青空






 武力を行使して捕らえた艦の事実上の艦長となっていた男は、拘束されることなどとっくに見通していたように抵抗ひとつなく、至極あっさりと捕らわれた。むしろ殺気立つ部下に笑って大丈夫と言ってのける余裕さえ見せた。かれの一言で収まってしまうのだから、たいした統率力だ。なんら根拠のない「大丈夫」でも、かれらには万人の言葉よりも効力を持つ。
 尋問と称して草加が角松を呼びつけた時も、なにもかもわかったような顔つきであった。まったく気に入らない。角松は、もっと憎悪していなければならないはずなのだ。かれの中に眠っているはずの凶暴さを呼び覚まそうと、草加は角松の腕を引いて、寝台へとその体を放り投げた。

「…なぜ、そんな眼で見るんです」

 かれに覆いかぶさって肩を両手で押さえつけ、片膝を腹に乗せた、いつでも殺せる体勢。
 角松は静まり返った瞳でただじっと草加を見つめていた。怒りも憎しみも、そこにはなかった。まるでなんの興味もないものを見ているかのようだった。ただ道端の花を眺めているような。

「かど…」
「草加」

 名を呼んだ。
 ふいに後ろから肩を叩かれたように、草加の手が揺れた。指一本動かさず、身じろぎもせずに角松が言う。

「気は、変わらないか」

 最後通牒。
 もうこれが二人にとって最後の機会となる。角松は草加に、最後の手を差し伸べているのだ。この機を逃したら、もう次はないのだと。もう二度と、二人の道は重ならない。

「変わりません」

 草加は跳ね除けた。当初の思惑に反して、昂ぶっているのは自分であることを草加は感じていた。何を今更言っているのだこの男は。私たちはただ戦い、憎しみあうしかないのだ。

「…本気でそう思うのか」
「本気です」
「あれは、おまえの手には負えない。後悔するぞ――必ず」
「それを決めるのは私だ。あなたに哀れまれる謂れはない!」

 あれ――原爆は、草加にとってのみならずこれからの日本にとって必要なものなのだ。使用するのは草加個人の判断だが、それによってこれからの世界を決定付ける。圧倒的な暴力。これで歴史が変わる。角松たちにとっての過去という意味での歴史ではなく、世界史そのものが変わっていくのだ。世界史、すなわち軍事バランスが。
 核を持つ国が世界の中心に立つ。核のもたらすものの結果を持つ国には、畏怖と尊敬が与えられるだろう――あの小さな島国が、たった一発の原爆で世界に勝利したと。核への恐怖。それを造り上げた技術力への尊敬。使用した国家の果断さ。どれもこれからのこの国のためだ。

「核なんて使っても、ジパングは築けない」

 きっぱりと、角松は草加を否定した。絶対にそれだけはしてほしくないと思っていたことを、絶対に言って欲しくないと思っていた人が、草加に告げた。目の前がカァッと赤くなった。

「知ったようなことを……!」
「知ってるから言ってるんだ。俺がどこから来たのか知ってるだろ、草加」
「…………っ」

 角松は静かだった。瞳は草加を通り越してどこか遠くを見ている。遠い――あまりにも遠く離れてしまった、かれの世界。

「俺たちのいた時代、世界で唯一核を使って戦争に勝利した国家は、まさしく世界一の国になった」

 たった2発の原爆で、世界一の軍事力を世界に知らしめた国家。

「行ったことがある。煌びやかで、自由な、夢の国は、そこにはなかった」

 行って数日はその素晴らしさに眼が眩みもしたが、ある時にふっと気づいた。眼が覚めるように。
 これが本当に自由の国なのかと。
 観光目的で数日滞在だけだったら、騙されたままでいられたかもしれない。だがあいにく角松は海軍への留学生だった。

「なにかに脅えているように、戦争を求めている国家だった。世界一強いんだから、戦争なんてしなくていいはずなのに、毎年莫大な予算をつぎ込んで兵士をどこかへ送っていた。戦争に勝つ、とはそういうことなんだ、草加――勝ち続けなければならない」

