無糖
「うわ、すごい人ごみ」
「時間帯が悪かったな。ちょうど出勤ラッシュ時だ」
電車の中はすし詰め状態。人の波に揉まれながら、アムロとクワトロことシャアは、滅多に味わう事のない通勤ラッシュに辟易した。
一駅ごとに乗降する人の波に巻き込まれないように、つり革につかまっているだけでやっとだ。
それでもまあ、これだけシャアに密着できるのはけっこう役得かもな。そんなことを考えつつアムロがシャアを見上げた。
「?」
シャアは変な顔をしていた。
「どうかしたのか?シャ…じゃなくて、クワトロ大尉」
どこか困惑したような、恥ずかしそうな顔のシャアに訊けば、彼は薄く目元を染め、アムロの耳元に囁いた。
「すまないが、次の駅で降りる」
「え?目的地はまだだぞ」
「少し困った事になったんだ」
伏目がちのシャアは色っぽくて、こんなところだというのにアムロの胸は高鳴ってしまった。
言われたとおり、次の駅で降りる。どうしたんだ、急にとアムロは訊こうとして、シャアが一人の男の手を掴んでいることに気がついた。
「……誰だよ、その人?」
シャアはしばしの沈黙の後、むっつりと答えた。
「………痴漢だ」
「痴漢!?」
つい大声になったアムロを、何事かと通勤客達が、それでも足早に振り返る。
シャアに手を掴まれた男も、おそらくその一人だったのだろう。スーツ姿の中年男。まさか捕まえられて引き摺り下ろされるとは思ってもみなかったのか、青褪め、心なしか震えている。これからの自分の運命を、会社での立場、家庭での立場、それら全てをシャアに握られているのだ。社会的生命が。
「痴漢なんて…よくもまあ」
わからないでもないがとは言えなかった。シャアがものすごく怒っているからだ。
「警察に届けるのか?」
「いや…。そうできるのならそうしたいが」
「俺たちの立場じゃ無理か」
まさかエゥーゴのエースパイロットが痴漢にあいましたと届け出るわけにはいかない。のこのこ出て行けばこちらの手が後ろに回りかねないのだ。
「そのかわり、少しつきあってもらおう」
「ど、どこに!?」
悲鳴に近い声をあげたのは痴漢男。すいません魔がさしたんです許してくださいもうしませんと今更ながらに謝りたおす男に、シャアはにっこりと微笑んだ。
「この私をこんなにしておいて…まさかただで帰してもらえるとは思っていないだろう…?」
囁く声はあくまで優しく、甘い。しかしその分たっぷりと毒が含まれていた。
その後、二人はトイレの個室に入り、ドカンと一瞬の衝撃音が誰もこないかと見張っているアムロの耳に届いた。そしてシャアはやけにすっきりとした表情で、男を肩に担いで出てきた。
―――シャアの逆鱗には絶対に触れないようにしよう。
駅のベンチで気を失って、顔とスーツの背にでかでかと『私はチカンです』と書かれてしまった男の未来を想像して、アムロはそう決心した。
容赦なく。