ブラック
日本のバレンタインは、ちょっと特殊だ。10歳までとはいえ日本で暮らし、バレンタインにドキドキしていた経験のある舷一郎にとって、はずしたくないイベントであった。彼が子供の時分から義理チョコは存在していたし、最近では友チョコなるものも流行しているときく。主に女の子同士で、ではあるが、舷一郎はそのへんのところをあまり気にしていなかった。男女問わず(しかも複数)というのはあいかわらず倫理的にいかがなものかと眉を顰める者も多かろうが、舷一郎は人類皆兄弟というか、仲良くするのはいいことだと心から信じている博愛のひとである。おまけに周囲の人々はそんな舷一郎が好きという、独占欲はあるが独り占めはできないしそんな舷一郎は舷一郎ではないと思っている部分があるので、誰ひとりとして困るものはいなかった。世の中というのは良くできている。
料理人のはしくれとして、溶かして固めるだけで手作りというのは論外だ。手作りチョコというのは一工夫してこそだろうと、密入国者にとって贅沢ともいえるチョコレートやその他の材料を仕入れてきた舷一郎は、台所に陣取った。
しかし、そこから彼は首をひねった。
義父から受け継いだ料理の腕はお墨付きだ。有名店からオファーがきていたほどだから自信がある。が、しかし。舷一郎は腕を組んだ。そういえば今まで一度も、菓子の類を作ったことはなかったのである。
「うーん…」
調理器具を前に、舷一郎は困った、と唸り声を漏らした。
「…舷はなにをしてるんだ?」
台所を立ち入り禁止区域に指定されたせいか、はたまた舷一郎が悩んでいるのを放っておけないせいか、そわそわした様子で張が羽に尋ねた。
問われた羽はというと、時期が時期だけに舷一郎の行動の意味をきちんと把握していた。ネタがわかっているだけに羽は嬉しそうだった。楽しげな表情で、しばらく放っておいてやれと言った。
作り方はわかっている。舷一郎は手順を反芻した。ぶつぶつと声にも出しているが、本人は気づいてもいなかった。材料は無駄にできない。プロとしての根性がそれを許さなかった。ぶっつけ本番の一発勝負だが、やるしかない。むん、と腕まくりをし、頭かぶっているいつもの帽子ではなく白い清潔な三角巾の結びをきっちりと締めなおし、舷一郎は取り掛かっていった。
やがて室内に甘い香りがただよう頃、ようやく羽は張に種明かしをしてやった。義理でも友でも本命でも、「舷の手作り」というひと言に張はおっかない顔を思い切り輝かせた。
数時間後、呼ばれた二人は喜び勇んで台所へ行き、しかしテーブルに置かれたものを見てわずかに顔を曇らせた。
そこにあったのは、ちいさな陶器で固められたプリンだった。チョコレートの匂いがするところをみるとチョコプリンなのだろう。舷一郎の手作りだし、文句なしに美味いに違いない。
だが、数が多かった。
鍋いっぱいに作っておたまで食え、というよりはマシかもしれないが、2人以外にも贈られる者がいる――おそらくそれは男だ――ということが2人には気に食わなかった。
舷一郎は無事にやりとげた達成感に満ちているらしく、にこにこ笑ってプリンを差し出した。
「はい、どうぞ」
市販されているものよりもずっと、プリンは美味かった。おそらく愛情という、世間一般で「一番の調味料」と呼ばれている非売品のエッセンスがたっぷりと入っているからだろう。2人はゆっくり味わって食べた。最後のひと口を飲み込んでしまうのは実に惜しかった。
表情と言葉で賛美する舷一郎のきょうだいは、手作りを食べさせる相手として上等の部類に入る。気持ちよく食べ、さすがに皿を舐めたりはしないものの物足りないと顔に書いてある張が、ちらりと残りのプリンを見ながら言った。
「それ、誰のぶん?」
「これ?雲井さん」
それに、片桐さん。続けられた名前にそれならばまあ仕方ないと思った二人だったが、
「…あと、孫市さんに、宗方操」
何気にひとりだけ呼び捨てのうえフルネームだが、それは舷一郎なりに含むものがあるからだろう。さておき、宿敵ともいえる2名に、張と羽は猛抗議した。当然だろう。一応世話になったとはいえ充分すぎるほど利用されたし、なにより命を狙われている。どちらに会うにせよ、そのまえに完全に迎撃体勢を整えておかなければならない。一言でいうならそれは、
「無理だ!」
ということになる。
だいたいどうやって渡すのだ。生ものですからお早めにお召し上がりくださいという生菓子を、まさか郵送するわけにもいくまい。絶対に、着く前に痛んでいる。
言い募る2人はあんなやつに食べさせるくらいなら俺が食うと言っているのだが、舷一郎は困ったようににっこりと笑った。
「俺が話があるって言えば、2人とも来ると思うよ」
何の根拠もない楽観的かつ無謀な度胸に、それをこんな場面で発揮するのはやめてくれと心から思いつつ、舷一郎の言うとおり財力にモノを言わせて小型機だのヘリだのを用意してまで来てしまうのであろう男2人の姿が容易に思い浮かんでしまい、張と羽は2人に対し心から同情した。
羽にいたっては、一ヵ月後に待ち受ける返礼の儀、すなわちホワイトデーがどのような様相を呈すのか、金と権力とおまけにどこかサディスティックなところまである男2人がどうでてくるのかまで想像してしまい、頭を抱えたのだった。