砲雷長は心配性





 士官用居住区の、角松洋介にあてがわれた部屋は、彼が彼女になって以来鍵がかけられている。
 貞操の危機だとか、特に危険を感じてのことではなく、入れ替わり立ち代わり様子を見に来る部下たちに、角松もいい加減忍耐の糸が切れたのだ。現実的ではない深刻さにみまわれている「みらい」にとって、角松が女になったことはむしろ明るいニュースだった。「みらい」副長、角松洋介の立場は、今やアイドルである。
 「みらい」砲雷長菊池雅行三佐は、固く閉ざされたドアの前で深呼吸した。今日こそは、とドアの前に立つたびに思うのだが、何に対して今日こそはなのか、菊池自身にもよくわかってはいなかった。ただ祈るように今日こそは、と思うのだ。
 ノックを二回。すぐに鍵が開けられることに優越感と安心感を同時に味わう。

「おはよう、洋介。今日はどうだ?」
「…おはよう」

 カーテン越しに返ってくる声は耳馴染んだものではなく、少し高めだった。そのことに菊池は自分でも驚くほど高揚してしまう。まだ角松が、女であることに。
 菊池は気を引き締めた。自制しろ、と自分に言い聞かせる。角松が女になったのを幸いと口説いてしまいたいが、それだけはできなかった。それができるのならとっくにやっている。自分の性格を、菊池は哀しいほど理解していた。

「調子はどうだ?」
「悪くはないな」

 サッとベッドのカーテンが開き、小さな足がにょっきりと覗いた。靴下を何枚も重ねて履いているのは、大きすぎるブーツの隙間をなんとかしようという工夫だ。同じくぶかぶかの作業服を引き摺りつつ、角松はブーツに足を入れた。腕まくりをしていても肩幅のずれによって生じたサイズの違いはごまかせない。ずり落ちてくる袖口に眉をしかめる角松は、体の内側がこそばゆくなるような可愛らしさだ。
 そうだ、と菊池はポケットから麻の紐を取り出した。彼は身を屈め、角松の二の腕にきつ過ぎないように巻きつけた。
 至近距離に、顔や手がじんわりと汗ばんでいく。角松の香りや、呼吸。息をするたびにゆるやかに上下する胸が目の前にあった。あえてそれらを意識しないように、菊池は自分を抑えた。意外と大きいな、と思ったがそんな自分を戒める。

「…本当に、大丈夫なのか?」
「心配性だな、雅行は」

 毎日こうやってご機嫌うかがいよろしく様子を見に来てくれる菊池に、角松は悪いと思いつつも正直ありがたかった。独りで悩んでいたら、どうしても悪い方向へと考えがいってしまうだろう。

「いきなり体が変わったんだ。なにか不具合が起こるかもしれないだろう?」
「今のところ、不調はないが…」

 角松は立ち上がると大きく伸びをした。袖がまた動いたが、二の腕で止められているのでそれ以上ずれることはなかった。コレいいな、と笑い、しかしすぐに顔を曇らせた。

「…もう二度と元に戻らなかったらどうしようと、思うよ」
「…………」

 原因がわからない以上、菊池も確かなことは言えない。ただ慰めるように微笑して肩を叩いた。
 たとえ元に戻れなくても、お前はお前だ。俺がずっと傍にいるから心配するな。そう言うことができたらいいのだろうが、菊池の中でそれはフェアではないと声がした。男の角松洋介を口説くことをしなかった自分に、女の角松洋介を口説く権利があると思うのか?それで本当に、角松に信じてもらえると思っているのか?

「それでもお前は副長だ。いるのといないのとでは、全く違う。頼むから、下艦するなどと言い出さないでくれよ」
「…ああ」

 おそらくそのことを一番懼れていたのだろう角松は、菊池の言葉に安心したように微笑んだ。

「それに、俺たちがいるんだ。何か困ったことがあれば、遠慮なく頼れ」

 俺が、と言えないところがいかにも菊池である。

「困ったことか……」

 呟いた角松の表情を、菊池は見逃さなかった。妙に気恥ずかしそうに、視線を彷徨わせたのだ。
 なんだその反応は。つい赤くなってしまいそうな顔を、眼鏡を押さえることで菊池はごまかした。

「何かあるのか?」
「う…、まあ、たいしたことではない、かな」
「たいしたことじゃないくても、異常事態だろう。さっきも言ったが頼ってくれ。独りで抱え込むのはお前の悪い癖だぞ」

