はじめてのおねがい





 行は仙石に対し、たいへん我儘である。
 出会ってから現在に至るまでに仙石が行に与えてしまったものに、それは由来する。信頼、寛容、大人の度量、屈託のない態度。たった一度の裏切りも、工作員という身分を偽っていた自分を許すきっかけであると思えば行にとっては甘い痛みをともなった思い出だ。
 そんな行が仙石にだけ懐き、べったべたの甘ったれになってしまうのは、いわば当然の成り行きだろう。

「…………」
「あのな、行……」

 行はむっつりと口を閉じ、仙石をじっと見つめ続けた。鉄壁の無表情がまるで睥睨するかのように睨みつけるのだ、本人はどうして言葉が出てこないのだろうと内心で葛藤しており、見つめられている仙石もこれが行の精一杯の甘え方であることをとっくに見抜いていたが、傍からみると結構怖い図である。気のやさしげな中年男性を捕まえて無言で見下ろす青年。まるで親父狩りのようだ。夕方のありふれた駅前の風景にそこだけ黒雲渦巻いている。学生だろう、夏服の制服に身を包んだ女の子が二人を見てぎょっとした顔になり、慌てて遠ざかっていく。仙石はそれを眼の端に捕らえ、ため息のかわりに笑顔を作った。このままここにいたらなにやら騒ぎになりかねない雰囲気だ。ひとまず人目のない路地に移動した。

「どうしたんだ?言いたいことがあるなら言ってみろ」

 怒らないから。仙石が苦笑まじりにうながせば、行は我儘を堪える子供の顔になった。困らせたくないのに困らせてしまう、自分へのジレンマ。行が言った。

「帰らないで」
「………へ?」

 言われた瞬間の仙石の顔ときたら、マヌケそのものだった。

「仙石さんが帰るのがヤ、なんだ」
「ヤ、つってもよ。また明日会うじゃねぇか」

 それなら別に行のところに泊まってもよさそうなものだが、一人暮らしの部屋を夜に開けておくのは躊躇いがあるのだった。ベランダに干したままの洗濯物、朝に使用したものの洗わずにシンクの盥に突っ込んだだけの食器が彼を待っている。想像しただけでうんざりだ。

「怒らないって言った」
「怒ってねえよ。びっくりしただけだ」
「じゃあ、帰らないでいてくれるのか」

 不安と、期待。ぴくりともしない表情筋のかわりに瞳が仙石に訴える。お願いだから、我儘をきいて、と。
 しょうがねえなあ、と仙石がうなずくより早く、誰かが通報したのかお巡りさんが路地に割り込んできた。

「あー、君たち。何をしているのかね?」

 親父狩りかもしれないとでも言われたのか、手には警棒を構えている。行と仙石はあまりのことにピキンと固まった。
 行がわずかに緊張したのを感じ取り、仙石は焦った。脅えたのではなく、迎撃体勢をとろうとしている。

「いや、すみません」

 なるべく明るい声で言って、仙石が行の頭をぽんと撫でた。仙石のほうが背が低いため、どうにも微笑ましい。お巡りさんもそれを見て、警戒を解いた。

「部下がどーしてもと我儘を言うんで、ちょっと困っていただけなんです」
「…もう部下じゃない」

 前髪をくしゃくしゃにされても大人しくしている行に、どうやら通報が早とちりであったとわかったお巡りさんは、警棒を腰に戻した。ひととおりの職務質問だけをして、あんまり上司を困らせるもんじゃないぞと行をたしなめてから交番に帰っていった。
 不自然な笑顔を貼りつけていた仙石が(誰だって警察官に話しかけられたら意味のない笑顔を浮かべるだろう)、は〜と肩を落とした。
 それから、行を見る。
 彼の整った綺麗な顔は、どこか悲しそうだった。他人から、誰かに危害を加えるかもしれないと思われたのだ。誰だってショックだろう。おまけに行は、とても人には言えない過去がある。
 やっぱり俺は人殺しなんだ。そんなふうに思っている行を、仙石は見抜いた。