 戦争で抱え込んだ負債を、あの国が何で支払うか。
 戦争で、支払っていたのだ。あの国は敵対する国家にすら武器を売る。あるいは次の目標となる国や組織に売りつけて、世界に対して危険だからという大義名分を作り上げ、攻撃する。それらの犠牲になるのはもちろん負債をまかなえるほどの資源を持っている国で、本当にあの国に対して敵意を向け、世界に危険をもたらす可能性の高い貧乏国ではない。自分たちに都合のいい『敵』だ。
 しかし、物事はそう簡単にいかない。
 民族や宗教が違えば当然のこと。すべてがかれらの描いたとおりに進むはずはなく、望みどおりのエンドマークを打てるわけがない。続く、負の連鎖………

「勝ち続けるためには敵が必要だ。あれは、そういう国だった。おまえは日本を、そういう国にしたいのか?」
「私のジパングを、あんな国と一緒にしないでいただきたい」
「したくなくても、そうなる。勝ったくらいで戦争を、そんなに簡単にやめられると思っていたのか?」
「勝つことになどこだわっていない。ただ、あなたの世界のように、負け犬根性で隷属などさせないだけだ。誇りと尊厳を持つ国だ」

 角松のための理想郷。かれのような人間が、誇りを持って護るといえる日本。
 角松ははじめて表情を変えた。笑ったのだった。眼差しを草加に据えたまま、かれは言った。

「世界に恐怖をばらまいておいて、誇りと尊厳が与えられると思うのか」

 誇りというのは「持つ」ものではない。他人がその人、あるいは国を見て思うものだ。他者からの評価にほかならない。「与えられる」ものなのだ。本人がどんなに得意げに誇ってみても、他人の目は正当な判断を下す。誇りの色は本人ではなく周囲が自然とだすものだ。
 そんなひとを、角松はひとり、知っている。ただそこにいるだけでいい。静かに胸をはれるような、そんなひとを。
 草加の核に、殺された。最初の犠牲者だ。

「核の恐怖で世界を支配するくらいなら、俺は平和と心中する」
「――…っどうしてっ!」

 そこまで否定されなくてはならないのだ。草加の出発点は、かれなのに。あの暗い海の中から草加を救い上げ、生き返らせ、「みらい」でかれを生み出したのは、角松なのだ。

「言っただろう、俺は」

 覚悟してもらう――と。
 運命を共にしてもらう。そして、知ってしまうことが怖くないのかと草加に訊いた。それは角松自身、この海軍少佐に運命を教えてしまうことを懼れていたからだった。
 草加はなんと答えたか。角松はよく覚えている。生きているということは、知ることなのだ。かれはそう言ったのだ。

「結局おまえは」
「か、」
「運命を知って」
「かどまつ…さ」
「逃げ出したんだ」
「角松さん…っ」

 確実に訪れる望まない運命から。逃げ出した。運命が、未来がわかっているのだからたやすい逃避は未来を作り変えることだった。一番楽だ。なにもかもわかっている者の描く夢は、さぞ甘くひとびとを惹きつけただろう。

「草加、これが最後だ。俺と来い」

 草加は頬を歪ませた。なんて酷いひとだと思った。ここへきて、この土壇場で、そんなことを言うなんて。私があなたをどれほど愛し、同時に憎んでいるのかなんて、これっぽっちも知らないくせに、知ろうともしてくれないくせに!

「行きません。あなたなんて――あなたがなんと言おうと、私はジパングを築くのだ。そして、それを、あなたに見せ付けてやるのだ。なんて素晴らしい国だとあなたに言わせてやるのだ。あなたに!!」

 憎んでいいのだ、こんな酷い男。その権利が自分にはあるはずだった。私を生んでおいて、捨てたのだから。

「私を否定などさせない!!」

 愛するものに存在を否定されるほど残酷な死があるだろうか?
 肩で息をつく草加の勢いにも、角松は動じなかった。
 寝台に投げ出されたままだった手が持ち上がり、肩を押さえつけている草加の手をそっと撫でた。

「草加」

 落ち着いた、深みのあるやわらかな声。

「俺はおまえの邪魔をするよ。どうあっても原爆を使うというのなら、どこまでも俺は阻止してみせる」

 ききわけのない子供を叱りつける親のような。根底にある情愛を注ぎこむような声。
 角松は草加の手をとり、慈しむように絡ませた。
 なにをするのかとなすがままになっている草加に、どうしてもというのなら今のうちだと、草加の手を自らの首に導いた。

