泣いて我儘を





 足元がふらついた。
 なんだろう、と思い、舷一郎は立ち止まった。彼と共に歩いていた羽と張、3人を先導していた雲井は、急に立ち止まった舷一郎に訝しげな顔をした。

「舷、どうした?」

 すぐさま張が彼の隣に戻る。大丈夫、と舷一郎は笑って見せた。

「船に酔ったのかも。足元がふらついただけだ」
「大丈夫か?」
「平気…一晩寝ればよくなるよ」

 公文讃の屋敷は広く、快適だった。調度品などは実用的なものばかりだったが、日本がこんな状態でなかったら、美しい海と数々の小島を売りに、旅館としてもやっていけそうなほどである。

「今夜はここで休んでくれ」

 雲井が案内した部屋にはすでに布団が3つ、並べられていた。傍らには浴衣が用意されている。本当に旅館のようだ。

「君たちの安全は保障する。…それと、舷一郎」
「はい?」
「私は次の間で休んでいるから、辛かったら起こしてくれて構わない」
「………?」

 舷一郎は困惑した。免許はないが医者として雲井は気づかってくれたのだろうが、何のことかわからなかった。船酔いくらいで大げさな。反対に、羽と張にはわかったようだった。
 慌ただしい日だったと、3人はひとまず風呂を借りて人心地つき、それから布団にもぐりこんだ。疲労しきった体がやわらかい布団にめり込んでいくような感じがした。





 夜半、舷一郎は目を覚ました。
 疲れていたはずなのになぜ。大きく息を吸い込もうとして、喉が渇いていることに気づいた。眠っている羽と張を起こさないように音を立てずに部屋を出る。
 立ち上がると足が、というよりも視界がぐらついた。廊下の壁に手をついて台所まで進む。
 電気をつけずに手探りで水道とコップを探した。暗闇の中を他人の家でこそこそ動いているほうがよっぽど怪しいのだが、寝ている家人を起こしてはいけないということしか頭になかった。

「…舷一郎?」
「あ…雲井さん」

 パチンと小さな音がして灯りがついた。雲井は怒ったような顔をしてつかつかと近づいてくる。

「すいません、水を――…」

 言い終わる前に冷たい手が額に当てられた。

「やっぱり熱がでたか……」
「熱?」
「…気づいてなかったのか?」

 意外そうに目を瞬かせた舷一郎に、わざとらしくため息をついてみせる。自分の体に鈍感なのもほどがあるだろう。

「熱なんて…ずっとだしたことなかったのに」

 子供のころから健康優良児だったのだ。自分の体がどうなれば不調なのか、わからなかった。雲井はさらに眉を寄せた。そういう人ほど病気になった時にこじらせやすいのだ。
 寝室まで引っ張っていくと、案の上、彼の2人のきょうだいが起きだしていた。羽がさりげなく手を伸ばし、舷一郎を雲井から引き剥がした。張が守るように肩を抱く。2人とも、雲井に対する警戒を解いてはいなかった。
 羽も張も、舷一郎の具合が悪そうなことには気づいていた。海を泳いだくらいでどうにかなるほど柔な体ではなかったが、緊張が続き、食生活が悪化して――料理人だけあって、食事は舷一郎の役割だった――インスタント食品ばかり食べていれば、体を壊しやすくなる。気づいていながら何もできずにいたことを、2人は悔いていた。

「薬ではなく、汗をかいて熱を逃がしたほうがいいだろう」

 市販の解熱剤はあったが、舷一郎は飲まないだろう。なにより羽と張が飲ませないだろうと判断した雲井が言った。口調がきつくなってしまったのはいたしかたない。2人はまったく警戒を解かないのだから。医者にとって、こちらを信用しない患者ほど扱いにくいものはなかった。雲井はタオルと替えの浴衣を用意した。ひとまず汗を拭いて、着替えて寝たほうがいい。
 氷嚢を作ってくると雲井が出て行くのを待って、舷一郎はようやくほっとしたようにため息を吐いた。言われてみれば吐く息が熱っぽかった。

