メビウスリング
草加が角松にとってあまりにも信じられない言葉を告げたとき、角松の脳は思考するのを拒否したかのように真っ白になった。
次の瞬間には復活し、その意味を理解した角松は目の前が赤くなるのを感じた。おそらく顔も赤いだろう。草加の告白が嬉しかったからではない、怒りのためだった。
「草加…てめぇ……」
「本気です」
「なお悪い!」
力をこめて繰り出した一撃に草加が堪えた様子はなく、逆に拳が痛くなった。それにまた腹が立つ。草加が仕方無さそうに笑って、一歩近づいた。
「角松さん」
咄嗟に角松は歯を喰いしばったが、草加が殴り返してくることはなかった。女を殴るような真似はしないということか。角松には屈辱だった。草加はそんな苦い思いを角松が噛み締めていることなど気づくことなく、まるで壊れ物を扱うようにそっと肩を掴むと、ふわりと抱きしめた。角松が硬直する。ちょっと待て。これは一体どういう事態だ。
「はなせっ、草加!」
「はい、と言ってくれたら放してあげます」
「はい?」
非常に、非常に、非常に、嫌な予感がする。角松は自力で逃れようともがくが、必死で力を込めても草加の拘束が緩まることはなかった。
草加が先程の信じがたい言葉を再び告げた。
「結婚してください」
「いやだ!」
即答してもがく。情けなさと悔しさが混ざって、泣きたくなってきた。本当にじんわりと眼の奥が熱くなってきてしまい、角松は焦った。草加に泣き顔を見られるのは絶対に嫌だ。
「…角松さん?」
急に大人しくなった角松が胸に顔を押し付けてきたことに、草加は戸惑いつつも喜んだ。角松にしてみれば大変不本意であるが、この状況で泣き顔を見られないためには密着するしかなかったのだ。
何度か深呼吸することでやっと少し冷静さが戻ってきた。草加が背中を撫で回している。どさくさにまぎれて触るなと怒鳴りつけたい気持ちになるのがまた情けない。まさかこの自分がセクハラされようとは。
草加がどういうつもりで結婚などと言い出したのかは知りたくもないが、本気だというのならこちらもきちんと答えてやらなくてはならないだろう。女の体になろうと、角松はこのあたりあくまでも誠実であった。
「…草加」
「はい」
「俺の答えはさっきも言ったが『いいえ』だ」
「…では、ずっとこのままですね」
草加は抱く腕に力を込めた。やわらかな体の丸みを帯びたふくらみが草加の体のあちこちに触れて、頭の芯が甘く痺れていくのを感じた。
「……おまえなぁ………」
自分の言葉に陶然となっている草加に、角松は怒るより呆れた。なんだってこいつはこうなのだろうと思う。脱力しそうになるがここで気を抜いたらなしくずしで実行させられてしまうだろう。実行力だけはある男なのだ、草加拓海という男は。角松は発奮した。
「俺が女になったんだぞ?プロポーズなんかよりもっと…他に言うことはないのかよ」
「………。しばらく見ないうちに、綺麗になりましたね」
同窓会で再会した、クラスメイトじゃないんだから。しばらく迷った末の草加のセリフに、角松は頭を抱えたくなった。そうじゃねえだろ。
「おまえ、俺のことどう思ってるんだ?」
今更訊くのもバカバカしいが、あらためて角松は訊いてみた。草加は意外なほど真剣な顔で答えた。
「大切なひとです」
「………………」
遠い。なんだか目の前の男がとてつもなく遠く感じる。このまま物理的にも遠ざかってしまいたい角松だったが、草加にしっかりと抱きしめられているためにそれは叶わなかった。
「…おまえ、そんなに女に飢えてるのか?」
さすがに草加は嫌な顔をした。そんなことはありません、と抗議してくる。どうだか、と角松が返すと、怒ったように言葉を続けた。
「男だとか女だとか、そんなことは関係ありません。ですが――…あなたが女性になったからこそ、私は結婚したいと思ったんです」
草加にとって、角松が大切な、いとしいひとだということは、出会った時から変わっていない。角松のためにこそ草加は行動し、ジパングを目指している。ずっと一緒に生きていく為に。
女性なら、それが可能だ。どこに連れて行っても、誰にも咎められることはないだろう。
「俺は?」
「え?」
「突然、わけのわからないまま女になった、俺の気持ちはどうなるんだ?俺は女になりたくてなったわけじゃない。今すぐにでも、男の体に戻りたいと思ってるんだぞ?」
「それは……」
角松は草加を睨みつけた。その瞳が潤んでいるのを見て、草加の胸に鋭い痛みが走った。怒った顔ならいくらでも見たことがあったが、こんなふうに、今にも泣き出しそうな角松は初めてだった。
「おまけに皆から珍獣みたいに見られて扱われて、あげくに結婚せまられて!俺の身にもなってみろ!」
角松は怒りに任せて草加の脛を蹴りつけた。いわゆる弁慶の泣き所を固いブーツの先で蹴られたのでは、殴られた時には平然としていられた草加も堪らなかったらしい。低く呻き、抱きしめていた力が緩んだ。
その隙を逃さず、角松は前かがみになった草加の顎を狙って頭突きを喰らわせた。当然自分の頭も痛かったが、ようやく草加の腕から脱出することができた。
「…っ、角松さんっ」
「こんなの、俺の体じゃない。いわば、借り物だ。いくらなんでも、こんな体で結婚するほど無節操じゃねえよ」
「もし、もしも、生まれた時から女性でしたら、私と結婚してくれましたか?」
掴まらないように距離と間合いを取る角松に、それでも草加は縋るように問いかけた。ありえない想像に角松は目を丸くし、考える仕草をみせた。そして、言った。
「おまえとだけは、ゴメンだな」
しみじみとしたため息とともに吐かれたセリフに、草加はショックを隠せなかった。傷ついた瞳を角松は睨みつける。
「だいたいが、おまえのプロポーズからして信用できん」
「そんな、どうしてです?」
あまりといえばあまりの言葉に、草加は動揺した。いくらなんでも酷すぎる。角松は冷ややかに答えた。
「…おまえ、俺に信用されるようなことをしている自信があるのか?」
「う……」
草加は返す言葉もなかった。思えばマレーで一緒に陸に上がった時から草加は角松にとって裏切りととられても仕方のないことをイロイロとしてきたのだ。自業自得である。
去っていく角松の後姿を草加は見つめた。背筋をピンと立ててまっすぐに歩くその背中。まぎれもない角松洋介そのものだった。頼もしく、力強く、かぎりないやさしさを内包している、この世で草加がたったひとり、疑うことなく自分の愛情を傾けているひと。
「――なら、攫ってしまいましょうか」
疑うというのなら信用させるまでだ。何度でも何度でも。どんな手段を使っても。そういう自分を草加は知っている、ということを、角松も知っているはずだった。それはもう厭というほど。
角松は立ち止まり、草加を振り返った。なぜだか草加は嬉しくなる。
なにをふざけたことを、と角松は思わなかった。なにせ草加だ。実行力だけはある男なのだ。
草加は笑って両手を広げた。その腕の中へ飛び込んでいくのを待つように。
「はい、と言うだけでいいですよ」