そもそも角松洋介は、男として出来過ぎの人物である。良いところも悪いところもすべてひっくるめて魅力として見えてしまうのだから同じ男としてはやっていられないというか、文句もでてこない。同性の自分の目から見た感想はやはり他の男たちのものと共通のようで、彼が他人から憎まれることはなかった。角松洋介という男は、だから常に輪の中心に居り、人気者であった。
さて、その人気者の「男」が「女」になったら?
こうなるわけか。尾栗は苦々しい気分でぎこちない部下たちを睨んだ。かれらは一様に、角松をちらちらと見てはパッと視線を逸らしている。頬が赤いのは尾栗の気のせいではないはずだ。お互いに牽制しあいつつ、角松との距離を測っている。ちょっと触ったらダメかな。やめとけ砲雷長に殺されるぞ。小声のやりとりが聞こえる。菊池の前に目撃した者たちにフクロにされる可能性のほうが高いと尾栗は思った。
角松は副長という立場もあるし、仕事をしているほうが気がまぎれるといって現実逃避ぎみに艦橋に立っている。いつものように。いつもより高めの澄んだ声で、梅津とやりとりをしている。その姿に尾栗はイラついた。
尾栗は外甲板に出ると海に向かい手すりに寄りかかって、タバコをくわえた。潮風に邪魔をされつつ、なんとか火をつける。
正直に言って、往生している。
せめてもっと気色悪かったら救いようもあるだろうに。男が突如として女になったのだから、もっと不自然であるべきなのだ。なのになぜ、ああもストライクゾーンど真ん中なのだろう。
本人や周囲の手前、尾栗はおどけてみせているが、実のところ誰よりもショックを受けていた。あの洋介が。俺の自慢の親友が。あんな姿に。原因が不明な以上誰かを責めても仕方がないのだが、誰かにやつあたりでもしたい気分だった。ふざけるな、元に戻せ、と。
尾栗の苛立ちはそれだけではなかった。彼は自分の心の動きにすら苛立っていた。
角松洋介を、自慢の親友を、あの魅力的な「女」を――欲しいと思ってしまっている。それが許せなかった。角松に対する裏切りのように思えた。
「くそ…!」
悪態をついてタバコを吹かす。その時だった。
「康平」
ギクッと肩が揺れた。迂闊かもしれないが、足音が変わっている為角松だと気づかなかった。耳慣れない高い声。軽やかな足音を立てて角松は尾栗の隣へやってきた。
「…どうしたんだ?」
勤務中に副長がむやみに持ち場を離れていいはずがない。自分のことは棚に上げて尾栗は尋ねた。
角松は答えずに、手すりに両腕を乗せ、そこに頭をあずけた。途方に暮れているような、むっつりと怒っているような表情をしている。角松にしては珍しく、あからさまに不機嫌だった。
「どうした、何かあったのか?」
洋介?語気を強くして茶化す意味なく再度尋ねると、むすっとしたまま角松が答えた。
「……写真、撮られた」
「誰に?」
写真で思い浮かぶのはプロカメラマンの片桐だが、彼が写真を撮るのはそれが彼の仕事だからだ。そしてそれを今更怒る角松ではない。
「わからん。…でも、行く先々で、たぶんケータイのカメラだろうな、撮られている」
携帯電話のカメラはシャッター音が出るように設定されている。盗撮防止目的だからか、その音は結構大きく、耳につく。自分が移動するたびにあちこちでぶしつけにシャッターが切られれば、不快だし気味が悪い。角松の怒りも、もっともだ。
ああ…と尾栗は彼らの気持ちに同情した。角松が女になってしまったのが突然なら、いつまた突然男に戻るのかもわからないのだ。この「女」を写真にして持ち歩きたい気持ちはよくわかる。
そして同時に親友として角松に同情した。本人に断りなく写真を撮るのはマナー違反だ。友人を勝手に撮影し、不愉快を与えた相手に当然の怒りが込み上げてくる。
撮った写真をどうするつもりなのか、想像がつくだけに尾栗の怒りは深く、また彼らへの同情も深かった。おそらく角松もその使用目的がわかっているのだろう、怒りと困惑と羞恥が入り混じって途方に暮れている。
「…誰でもいいもんなのかな」
