるかな…」
自分で提案しておいて尾栗は首を傾げた。女装。化粧をしてみる。角松はつい顔を顰めたが、しかしやはり否定も肯定もせずに書き加えた。
「買い物。長時間のおしゃべりとか…女ってああいうの好きだよな〜」
ついていけないぜと肩をすくめる尾栗にだよなーと同意する者多数。しばらく話は女談義になった。脱線に角松はため息をつき、気遣わしげに桃井一尉を見た。正真正銘の女性はお気になさらずといったようにため息をひとつと、苦笑を付け加えた。
「この際、男と寝てみれば?」
考え疲れてどうでもよくなったとでもいうように非常に軽いノリで、尾栗が笑って言った。「この際」のあたりで、バタンと勢い良くドアが開く。
「角松さん!」
勢いのまま壁にあたり跳ね返ってきたドアに反撃をくらった男がひとり。
「草加……」
にぎやかだった士官室が一瞬にして静まり返り、なにやら可哀相なものを見る目で全員が草加を見たが、本人はそんな視線など気づきもしていない。
「角松さん、バレンタインデーにストリップをするというのは本当か!?」
「は?」
一応疑問系はとっているものの、尾栗のセリフの後半部分「男と寝てみれば」をしっかり聞き取れていたらしい草加の中でそれは確定事項になってしまったようである。大げさに嘆きつつ、角松に詰め寄った。
「なにもそんな破廉恥なことをせずとも、チョコレートの代用品なら花やカードでいいのだぞ!」
破廉恥ときた。さすがは草加、昭和の男である。
「ちょ、オイ、草加?何の話」
「下着姿で男を誘うなんて――あんなことやそんなことをされたらどうするんだ!!」
草加は本気だった。角松が何の話をしているのか問いただそうとしたのを言い訳と断定し、彼の勢いと死語に引いているのを負い目をとった。だから叫んだ。この時代において、まだ処女は女の最終兵器であるべきなのだから。
「そういうことは、私とだけすればいいんです!」
きっぱりと言い切った草加に、角松の中でなにかがキレた。それはおそらく冷静さと判断能力だったろう。一気に臨界を突破した角松には、ただ行動あるのみだ。
ふぅん、とうなずき、にっこりと草加に微笑みかけた。草加はハッと頬を赤らめた。自分が何を言ったのか、ようやく頭がおいついたらしい。角松は誘惑するように笑っている。
「…そういうこと、したいんだ?」
「え?あの、」
すっと手を伸ばし、草加の頬を撫でた。細く白い指先で顎から首筋をくすぐる。
「なぁ…、どんなふうに?」
「……っ」
指先が、第一種軍装の上から胸をなぞっていく。下へ下へと続くにつれ、角松の笑みも深くなった。猫が鼠をいたぶるように、じっくりと指が踊る。
「この手で胸を揉みしだいて、舌でねっとりと舐めて」
そしてとうとう角松の手が草加の股間に辿り着いた。草加が眉を寄せる。やわらかく撫で擦られ、見る間に育っていった。
「角松さ、ん…っ」
「コレを、咽喉の奥までしゃぶらせて、胸ではさんだりさせたい?顔といわず体といわず、白くて熱いものを浴びせかけて、泣いて哀願するまて……俺を」
組み敷いて喘がせて、お前のコレで。角松の手は容赦なく草加を追い詰めていく。息を詰めて耐えている草加に、角松はぺろりとくちびるを舐めてみせた。ちろちろと、舌先で誘う。
「どうなんだ?したいのか?草加」
草加が下着を汚すまであと少しというところで、角松は手を引いた。切なげに濡れた瞳を瞬かせる草加に、かわいらしく小首をかしげ、するりと腰に手を回して抱きついてしまう。ピッタリと胸を密着させ、押し付ける。なんとも気持ちの良い感触に、草加の眉が苦しげに皺を刻んだ。
「ちゃんと言えよ、草加…」
「し、したいです…」
ほとんど白旗を掲げる気分で草加は告白した。そう、とそっけなく応じた角松は草加の胸に頬をすりよせ――そして彼の腰に下げられた日本刀を引き抜いた。
「…っ!」
さすが、というべきだろう。無造作に振り下ろされた刀を草加は咄嗟に回避した。しかしその切っ先、ぎらりと閃いた刃が盛り上がった股間に据えられ、身動き取れなくなった。硬直する。
突然目の前で始まったラブシーンというかエロシーンというか、美貌の女上司が部下の男をいたぶりつつ誘うという、どこかのAVにありそうなそれにもじもじと前かがみになっていた男どもも、いきなりの展開に硬直した。あとちょっとだったのに!とは誰も言わないがそんな心境だ。はっきりいって先ほどの角松はハンパなかった。妖艶で淫乱そのものの姿は男の妄想そのままだ。一度でいいからお手合せ願いたい。桃井一尉をのぞく全員、艦長でさえもそう思っていたほどだ。
チキッと刀の鍔を鳴らし、一転角松は心の底から嘲る笑みを浮かべた。
「二度と俺にそんなことをぬかしてみろ」
股間にあてた切っ先を押し付ける。
「てめェのご自慢のモノ、ボールごと抉り取って犬の糞にしてやる」
と、そこがみるみる萎れたとしても、誰も草加のことを笑うことはできないだろう。角松の底冷えするような怒り、激怒といっていいそれは鞭のように草加を打ちのめした。角松は本気だ。
角松は汚物を見るような目で草加を一瞥し、それからいつもの口調に戻った。
「艦長、ちょっと手を洗ってきます」
まるでバイキンを振り払うかのように草加を嬲っていた手をひらひらと振る。ああ、と呆けた返事をした梅津は、気の毒そうに草加を見つめた。
抜き身の日本刀をぶらさげてドアを開けた角松は、そうそうと呟いて顔だけで振り返った。
「桃井一尉。ついでに消毒薬を用意しておいてくれ」
「は、はいっ」
すくみ上がって返事をした桃井に、角松はいつもの副長の顔で笑いかけた。桃井はひきつった笑みをどうにか返すのみだ。
自分でさんざん煽っておいて、そこまでするか。がっくりと膝をつき打ちひしがれる草加はもはや真っ白だ。へんじがない。ただのしかばねのようだ。
男全員は草加に深く同情した。あれはちょっと立ち直れそうにない。角松は極めて冷ややかにそんな男どもを眺め回した。
「お前らもそいつに近づくなよ。感染したら困るからな」
日本刀よりも鋭い斬り口は、まさしくトドメの一撃だった。