「なんてツラしてんだよ」

 男前が台無しだぞ?ちょいちょいと頬をつついてやれば、やめろよ、とぎこちなく怒ったように嬉しそうに手を払いのけた。

「さ、帰るか」
「え……」
「スーパー寄ってくか。晩飯何が食いたい?」
「えっ」

いいの!?行にしては大きな声に仙石は驚いた。

「ダメだなんて俺はひと言も言ってねえぞ」

 行の我儘なら、どんなことでもしてやりたい。仙石はその切なさを胸にしまった。いつか、自分ではない別の誰かが行の隣に並ぶだろう。それがあたりまえであり、自然なことだ。子供はいずれ親から巣立っていくのだから。
 行に対する好意が大人が子供に向ける愛情なのかそれとも別の愛なのか、仙石自身にもわからなかった。




 行は、浮かれていた。
 仙石が今夜泊まってくれる。それが妙に嬉しいのだった。
 我儘だ、と行は自分でも思うのだが、仙石に対する欲求はどんどんエスカレートしていってしまう。どうしてなのか理由もよくわからないのだが、目下のところ行の相談相手になれるのは仙石本人しかなく、誰にも言えなかった。

「着替えはともかく、下着がねえな」

 そういえば、と仙石が買い物用カートを押していた手を止めた。
 今まで二人が会う時は仙石が行の部屋へ行き、たいてい絵を描くことに終始していた。当然ながら仙石の私物など置いていないのだ。それどころか、行の部屋には客用の布団がなかった。
 今さらながら気づいた事実を行が言いにくそうに言うと、仙石が笑いながら呆れた。

「しょうがねえなあ。まあ一晩くらい雑魚寝でもいいか」

 中年の身に硬い床は正直辛いが、悲しいことに狭くて硬い寝床には慣れている。護衛艦とは違い揺れがないだけましであろう。

「なんなら一緒に寝ようか?」

 からかうつもりで行が言った。このセリフが墓穴を掘ることも知らずに。

「ああ、それもいいかもな」

 サラッと仙石が返事をした。もちろん本気で受け止めたわけではなく、冗談だ。行がこんな軽口を言えるようになったと嬉しささえ感じている。
 否定されなかったことに、行の心臓が高鳴った。えっと戸惑う間にも頭に血が昇っていく。なんだよ、コレ。ドキドキドキドキと、うるさいほどだ。
 二階の衣類売り場で仙石の下着とついでにパジャマも買い、二人は行の部屋へと再度向かった。
 行のドキドキは、仙石が作った夕飯を終えて彼が風呂からあがった時にピークに達した。
 首にタオルをひっかけて、Tシャツにトランクス一丁というおっさん丸出しスタイルなのだが、身の内がむずがゆくなる照れが駆け上がってきたのだ。少したるんだ自分の腹と行の腹を見比べている。ほんのりと色づいた肌や湿った髪に、ドキドキが胸から下腹部に降りていくようだ。

「行?」
「なんでもないっ」

 どうしたと問われたわけでもないのにいきなり否定した行に仙石の目が丸くなる。ぽかんとしている仙石に自分の失言に気づいた行はかぁっと赤面し、慌てて風呂場へ逃げ込んだ。

「な…なんだよ、コレ」

 行は呻いた。「コレ」は彼の体の中心で熱をもちやや頭をもたげて質量を増しているものである。
 いくらなんでもこの現象がなんであるかわからないほど、行も子供ではない。ないが、行は戸惑った。彼がダイスに教え込まれたいわゆる性教育は、もっぱらそれを抑圧する方法だったのだ。欲望に取り付かれた人間には冷静な判断が下せないのは周知の事実である。昔から酒と金と女はきつく戒められていた。
 ただし、男としてどうしようもない生理現象の場合もある。そんな時は吐き出してしまえとミもフタもないことを指導されていた。それが何であれ、吐き出せばスッキリする。

「…………って、」

 そこまで考えて、行は自問自答した。出す?これがこんなことになった原因である仙石が、すぐそこにいるのに?
 ダメだ。そんなことをしてしまえば仙石に合わせる顔がなくなる。コレがこんなことになった原因が仙石である、ということを疑問に思わないことも問題であろうが、行にとって仙石はある意味世界を形成するすべてでもある。求める気持ちがそちらへ行くのはむしろ健康な男子としては無理もないことではあった。だからこそ余計に、行は自分を責めた。
 行は冷水を頭から被り、静まれ静まれと念仏のように唱え、衝動と戦った。それが事実上静まるまで待ってから、ようやく風呂から出ることができた。