「なにが」
「だって…俺だぞ?ついこの間まで男だったのに……」
尾栗は肩をすくめた。角松は自分が他人にどう見られているのかあいかわらずわかっていないのだ。好意を持たれていることは知っていても、それが角松洋介個人に向けてだとは思っていない。あくまで副長への好意と信頼だと思っているのだろう。彼らしいといえばそうだが、まったく無自覚なのにもほどがある。危険を認識していないと、万一の時に今の体では碌に抵抗できないかもしれなかった。尾栗は言った。
「角松洋介は高嶺の花だけど、今のお前はそうじゃないってことだ」
「……?」
「だからな、男の洋介はもう結婚してるし子供もいる。なにより男で、あきらかに強いだろ?崖の上に咲く花と同じなんだよ。ああ綺麗だなって見ているだけでも満足できた」
その喩えはどうなんだとツッコミたいのを堪えつつ、角松は続きを促した。尾栗が真剣であるからだ。
「今の俺は?」
「今のお前も高嶺の花だけど、ダンボールひとつぶんくらいの高さしかない。やろうと思えば手折ることのできる高さに咲いてる花だ」
「…えらく低いな」
「喩えだ、喩え」
はあ、と角松はあきれたため息を吐いた。いくら男所帯とはいえ節操のない話だ。理解できなくもないが、当事者としては納得したくない話である。
「そんなもんか……」
呟いた角松を、尾栗は見た。では自分はこの女をどう思っているのだろう。尾栗は基本的に女性は守るべき相手だと思っている。見下すつもりはないが、対等な友情は育めないだろう。角松がもし生まれた時から女だったら、競争心すらなく傍らで自分の庇護下に置いたか、あるいは見向きもしなかったかもしれない。親友になどはならなかっただろう、それは間違いなかった。
「…なあ、洋介……」
「ん?」
尾栗はタバコの火を靴裏で消し、吸殻を海へ捨てた。角松が眉を寄せる。
「触らせてくれないか?」
「な………?」
さっと角松は頬を染めた。尾栗を凝視する。尾栗はちいさく笑って見せた。角松が自分を他人とは別な、特別な位置に据えてくれているのは純粋に嬉しい。だが俺はお前じゃないんだよ。女になったお前を女として意識するなというのは難しい話なんだ、洋介。
「ま、ちょっとした実験だ」
「実験?」
「そう」
もしもこのまま角松が元に戻らなかったらどうするのか。角松の望んでいる「親友」の態度を貫きとおせるのか。そして、もし――誰か別の男のものになっても、自分は耐えられるのか。それがたとえもうひとりの親友であったとしても。
そっと抱き寄せても角松は抵抗しなかった。戸惑ったようにわずかに身を固くし、尾栗を見つめている。
眼を閉じた。
あたたかく、やわらかい体だった。ちょうど尾栗の肩口あたりに角松の頬がくる。抱きしめるのにちょうどいいサイズだ。少し、力を込めて体を密着させると、たしかな弾力をもったやわらかなふくらみが胸にあたった。その中央でたちまち固くなった二つの塊の感触すら尾栗に伝わり、衝動がざわざわと背筋に駆け抜けていく。角松にしてみればあたりまえかもしれないが、尾栗はひどく狼狽した。女性用の下着を着けていないのだ。
「康平…?」
「ああ」
気まずそうに身じろいだ角松に逆らわず、解放してやる。これ以上はやばい、と尾栗は判断した。股間が甘く疼くような感覚すらあった。
危険だ。自分を警戒しなくてはならない。実験の結果を待つ角松を傷つけないためにはどう言ったらいいのだろうか。尾栗は笑って見せた。つられたように、ほっとした笑みを浮かべた角松に、演技をしてみせる。
「洋介風に言うなら、アレだ。『キエロ・アセル・エル・アモール・コンティーゴ』!」
「な」
一瞬硬直した角松にニヤリとしてみせる。それを見た角松が肩を震わせた。
間をおいて、2人の爆笑が空に響いた。尾栗は自分の演技が成功したことに心から安堵していた。
「ま、なにはともあれさっさと男に戻ることだ」
「わかってるよっ」
そう、それしか方法はない。角松が男に戻れば、なにもかも元に戻るのだ。
たぶん。おそらく。――きっと。