 それを菊池に言われたくないような気がとてもするのだが、角松はつっこまなかった。そんな余裕がなかったのだ。

「洋介!」

 口を割らない限り勘弁してくれそうにない菊池に、なかばやけになって角松は答えた。

「…下着がないのが、困ってるんだよっ」
「下着?」

 菊池はあっけにとられた。角松が女性用の、つまりブラジャーを持っていないのはあたりまえではないか。菊池の考えていることがわかる角松は、さらに赤くなった。

「だから…胸じゃなくて、下の!」
「下って……」

 つい菊池の目がそこにいってしまったとしても無理はないだろう。
 角松の言わんとすることをようやく理解した菊池は瞬時に血を昇らせた。ようするに、今着ている濃紺の作業服を脱いでしまえば、角松は全裸になるのだ。

「な、なんで穿いてないんだ!」
「俺のじゃサイズがあわねえんだよ!」

 確かに作業服がぶかぶかで靴がぶかぶかならば、その下に着る、体にぴったりと密着するものなどもサイズが合わなくて当然だ。迂闊だった。そこまで気が回らなかった。

「じゃあ、ここ数日、ずっと…その……穿いてないのか」

 角松はうなずいた。

「穿いてもすぐに下りてきちまうし、そうなるとどうも気になるから、穿いてないほうがマシかと思って脱いだんだが、やっぱり慣れなくてさ」

 そうとう恥ずかしいのだろう。角松はうろうろと室内を歩き回り、わざとらしく頭をかいた。羞恥心は菊池にもあるが、歩くたびに胸が揺れるので大変目に毒だ。血が昇りすぎてクラクラしてきた。

「…わかった、なんとかする」
「え、本当か?」

 陸に下りて買ってくればすむ問題だ。角松は一緒に行くと言ったが、そもそも外に出られる身ではない。男物のいかにも大きな服を着ている女なんて、不審者である。そう説得され、角松はしぶしぶ引き下がった。







 半日ほどして帰ってきた菊池が買ってきたものは、下着のほかに洋服も入っていた。

「なんだ、女物じゃないんだー」

 2人きりでいることの危険性を理解している菊池が連れてきた尾栗が、いかにも残念そうに笑った。菊池と角松が同時にバカと言う。

「女装なんぞ、死んでもするか」
「そう言うと思ったから買ってこなかったんだ。どうだ?」
「ぴったりだ。ありがとな、雅行」

 嬉しげな声がカーテン越しに聞こえ、菊池はホッとした。これでようやく可愛さ全開の角松を男たちの目に晒さずにすむ。
 だがその安心はつかの間であった。
 着替えた角松が2人の前に立った瞬間、尾栗と菊池の目は同じところに釘付けになってしまった。
 菊池が角松のために買ってきたのは、ポピュラーな白いシャツと作業服に似たパンツだ。靴も同じような頑丈なブーツ。しかし、二人が注目したのは、そこではない。
 白いシャツは角松の言葉通り、ぴったりだった。そしてそれが大問題であることに、2人は気がついたのである。そう――ぴったりということはつまり、胸の形がくっきりと見えるどころではなく、ピンク色の可愛らしい乳首まで、透けて見えているのだ。

「雅行…お前、わざと?」
「そ、そんなわけあるかっ」

 顔を赤くした親友2人のやりとりなど意に介さず、角松は着心地を確かめるように体を動かしている。

「雅行って本当に気が利くよな。俺が本当に女だったら、お前のことほっとかないのになー」

 本人は冗談のつもりなのだろうが、菊池にとってはとどめの一言だ。尾栗は気の毒そうなため息を吐いた。
 菊池は肩を震わせた。

「洋介……」
「おう、何だ?」
「そこを動くな!」
「あ、雅行?」

 叫ぶが早いか、菊池はダッと駆け出していった。もはや半泣きで向かった先は、医務室である。

「雅行?」

 すぐさま駆け戻ってきた菊池は何を思ったか、角松のシャツのボタンを外し始めた。角松はぽかんとした顔で、されるがままだ。尾栗がいるからかもしれないが、信頼されているのだと思うとなんだかもうやりきれなくなってしまう。

「む……胸!」
「は?」
「透けて見えるんだよ!せめて、さらし巻いとけ!!」

 せめて隠すなりなんなりしてくれ本当に。ボタンを外し終わったところで菊池の手は止まった。角松にさらしを押し付ける。

「あ…。その手があったか」

 まったく無頓着であった角松もさすがに恥ずかしそうに胸を隠すと、再びベッドに向かいカーテンを閉じた。

「…雅行って、どこまでも雅行だよな……」
「どういう意味だ!」

 あくまでも紳士的であろうとする菊池の神経がどこまでもつのか、菊池自身にもわからないことだが、切れる前に角松が男に戻ることを痛切に祈るしかない。切れた自分がなにをしでかすのかわからないことは、菊池も自覚していた。だからこそこの場に尾栗を呼んだし、涙ぐましいまでの努力をしているのだ。
 そこへまた、試すような角松の声がした。

「なあ、ところで、さらしってどう巻くんだ?」

 巻いてくれと続くセリフに、ぷちっと菊池の中で何かが切れた。