「遅かったな…って、行?なんで冷えてるんだ?」
「習慣。冷水を被ると白髪が黒くなるんだって」
「よくそんなこと知ってるな〜」

 仙石は素直に感心している。ダイスも粋なことを教えるもんだ。呟きに疑問はなく、行はほっとした。
 じゃあ夜更かしするか!やけに張り切って宣言する仙石に、行はなんでだと問いかけた。こういう時は夜通し遊ぶもんだと仙石はにかっと笑った。いうまでもないが行には誰かと夜通し遊ぶといった経験がなく、若者の部屋になら必ずあるべきTVゲームの一機もない。二人はやはり昼間と対して変わらない二人に共通する趣味にして職業であるところの絵を描くことにした。
 スケッチブックを広げた仙石は、ふと思いついて行の顔を描いてみた。目の前にある無愛想そのものの顔ではなく、幸福に目を細めて笑う顔。実際には見たことのない、見てみたい――というよりも自分が彼をそんな顔にさせてやれたらいいのになと思う笑みを。

「………?」

 しかし彼は首を傾げ、描いた行と本物を見比べた。人物画はあまり得意ではないもののデッサンくらいはできる。だが何枚描いても、どうも気に入らない。行に見えないのだ。
 むう。仙石は唸り、ムキになった。行に笑顔が似合わないなんて絶対に認められない。
 一方の行はというと、彼もまたやはり仙石を描いていた。行が仙石を描くのはライフワークといっても差し支えないほど、何枚も描いている。会うたびに違った顔を見せてくれる大人の人は、見ても描いても飽きないのだった。行のスケッチブックの前半には先任伍長の顔や背中が、後半にさしかかり再会を果たしてからは様々な表情の仙石が。とても本人には見せられないが、仙石専用のスケッチブックである。ちなみに3冊目。
 知らず、行の顔が綻ぶ。自分の目の前にいて欲しい人がまぎれもなくいる、という幸福は、母を喪ってから久しく味わっていない感情だった。

「ぁ………」

 仙石がつい声をあげた。互いに互いを描いていたせいで行と目が合い、彼がほんのわずかにではあるものの笑ったのを見たからだ。

「何?」
「いや。…なんか、嬉しくてさ」

 行が顔をあげる。仙石は自分がどれほどやさしい笑みを浮かべているのか自覚がなかった。

「…何を描いてるんだ?」

 てっきり海の風景を描いているものと思っていた行は、仙石その表情に少し気分がざわめいた。何が彼をそんな顔にさせたのだろうか。わかりやすい嫉妬だ。

「…見たいか?」

 悪戯っぽく聞いてきた仙石に、行は素直にうなずいた。
 ほら。仙石は自分でふっておいて照れくさくなったのか、掲げたスケッチブックで顔を隠した。
 行が眼を見張った。
 描かれていたのはいくつもの自分の顔。どれも笑っていた。口を開けて笑い、目を細めて笑い、恥ずかしげに笑い、怒ったように笑う。子供のように顔をくしゃくしゃにして笑っていた。様々な表情の笑顔たち。行の記憶にはない顔がそこには描かれていた。

「仙石さん」
「ん?やっぱ似てねえか?」

 ぶんぶんと首を振った。いつか、いつか本当にこんなふうに笑うことができるだろうかと行は思った。きっと、大丈夫。仙石となら不可能なことなどないに違いない。信じることができる。なんといっても俺を助けてくれたのだ。生きがいさえ与えてくれたのだ。

「俺…仙石さんが好きだ」

 行が言った。ただまっすぐに、自分の好意を伝える為に。
 言われた仙石はというと、一瞬ぽかんとしたもののすぐになんともいえないくすぐったい気分になった。仙石にしてみれば「将来パパのお嫁さんになる!」とでも言われたようなものなのだった。もっともそんなことを言うのは息子ではなく娘なのだが。
 実に微笑ましい気分になった仙石は、だから行の告白を茶化すこともたしなめることもせず、