「大丈夫か?舷……」

 闇の中で心配そうに張が言った。うん、とうなずいたが自分でも情けないほど細い声だった。

「具合が悪いんだったら、遠慮なく言えよ?ただでさえ、無理しがちなんだから」
「…気がつかなかったんだ」

 2人は目を丸くした。舷一郎らしいと苦笑する。
 雲井が氷嚢とスポーツドリンクを持って戻ってきた。慣れた手つきで額に乗せ、水差しを使って飲ませる。

「とにかく大人しく寝ているんだな。水分はなるべく摂ること。熱くなってきても、布団を肌蹴ないようにしろよ」

 それから雲井は2人に向き直った。

「できれば別の部屋で寝ろと言いたいが……」
「舷一郎を独りにはしない」

 当然、というように言い切った羽に、張もうなずいて同意を示す。譲れないと顔で言っていた。答えがわかっていた雲井はため息混じりに忠告をするに留めた。

「患者の邪魔をしないようにな」







 わずかにまどろんだ後目を覚ますと、熱が上がっているのがはっきりとわかった。体の感覚が一部分離しているようにぼやけて、動かしにくい。なんとか頭を動かすと、額に乗せられていた氷嚢がたぷんと揺れた。額との間に挟んであったタオルが氷嚢の水滴を吸って重く、体温に馴染んで熱かった。それが不快でタオルを払う。吐く息がだるかった。

「…熱が上がったな……」

 声とともに手が額に乗せられた。羽だった。のそりと張も起きる気配。起こしたと思う間もなくくちびるに硝子が押し当てられる。流れ込んでくるスポーツドリンクを喉を鳴らして飲んだ。張の大きな顔が、情けなくしょげかえってこちらを覗きこんでいた。

「舷一郎…?」
「舷……?どうした…?」
「………っ」

 目の縁からあたたかいものが湧き上がっている。それを見たのだろう2人が慌てた。瞼の端から耳へとくすぐったい感触がすべり、熱を持った耳朶へと続く。あとからあとから、それはきて、耳が溺れてしまいそうだ。

「……っ、ゴメン……」

 泣いている。わかったものの、なぜ涙があふれるのかわからなかった。

「雲井さんを呼んでくる」
「待って」

 立ち上がりかけた張を、咄嗟に引き止めた。離れていってしまうのが嫌だった。

「平気。…だから、そばにいて」

 どこへも行かないで。心細い、というだけでは済まされない切なさが舷一郎の胸に押し寄せてくる。たかが隣の部屋に行くだけだと頭ではわかっていたが、一時でも離れてしまうのは怖かった。張が困ったように枕元に正座した。

「本当に、平気か…?」

 うなずく。大丈夫。すぐに元気になるから……





 まどろみながら見た夢は、とても哀しかった。
 両親、柳家の本当の両親が立っている。じゃあ行ってくるからねと2人は笑って手を振った。行かないで、と懇願してみても、困ったように笑って聞き分けろと言う。自分は我儘なのだろうかと悲しくなりながらも、2人を困らせたくなかった。仕方なく、うなずいて引き下がる。ごめんね、と母が言う。お土産買ってくるからな、と父が言う。そんなものいらない。どうして一緒に行けないの。悲しくて悲しくて、しかし大人の事情なのだと自分を納得させ、無理矢理表情を明るくして見せた。パパ、ママ、早く帰ってきてね。
 行ってきます、とこれが2人を見た最後。

「――……」

 泣きながら眼を開けると、羽と張が眠りにつく前と同じように心配そうに覗き込んでいた。

「…舷」
「熱は下がったようだが、まだ辛いか?」
「…そこに、いたの?」

 まだぼんやりとしたまま、舷一郎が訊く。2人はうなずいた。

「舷を置いて、どこかに行くはずないだろ?」

 羽が涙を拭った。

「とりあえず、湯で体を拭いて、着替えたほうがいいな」
「平気だよ、自分で……」
「だめ」

 起き上がろうとした舷一郎を、張が制した。でも、と言い募ろうとする舷一郎に、羽が苦笑しつつため息を吐く。

「…こんな時くらい、俺たちに甘えてくれないか?舷一郎」
「…でも」
「おまえはもう少し、我儘になることを覚えたほうがいい」
「…………」

 うんうんと張もうなずいている。舷一郎は黙った。2人は舷一郎が我儘を言ってくれるのを待っている。

「…じゃあ、ね……」





 羽と張が四苦八苦しながら台所での格闘の末できあがった粥は、信じられないくらい不味かった。それを、舷一郎はにこにこしながら食べた。
 診察も兼ねてその場にいた雲井は、笑いながらも3人に羨望を抱いた。彼にとって、海峡同盟は仲間であって、きょうだいではない。雲井に命令は下されるが、甘えて我儘を言ってくれる人はいないのだ。3人の親密さは遠い憧れだった。彼はそこへと足を一歩踏み入れた。ほとんど無意識に。

「…船を出すが、何か欲しいものはあるか?」

 舷一郎の我儘を、叶えるべく。









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レイヤ様のリクエストで「3兄弟+α」でした!