蝶々が羽ばたく
東京の夏は夜になっても熱が引かない。
渋谷にある柳 拓磨の私邸は、私邸といってしまうにはあまりにも広すぎる屋敷だ。
すっかり暗くなった純和風の庭。ところどころに置かれた石灯籠からもれる灯りが、計算された美しさを演出している。
風のざわめき。
虫の音。
木々の葉が奏でる薫り。
毎日聞いているにもかかわらずなぜか郷愁を誘う音の中で、子供がひとり、佇んでいた。
子供の背よりもわずかに高い若木を、ただじっと見つめている。
「こんばんは」
何に興味をもったのか興味をもった董藤が声をかけると、びくっと肩を震わせて顔をあげた。董藤が近づいたことに気づきもしなかったのだろう。たいした集中力だ。
「…こんばんは」
子供は照れくさそうに笑った。変声期すら経ていない、澄んだ高めの声。
この子供と話をするのは董藤にとってちょっとした楽しみだった。こちらの言うことを『大人の言うこと』だからと鵜呑みにすることなく、自分の意見を述べてくる。子供らしい素直で真直ぐな心。他に流されることなく自分の視点を持つこの子供は、さすがこの屋敷の主にして大物政治家・柳 拓磨の孫だと思わせた。
「何を眺めているのかな?」
「蝶だよ」
舷一郎は顔を輝かせ、手招きをした。背をかがめ、董藤が枝を覗き込むと、一匹のアゲハ蝶が羽をたたんで止まっていた。
「いつもこの木に卵を産み付けるんだ。蛹から孵ったばかりなんだよ」
「決まった木に産むのか」
「うん。アゲハは山椒の木が好きなんだって」
蝶の傍らには確かに醜悪な蛹があった。アレから抜け出てきたとは思えない姿をした、美しい生き物。
「ずっと見ていたのかい?」
「うん。1ミリくらいしかない卵からこんなになるなんて、すごい」
「だがもう暗い。家に入ったほうがいい」
いくら広くても屋敷内なのだから危険はないだろうとは思うが、思っていても心配するのが親というものだ。まして夏休みになり、子供の死亡事故が連日ニュースで報道されている。公園のような庭が、仇になる可能性は、ゼロではない。董藤は子供のことなどちっとも心配していないし、する義理もないと思っているが、とりあえず一般的な意見は述べておくものだろう。
「おじさん」
くるんとした大きな瞳が好奇心に瞬いている。
「おじさんは、見たくないの?この蝶が生まれてはじめて羽ばたくところ」
生まれて初めてという言葉の響きは妙に新鮮だった。東京都心であっても蝶などよく見かける―――東京に緑は多いのだ―――し、それがどうやって毛虫から蛹になり蝶へと変化するのか、もちろん董藤は知っている。単なる知識として。だがこの目で見たことはない。
どうでもいいことだと思う。生きていくのに必要なことではないし、まして政治の役にたつことでもない。董藤は自分の思い通りにならない生き物に興味などなかった。
だがこの子供は違うらしい。
なんの役にもたたない好奇心を抑えることなく、何時間かかるかわからないことに情熱を傾けることに、なんの躊躇いもない。一匹の蝶が蛹から孵り濡れた羽を乾かす時間を待つつもりなのだ。羽ばたく一瞬を見るために。
「そうだな……」
董藤は興が湧いた。
蝶にではなく、子供に。
はたしてその情熱がどれほどのものか、見極めてみたくなった。
「おじさんも、見てみたい」
今夜のスケジュールを秘書に連絡してキャンセルにし、鞄を尻に敷いて座り込むこと数十分。董藤はすっかり飽きてしまった。
舷一郎は董藤の話すことに受け答えはするものの自分から話しかけることはなく、だからといって退屈もしていないらしい。付き合わせてしまったのだから退屈させてはいけないという気遣いもないようで、ただじっと蝶だけを見つめている。
幾度目かの欠伸を、もはや噛み殺すことなく盛大にやると、舷一郎は董藤を振り向いた。
「おじさん、いいの?」
「何がだい?」
「忙しいんでしょう?本当は。いつまでかかるのかわからないのに、ぼくに付き合ってくれなくていいよ?」
おじさんも政治家でしょう、と言う。父も祖父も政治家である舷一郎にとって、政治家は忙しい職業、家庭を顧みず、趣味に捧げる時間もない職業だとわかっているのだ。
だからひとりで立っていたのだ。親に言っても「忙しい」の一言ですまされ、一緒に時を過ごしてはくれない。わかっているから最初から強請ることもせず。
「いいんだ。おじさんにも息抜きが必要だ」
眠ってしまうかもしれないが、そうしたら叩き起こしてくれないか。ちょっと笑ってそう言うと、子供はにっこり笑ってうなずいた。小さな手がそっと袖を掴み、すぐに離れた。
これがこの子の甘え方なのか。
ささやかすぎて触れたか触れていないのかわからない、一瞬で通り過ぎる風のような。
「ありがとう」
子供らしい幼い笑顔を、董藤は舷一郎に初めて見た。
董藤はその後しばらくしてやはり眠ってしまった。まともな姿勢ではないので体が傾くたびに目を覚ましたが、舷一郎はと見ると、ただじっと蝶を見つめ続けていた。立っていたり、しゃがんでいたり、それなりに眠くならないように考えているようだった。
そして。
「おじさん、起きて」
ぽんぽん、と肩を叩かれる。董藤は重たい瞼をこじ開けた。
「ほら、見て……」
舷一郎が囁くように声をひそめた。そっと指差す方を見ると、蝶がゆっくりと羽を動かしていた。
ふ、と。
枝をゆらすことなく舞い上がった蝶は、優雅に羽ばたいて空を飛んだ。小さな羽ばたき。空気に何の力も加えていないように見えながら、その生き物は確かに自力で風を起こし、空を飛ぶのだ。ただ生きるために。
ほう…とかすかなためいき。舷一郎は満足の笑みを浮かべていた。それが舷一郎の、感想だった。
目が合うと、同じものを見た者同士の共感を覚え、董藤も微笑した。計算したそれではなく、自然にもれたものだった。もっともそのことに気づいたのはいつもの表情に戻ってからだったが。
そして、あれ以来、舷一郎には会っていない。
できることならあの存在が、生まれて初めて羽ばたくところをこの目で見てみたかったが、仕方がない。決して叶うことなどないと思っていた夢が唐突に現実になり、董藤はそれどころではなくなった。
生きて再会することがあればあの子供は今度こそはっきりと敵だろう。
董藤にとって、自分の思い通りにならない生きものは、すべてが敵なのだ。