「おう。…俺もだ」
「本当?」
「嘘ついてどーすんだよ」

 思いがけない返答に驚いた行が詰め寄った。行は仙石が『大人の対応』をしてくるとばかり思っていたのだ。
 美青年といえる行の顔を間近にみた仙石はあらためてこいつ綺麗な顔してんなあと的外れに感心していた。少し伸びた前髪からのぞく目のあたりがうっすらと染まっている。

「俺たち、両想い?」
「そうだな」

 両想いとはまた子供っぽい表現だが、まともな恋愛経験のない行は子供そのものだ。ただし厄介なことに、体は大人なのだが。

「………」

 行は言葉をなくして黒い瞳を潤ませた。よしよしと父親気分の仙石が頭を撫でると、おそるおそる手を伸ばして抱きついてしまう。しだいにその力は強くなっていった。

「仙石さん…」
「んー?」

 ドサッと二人は床に倒れこんだ。大きな子供の体重に仙石はなにやら妙な感覚に襲われた。不快ではない、むしろ、気持ちがいいのだ。
 するりと行の長い足が絡みつき、熱いものが太腿にあたっている。行が言った。

「俺の、はじめての人になって」

 意味がわからなかった。
 気楽にいいぞと返事をしそうになって、仙石の脳味噌はようやくその言葉の意味を理解する。この体勢と会話の流れではじめてといったら、つまりそういうことなのではないだろうか。ということは、この太腿にあたっているのはつまり、行の。
 そこまで考えて、頭が沸騰した。

「いや、待て待て待て。おちつけ行!」
「俺はおちついてる」

 慌てているのは仙石だ。当然だろう。行の告白を、そのような意味で受け止めたのではないのだから。

「よく考えろって言ってんだ。そーゆーことはもっと…こう、かわいい女の子と!」
「好きな人とすることだ。違うのか?」
「ち、違わない。…けど、よう」

 仙石にしてみれば、行にはもっと彼に似合いの若い女の子が良いだろうと思っている。そもそもこういったことは、普通男女間で行われるべきものだ。
 しかしまともな性教育も恋愛経験も経ていない行にしてみれば、好きな人とするべきことという信念にもにた思いがある。ごく普通の人間関係で育ってきていない行は、今時の女子高生などよりもずっとセックスに対する畏怖と憧れが強かった。恋愛の延長線上にある、究極の形。それが行にとっての肉体関係だった。
 行よりもずっと大人で結婚したこともある仙石は、肉体関係が必ずしも恋愛の終着点とはならないことをとっくに承知している。経験済みだ。そしてそのぶん、新しい恋に臆病だった。

「…………」
「仙石さん。…イヤなのか」

 好きだって言ったのに。まるっきり中学生のような言い分だ。

「おまえこそ、いいのか?」

 この関係を、恋という形にして。
 友人あるいは擬似親子の関係ならば、ケンカをしたからといって破綻に結びつくことはまずない。
 だが恋愛は違う。些細なことが、それこそケンカにすらならないようなことが嫌になると、相手のすべてに幻滅する。許せなくなる。恋愛の究極的な形とはむしろ友人であり親子、あるいは兄弟といった、空気のような軽い存在なのだ。少なくとも男にとっては自分を否定しない居心地の良い安定した家、最終的にはそれになる。

