鬼籍のひと





 困ってるんだ。
 行にしては珍しく、心底途方に暮れた声で電話をかけてきたのが真夜中だった。一夜明けて兄に休みの連絡をいれた仙石は、何事だと彼の大きな子供の下へと向かった。自動車がないのはこんな時に厄介だ。一晩をどんな思いで過ごしたのかを想像すると胸がつぶれそうになる。
 何が珍しいかというと、行があのような弱音を吐くこともさることながら、時間をわきまえもせずに電話をかけてきたことだった。行はよほどのことがない限り電話などかけたためしがない。ということはつまり、よほどのことがあったに違いなかった。仙石は不安に沈む心を抑えて行のマンションのドアを叩いた。

「…仙石さん!」
「行、一体――…」

 何があったんだ、と続けようとした仙石はそのまま硬直した。行の後ろから、女が足音もなくやってきたのだ。
 しかも彼女は裸の上に、あきらかに行のものと思われるシャツを羽織ったのみ。いわゆる彼シャツ姿だった。

「あ、こ、これはお邪魔しました……」

 そのままくるりとUターン。しそうになった仙石を、行が慌てて引き止めた。

「仙石さん違う!あの女はジョンヒだ!!」

 ジョンヒ、という名に聞き覚えのなかった仙石だが、韓国名にあの時のあの女だと察することができた。
 何をするでもなくじっと佇むジョンヒをまじまじと見つめる。仙石がちょっぴりへっぴり腰なのは、致し方ないことであろう。

「…たしかに、あのおっかねー姉ちゃんだな。生きてたのか」

 仙石にかかればジョンヒも「おっかねー姉ちゃん」か。行は妙なところで仙石の胆の太さに感心した。

「生きてるわけないだろ、この女はあんときたしかにミンチになったはずだ!」

 いかにも生々しい表現に、仙石とジョンヒの眉が寄る。

「そこにいるじゃねえか」
「…幽霊だろ、どう見てもっ」
「よく見ろよ、行?ちゃんと足がついてるぞ」

 どうやら仙石はジョンヒを「生きている」ということにしたいらしい。そう思って見れば仙石はさりげなくジョンヒから目をそらしている。心なしか顔色も悪かった。

「仙石さんこそ、現実を見ろ。その女には、影がない」

 行がとどめをさした。
 ぴきんと固まった仙石がロボットよろしくきごちない動きで首を捻り、ようやくジョンヒを見つめた。ジョンヒはまっすぐにその視線を受け止めている。どことなく、嬉しそうだった。

「…とりあえず生き返ったってことにしとこうぜ行!この世には幽霊もオバケもいない!!」

 生身の人間なら対処のしようがあるが、幽霊では手も足も出ないではないか。やめてくれよ、お盆にはまだ早すぎる!と泣きつく仙石に、行もしぶしぶ折れた。このままではもう帰る、ジョンヒがいる限り来ないからな、などと言い出しかねなかった。





「…何しに来たんだ」

 こんこん、かしょ。台所では仙石が、タマゴを割っている。

「…………」

 声帯のないジョンヒは行の問いかけに答えなかった。あの時のような感応もない。だが、行にはピンときた。
 おまえなんかに用はない。私が会いに来たのはあの男よ。たまたま近い存在がここにあっただけ。ジョンヒの目はそう言わんばかりに台所に避難してしまった中年男にひたりと据えられている。
 とりあえず朝飯は食ったほうがいいよなうん。現実逃避の手始めに仙石は言うが早いか料理をはじめたのだった。オーブントースターに食パンを入れ、タマゴにミックスベジタブルを入れてオムレツを作る。彩りにはプチトマト。中華スープの素にはレタス。出す直前に入れてシャキシャキのまま食べたい。簡単すぎるレシピだが如月行の食卓としては鮮やかだ。行本人は放っておけば、恵まれなかった子供時代の仇とばかりに菓子類ですませてしまうのだ。

「ほら、できたぞー」

 ぎこちなく引き攣った笑みを浮かべ、仙石が料理を運んできた。
 ごく自然に、行の隣に座ろうとした仙石のズボンの裾を、ジョンヒが引っ張った。というか、がしっと足首をつかんだ。
 ひぃっと悲鳴こそあげなかったが、仙石はすくみあがった。ジョンヒが訴える瞳で仙石をじっと見つめる。
 これがジョンヒでなければ上目遣いでひたむきにおねだりする女の子の図になるのだろうが、ジョンヒにとって残念なことに、彼女はジョンヒだった。その顔がどんなに美しかろうと、いや美しいからこそ余計に怖ろしいものになる。

「な、何ですか?」

 仙石、思わず敬語である。自分の『言葉』が通じていないことを知ったジョンヒは苛立ちのまま床をバンバンと叩いた。

「あ、は、ハイ!」

 すばやく隣に正座してしまった仙石に満足気に目を細めたジョンヒは、次の要求をした。オムレツの皿に添えられたフォークを仙石に突き出したのである。

「…………」

 一方、気に食わないのは行だ。
 あの女はあろうことか仙石を隣に座らせただけでなく、手ずから食べさせてもらうつもりだ。行だけはジョンヒの意図を正確に読んでいた。それは行が秘かに抱いていた願望でもあったのだ。あれはまちがいなく「ハイ、あーん」だ。
 フォークの切っ先を突きつけられた仙石は、背筋の凍る思いだった。ジョンヒの鋭い、本人的には甘えた眼差しは彼に逃げることを許さない。フォークを食べなければおまえをとって食う。仙石はジョンヒのそんな声を聞いた。
 視線を反らすこともできないまま、なんとか指先で行に合図を送った。SOS。行、通訳してくれ。
 仙石の声なき声を聞いた行が待ってましたと動いた。フォークの先に一口サイズのオムレツを乗せる。

「仙石さん。はい、あーん」

 たしかに行はジョンヒの声を通訳したのだ。瞬間、ズバン!と音を立ててジョンヒのフォークが行の後ろの壁に突き刺さっていた。目にも留まらぬ早業だ。フォークの先には黄色いものが付着している。行のフォークに乗っていたはずのオムレツだった。仙石の口に入る前に、昇天してしまった。

「な」

 絶句した仙石の前で、二人はゆらりと立ち上がった。
 どうやらわたしたち、決着をつけなければならないようね。ジョンヒの声なき声が言う。

「決着なんて、とっくについてる。さっさと地獄に落ちろ」

 行は声に出して応じた。仙石さんは渡さない。誰にもやるものか。にい、とつりあがったジョンヒの口は、獲物を見つけた肉食獣そのものだった。





 かくしてここに、ひとりのオッサンをめぐる戦いの火蓋が切って落とされたのだった。






なんだか次回へ続く!なハンパな終わり方です。すみません。
ホントはヨンファも出番があったのに、時間切れです〜!!