ツバサ(サンプル)
その夜に柳舷一郎を迎えた孫市権作の心中は複雑であった。
正装というのは慣れた者が着こなせば実に様になる。凛々しく、時にあでやかにすら見えるものだが、着慣れない者が纏えばどこか滑稽に見える。孫市の知る舷一郎は正装に縁などなかったはずである。それを見て嘲笑するほど底意地は悪くなかったが、正装して緊張しているだろう舷一郎に、主導権をにぎってやろうとぐらいは思っていた。
だが、孫市の目論見は外れたといえる。現れた舷一郎に当然ながら全員が注目し、そして全員が、孫市でさえつい襟を正す思いを味わった。羽だけが舷一郎の傍らで平然としていた。
名門の血というわけか。いわゆるブルジョアである孫市は、嫉妬と羨望が同時にわきあがってくるのを感じた。受け継がれてきた血脈の迫力は本人の持つ資質、カリスマに磨きをかける。自力ではどうしようもない伝統の力である。加えて、今夜の舷一郎には妙な艶があった。
だが考えるまでもなく、舷一郎にはなんの力もないのだ。自分の後ろ盾がなければ出獄すらできずにいたはずだ。孫市はそれを思い、劣等感をねじ伏せた。舷一郎には彼のきょうだいしかいないが、孫市にはマゴイチ・ホールディングスという財源と人脈、海峡同盟がある。舷一郎を自分の思い通りに操る自信が孫市にはあった。
打ち合わせは孫市のペースで進み、終わった。
「――ふう…」
「お疲れさん」
ホテルの部屋に戻り、ソファに座り込んだ舷一郎は早速ネクタイを緩めた。
「何か飲むか?」
「水をくれる?」
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、舷一郎に渡す。礼を言って受け取って、彼は一気に半分ほど飲み干した。ぐったりと、精神的な疲労を覚えているようだった。
慰めるようにぽんと後頭部を叩き、撫でてやる。羽がソファに向かい合う形で乗り上げると、舷一郎は安堵したように頭を預けてきた。
「…北海道、北日本へ行けば、張に会えるな」
「あいつのことだ、空港まで駆けつけてくるに違いないぞ」
「無事かな、張も、恵理さんも」
「彼女に何かあったら、宗方が黙っていないだろう。それに、張はあれで人懐っこいからな…」
外見からは考えられないほど人好きのする張である。既望の会、恵理の仲間とも親密になっていることだろう。舷一郎も笑ってうなずいた。
羽は舷一郎の額にキスをした。舷一郎は困ったように羽を見上げる。艶やかな琥珀色の双眸が羽を映し、膜がかかったように潤んでいる。羽、とくちびるだけを動かして舷一郎が呼んだ。羽は舷一郎のくちびるにキスをした。
「これも、不倫ていうのか……?」