「恋ってのはたぶん、おまえが想像してるのよりずっと辛いぞ?」
「いいよ」

 行は即答した。それからそうっと、くちびるを重ねた。触れた瞬間脳を麻痺させた快感に感動する。

「仙石さんと会って、俺ははじめてのことばかりだ。だから、仙石さんがいい」

 言い切られてしまった仙石は、反論する術を失った。
 行が好きかと問われれば、好きだと答える。それはさっきと同じだ。理由も理屈も感情の前では役には立たない。ただ好きだから大切にしたいし、行の望むことならなんだってできるだろう。なんたって命までかけたのだから。
 では何か問題があるのかというと、年齢と性別。これに尽きた。
 仙石には男とどうこうという趣味はないし、この体勢からいって抱かれる役目になるのは自分だろう。どうしても嫌悪というかためらいがあるのだった。なにより方法がわからない。実をいえば男ばかりの狭い世界、ひとつ屋根の下という狭い空間の護衛艦のなかではわりーとひっそりとその手の話を聞いたことがあった。長らく生きてきてそれなりの性経験があれば、そちらの方向へ興味がいくことももちろんあった。ただし自分が受身になるということは考えたこともないのだ。鬼の先任伍長を口説いてくる物好きはまずいないことも幸いだった。
 年齢が上ということはとりもなおさず、そのぶん仙石のほうが世界が広いということでもある。離婚したものの妻子があるし、仕事だってそれなりに持っている。ある程度の未来予測がつくのである。そしてこのまま何事もなく人生が順調にいけば、まちがいなく仙石が行よりも先に死ぬだろう。
 行をひとりにする。それは仙石にはもう二度とできないことだった。

「おまえ、天才だろ」

 咎める口調で仙石が言った。

「何が」
「俺が、おまえの喜ぶことならなんでもしてやりたいって思ってるの、知ってるだろ」
「え……っ?」

 ぱっと顔をあげた行にじわじわと喜びが広がっていくのを見て、仙石がにやりと笑った。してやったり、というように。くしゃりと頭を撫で回す。大事な行。かわいい行。俺はおまえのためだったら、どんなことでもできるんだよ。

「とりあえず…。覚悟しとけ」
「…うん!」




 寝室に入った仙石がまず注文したのは、電気をつけるな、だった。

「…なんで」
「おっさんのでっぱった腹なんか見たら、萎えるだろうが」

 不服そうな行に説明するが、仙石なりの気遣いだった。たるんだ腹うんぬんもそうなのだが、そこにはあの時ヨンファにうけた傷がある。完治しても時折痛むこの傷を見て、行が落ち込んだりしないか心配だったのだ。もちろん仙石も、行の傷を見ることを恐れている。あの時自分の言いつけを守ったがために行は生死の境をさまよった。はじめてが傷の舐めあいや慰めあい、謝罪で終始してしまっては、いかにもせつない。

「いいか、途中で無理だと思ったらやめろよ?」
「そんなこと、ない」
「どーだか」

 暗闇のなかでやさしく笑う気配。ムキになった行は再び仙石にキスをした。といってもそれはただ触れ合うだけのキスだ。繰り返すが行がこのような行為に及ぶのはこれがはじめてであり、舌を入れるような濃厚なキスなど彼は知らないのだ。
 こうすればいいんだよな。頭にある数少ない知識を総動員させて、行は動いた。

「………っ」

 互いに服を脱ぎ、平かな胸をたどる。仙石の腹は自己申告のとおりにやわらかかったが、行にはそれがちょうどよかった。もし仙石の体が完璧に鍛え上げられていたら、今まで出会ったそのような男たち、教官やら敵やらを思い出してしまい、嫌悪感を抱いていたかもしれない。
 胸の突起を指先が掠めた時、仙石が息を飲んだ。たちまちそこが硬くなる。母親以外の胸に意図的に触れている。しかも仙石がそのことを受け入れてくれている。嬉しくなった行は子供のようにそこに頬を摺り寄せ、舌を伸ばした。

「う、わ…っ」

 仙石が焦りの声をあげた。緊張した皮膚が行のすべてを快感として受け止めている。自分の上に覆いかぶさっている行の、緩く立ち上がっているものが自分のそれと擦れあり、ぞくぞくした。
 こいつがこれからあのとんでもない場所から入ってくる。それを思い、今さらながらに仙石は気づいた。はたして行は、そのことを知っているのだろうか?