「か、かど、まつ…さん………」

 あたたかく、やわらかい肌の感触に誘われるように、指が絡みついた。指先に届く、力強い脈動。思い出すたびに草加に生きていることを感じさせる、それ。

「私を…助けたことを、後悔しているのですか?」

 以前に訊いたことのある問いだった。あの時、角松は心の底から後悔していると答えた。
 声が震えた。今のかれの答えを聞いて、どうしようというのだろう?どちらを望んでいるのだろう?角松はぽんと草加の腕を叩いた。まるでしっかりしろよと励ましているかのようだった。
 ぱたりとその手を投げ出して、角松はゆっくりと息を吐き出した。

「しているよ。もう何度後悔したのかわからないくらいだ。だけど助けたのは俺自身だし、助けた以上はそいつに幸福になってもらいたいと思うだろ」
「幸福?」
「そうだ」

 思いがけない言葉だった。
 幸福だの不幸だのという枠組みで、自分の人生を捉えたことはない。そんなものに捕らわれていては、なにもできなくなってしまう。草加はそう思っていた。大局の中に、自分自身の幸福など、ありえなかったのだ。
 くっと、指先に力を込めた。
 角松の顔が微かに歪む。角松は何かを確認するように草加を見つめると、眼を閉じた。自分の中にかれがなにを見出したのか、草加にはわからなかった。力を入れ続ける。
 角松が仰け反り、くちびるが戦慄いた。
 ドクドクと脈打つ血管を塞ぎ、ためらいを消す。角松の顔は見る間に赤く膨れ上がった。
 苦しさを示して敷布を握りしめていた手から、ついに力が抜け、かくりと頭が落ちた。

「!!」

 ばっと首から手を放し、草加は先ほどまでの生々しい感触を消すように両手を二の腕に擦りつけた。確かに感じていたかれの鼓動が弱く途切れがちになり、ついに消えた、あの厭な感じ。何度も擦って擦って、手のひらが赤くなるまで擦り続けた。
 汗ばんだ手のひらを見る。
 心臓が痛かった。こんなに激しく脈打つ器官だったのかと思う。角松はぴくりともしない。

「か、か…かどまつ…さ……」

 ガチガチと歯の根が噛みあわない。背筋を厭な汗が伝っていく。ぐったりと弛緩した体を抱きしめ、左胸に耳をあてる。弱弱しいながらも心臓の動いている音が聞こえ、心の底から安堵した。
 何度か人工呼吸を施すうちに、角松の頬には赤味が戻ってきた。大丈夫。かれは生きている。

「幸福、というのなら……」

 草加拓海個人の幸福ならば、間違いなく角松と共に生きることだ。角松の願いも、草加個人の幸福という意味だろう。それ以上は個人の手には大きすぎる。

「私は……」

 だが草加の望んだものは個人的な幸福ではなかった。国民や国家などというレベルでもない。いや、幸福などという抽象的な概念などまったくなかったのだ。

「あなたに」

 角松を殺してしまったと思った瞬間の恐怖。
 愛するものを永遠に手に入れるなどという表現は、結局ただの綺麗事にすぎないのだ。あの瞳はもう自分を映さず、あのくちびるはもう自分を呼ぶことがない。あの体に宿っていた角松洋介という魂の消失。ただ腐り果てるだけの肉体しか目の前にないのだと思ったときの、あの。

「生きて、いてほしいのです」

 震える手がまだ気を失っている角松の頬を掴んだ。できうることなら殺してしまいたかった。この手で引き裂いてやりたいと痛烈に思った。そしてどんなことがあろうともこのひとだけには生きていてほしいと、そのためにはなんでもできると思う自分が存在した。角松はあの時、草加のなかにあるこの葛藤を見出したに違いない。誰よりも死を望んでいながら、誰よりも生きていて欲しいと思っている。角松の心の奥にも眠っている、この二つのどうしようもない苦しみを。
 ゆらり、と視界の下方に涙が見えた。涙は頬を滑らずにまっさかさまに落ちていく。角松の、頬や、瞼に降りそそいだ。
 あるいはどこかの遠い海で、草加の行動を阻止しての角松の死なら、受け止められるだろうか。この体さえ目の前になかったら。どんなに痛みをともなっても実感のわかない死なら、たとえそれが角松でも、耐え切れるかもしれなかった。未来から来たというかれならば、いずれ生まれてくるのを待てばいいのだから。それならばその時かれが生きている国は草加のジパングになっているだろう。その時、かれに訊いてみればいい。この国をどう思いますか?







 連れて行ってほしい。理想の国があるならば。
 これから先あの黒い雲が立ち上ることが決してない、青い空の向こうへ。