「な、なあ、行。おまえ…どこに挿れるか知ってんのか?」
「尻の」
「知ってんならいいっ!!」

 訊くんじゃなかった。焦りと羞恥で真っ赤になった仙石は、明かりをつけなくて正解だったとしみじみ思った。こんな顔を見られたら、次からどんな顔をしていいのかわからなくなる。

「仙石さん、…かわいい」
「う、うるせえ」
「なあ、こういう時って何を話せばいいんだ?」
「黙って集中してろ。ちゃっとやってちゃっとすましゃいいんだ」

 情緒もへったくれもないセリフに行が目を丸くする。

「そうなのか?」
「ぐちゃぐちゃお喋りなんかしてたら、萎えるだろうが」
「もっと、言うんだと思ってた」

 好きだとか愛しているだとかはこういう時に用いるセリフなのだと思っていた。行の言い分もあながちハズレというわけではないが、愛の告白はいわば必殺技、安っぽく言うものではない。照れと見栄と大人の分別でもって仙石は行をたしなめた。
 行の手が下腹部へと伸び、臍から続く線をなぞり茂みを潜り抜け、仙石のそこをなぞった。咄嗟に仙石は身構えたがすぐに力を抜く。わかっていたことだ。久しぶりに他人の手から与えられる快感に、息があがっていった。

「行……っ」

 溺れる人のように手を伸ばし、行の頭を引き寄せた。キスをする。伸びた前髪が瞼をくすぐった。背中にしがみつけばしっとりと汗ばんでいて、行が興奮していることを仙石に教えた。

「仙石さん」

 いい?と訊こうとした行は、後孔に指をあてた。そしてわずかに眉が寄る。当然のことながらそこは硬く閉ざされていた。もちろん濡れてもいない。知ってはいるが知識のない行はとりあえず強引に指先を潜り込ませた。

「い……っつ!」
「ごめんっ」

 さりとてここに入れなくてはならない以上、慣らす必要があった。行は考えた。仙石はというとあらぬ部分から押し寄せる痛みと指の感触に一斉に汗をかいていた。この格好はちょっと勘弁してもらいたいなどと考えていた。

「仙石さん、ちょっといいか」

 うつぶせになるようにと指示されて、仙石はふるえあがった。正直にいって怖ろしい。実に遠慮したいが行は極めて真剣で、ここらで止めとこうぜとはとても言えなかった。心臓がばっくんばっくんいっている。
 大いにためらった後、仙石はうつぶせになった。とりあえずひと言言っておく。

「こ、行、ひどくすんなよ?」
「…了解。少し我慢して」

 行は仙石の双丘に顔を寄せた。両手の親指でくに、と割り開く。うひゃあと奇妙な悲鳴があがったが行は聞かなかったことにした。
 暗がりのなかでもぽってりと赤くなっている慎ましく閉ざされたそこを、行はためらいもなく舐めた。

「い……っ!?」

 仙石がすっとんきょうな声をあげた。首を捻って後ろを見ると、声に驚いた行がきょとんとしていた。ちいさく舌をだしている。

「な、な……っ」

 言葉もなく驚いている仙石に首を傾げ、行は再開した。舌の上に唾液を溜め、濡らしていく。

「バ…ッ、やめ……。きた、な…」
「気にしない。それに、こうでもしないと無理そうだし」

 無理だと思ったらやめろと言われたが、やめろと言われたらやめろとは言われていない。行は仙石の言葉を都合よく解釈した。実際イヤではなかった。こんなことくらいはなんでもないのだ。
 唾液で滴るほど濡れた頃、行は再び指を入れてみた。今度は拒まれず、飲み込まれていく。くちゅ、と音が立ち吸い付く感触に、行は鳥肌をたてた。未知のそこは熱く、やわらかかった。

「仙石さん、すごい。これなら俺のも入りそう」
「バカッ!!」

 さらっととんでもないことを言ってのける行に、仙石は怒鳴ることで応えた。
 拡げられる痛みや挿入の圧迫感。これでまだ指だけなのだから行のものが入ってきたらどうなるのだろう。迂闊に了承したことを、仙石はちょっぴり後悔した。足腰立たなくなるのでは、などと正常な思考を保っていられたのは、ここまで。
 いくよ、と律義に宣言してから行が入ってきたのだ。

「―――…っ?く…っ」

 その瞬間は何が起こったのかわからなかった。頭が真っ白になった後に痛み。それから熱。灼熱の塊が引き裂いてくる。本能的な恐怖に仙石の目から涙が溢れた。

「せ、ごく…さ、力ぬいて…!」

 行もあまりの痛みに声を詰まらせた。入れたはいいがいわゆる男の急所を容赦なく締め付けられているのである。こっちも息が止まりそうだった。冗談ではなく文字通り抜き差しならない状態だ。
 仙石は応えられなかった。混乱した頭では言葉を意味としてとらえることができなかった。短い呼吸をなんとか繰り返すだけで精一杯だ。
 行が低く呻き、仙石に覆いかぶさった。胸と背中がくっついて、鼓動が重なる。
 しばらくそのまま、そうしていた。

「仙、ご…さん。わかる…?」
「……ぅ……んっ」

 行の手が胸をなぞり、衝撃に縮こまっている仙石のものを掴んだ。ぴくんと弱々しい反応が返る。

「ひとつになってる……」

 それは体であり鼓動であり想いでもあった。仙石はうなずいた。快感などなく痛みだけだったが、痛みを上回る満足があった。

「行……っ」

 涙まじりに呼びかけられ、行が項に噛み付いた。よく食べると表現されるがこういうことなのかもしれないと思った。食べたいくらいだ。この体のすみずみまで知り尽くしたい、欲望だった。どちらかというと食われているのはこちらのような気もするが。

「う、あ…っ、…あ……っ」

 仙石が苦痛なのか快感なのかわからない喘ぎをもらした。ぐっと奥まで押し込まれ、また引き抜かれる。行と何度も呼びかけた。それしか言うことができないのだ。痛みでも恐怖でもない涙が溢れてくる。今までの経験なんて、何の役にもたたなかった。

「あ……!」

 と、行が叫んだ。びくんと中のものが跳ね上がり、熱い液体で満たされる。それに引きずられるように仙石も達した。
 ぷしゅうと空気の抜けた風船のように突っ伏してしまった仙石に、行が慌ててそこから引き抜いた。ぽたりと零れたものにまた慌てる。ある意味まったく動転していた。

「せ、仙石さん。…仙石さん、大丈夫か…?」

 重たい体を仰向けにひっくり返すと、仙石が泣いているのが見えた。呆然としている。

「し、死ぬかと思った……」

 息も絶え絶えにそんなことを言って、仙石は行を睨みつけた。痛みの余韻に痺れている腕をなんとか動かして行の頭をがしがしと撫でる。それから汗で額に張り付いた前髪を払い、ちゅっとキスをしてやった。潤んで大きくなった行の瞳を覗き込む。

「…好きだよ、行。――まいったか」

 行は一瞬きょとんとし、それから泣き笑いの表情になった。あんまり逞しくないぽにょんとした腹に突っ伏す。

「あんた…。ちくしょう、大好きだ!」

 行が叫んで、仙石が笑った。




 翌朝、予想通り仙石は足腰が立たなかった。
 ぶつくさと文句をたれる仙石とは対照的に、行は嬉しそうだった。仙石がほとんど動けない為、二人はやはりスケッチをしている。今日も描くのは互いの顔だ。

「アレが、あんなにも素晴らしいものだとは思わなかった」

 さらさらとしかめっ面を描いている行が言った。その発言内容に、一夜にして男の艶を得た仏頂面を描いていた仙石はスケッチブックに顔面をぶつけてしまう。

「な、」
「ダイスじゃ基本的なことと、抑制の方法くらいだったし。…ああいうことって、なんか嫌悪感があったんだ」

 幼少期のこと、特に父親に関することを行は仙石に打ち明けていなかった。仙石も行の過去をあえて自分から尋ねようとは思わない。だがあの忌まわしい思い出があったからこそ逆に、行のなかで憧れの対象にもなっていたのだろう。

「だから、仙石さん」

 赤くなった仙石はちらっと目をあげて行を見て、そして後悔した。行は仙石がはじめて見る顔、楽しい悪戯を企んで笑う、悪ガキのような顔をしていた。そんな顔をされたら罠だとわかっていても引っかかりたくなってしまう。

「これからも、俺をヨロシク」






あんまりエロくならなくてすみません〜!
少しでも「はじめて」の初々しさと二人のぎこちなさを楽しんでいただければ幸いです。