2・2・2
朝日が昇りきった頃になっても、舷は海を見つめたままだった。
陸が、人々の声が、母の姿が遠く見えなくなっても外にいる舷に、張はわざと明るく声をかけた。
「舷、朝飯にしよう!」
「うん」
振り返った舷はおだやかな笑顔で、その奥に隠された苦悩を窺い知ることはできない。だが…と張と羽は思う。あれだけ愛していた母と屋台の店と、人々とのつながりを絶ってまで選んだのだ。容易い決断ではない。舷ひとりに運命の重さを背負わせるつもりは張にも羽にもなく、だからこそついてきたのだ。舷のために、そしてなにより、自らの誇りのために。
「できたよー」
船には数日分の生鮮食品と、日持ちのする非常食、そして水が積み込まれていた。さすがに麺を打つことはできないが、簡単な料理くらいならできる。
「あいかわらず、美味いな」
「本当、美味しい」
料理の腕を絶賛されて、舷は嬉しそうに笑う。彼は食べてくれる人が笑顔になっていくのを見るのが好きなのだ。子供の頃から。それができる父を尊敬し、料理人として味を受け継いでいくことを決意したのは、幾つの時だったろうか。
さしあたりの問題は、上陸場所をどこにするかだった。
「昔の…震災前の日本地図なら頭にあるけど、今はどうなってるんだろう……」
なにせ混乱が激しく、正確な日本地図は未だに刷り上っていない。国家レベルでの領地問題に発展しているから、勝手に測量できないのだ。日・米・中での協議が未だに決定しておらず、渡航禁止にまで陥っている。混乱振りが窺い知れるというものだ。
「今はこの辺りの海にいるはずだから、まっすぐにいけばこの辺。でも密航者の警戒警備も敷かれているだろうから、目の届かない場所まで迂回しないといけないだろう」
「ノースエリアとサウスエリア、どちらに行く?舷一郎」
「地道さんの話では、拓磨じいちゃんは北日本で首相をやっていたらしいんだ。でも…今はどうなっているのかわからない。連絡がとれなくて……」
語尾が沈んでいく。
孫の生存を信じて秘書を海外にまで派遣している柳 拓磨が健在ならば、渡航禁止など絶対にしないはずだ。また、なにがあっても地道との連絡線を途絶えさせたりもしない。
何かがあったのだ。黒藤たちがほのめかしたように……。
「北日本に行こう。少なくとも南よりは地理もわかりやすいだろうし、拓磨じいちゃんの手がかりもつかめるだろう」
「わかった」
「北だな、よっしゃ!」
船は北を目指す。海は荒れていないがスピードを出しているため、船は揺れが激しい。舷は再び外に出た。まだ日本は見えない。
船内では張と羽が笑いながら話し合っている。ヤクザの張は刑事の羽を最初警戒していたが、ここ数日ですっかり仲良くなった。
陽が高い。
15年前にも、海を渡った。
あの時はどんな気分だっただろうか。不安だったのか、それとも期待に満ちていただろうか。思い出せない。
「舷一郎、どうした?」
「羽……」
「台湾を出てからずっと海ばかり見ているな…緊張しているのか?」
「そうかもしれない」
舷は一旦海に目を戻すと、羽に向き直った。
「羽は…日本から台湾に渡る時、どんな気持ちだった?」
「え………」
「俺は小さくて、なにもかもカラッポで、父さんと母さんと一緒だった。でも、あの時どんな気持ちだったのか、思い出せないんだ」
「舷一郎……」
羽はそっと舷の隣に立った。
船の縁を掴んでいる舷の手が震えている。不安と、緊張。右も左もわからない今の日本への期待と、唯一の肉親である祖父との連絡がつかないという心配。自分以外の人間の命を預かっている責任の重さ。負けないように、負けないように、必死で自分を奮い立たせているのだろう。
羽は思わず舷の肩を抱いた。たまらなくいとおしくなった。
「あの時、俺の中にあったのは、怒り…だ」
「怒り…?」
「今まで日本で暮らしていて、友達もいた。震災にあっても助かった者たちで頑張っていこうとした時に、親の都合で台湾に渡り、台湾国籍になったんだ。日本を…皆を、裏切ったような気がしたよ。でも他にどうしようもなかった。それを認めるしかない自分にも、怒りがあった」
「そうか……」
舷は間近にある羽の顔をうかがった。羽は海を見ていたが、舷の視線に気づくと笑って見せた。凛とした瞳には迷いも、怒りもなく、澄んでいた。彼なりに決着をつけたからだろう。出会ったばかりの鬱屈した色はどこにもない。
「ありがとう…話してくれて」
「いや…。舷一郎、お前には感謝しているよ」
「え?」
「親父とのわだかまりを解いてくれたのはお前だ」
「親父さんとのことは、羽自身の頑張りの結果じゃないか。羽の心が、親父さんの心を動かしたんだよ」
「俺だけでは勇気がなかった。事件を解決して親子の縁をなくすか、血縁をとって正義を捨てるか、どちらかを選ぶしかなかっただろう」
最悪なのはそのどちらも選べずに流されていた場合だ。社会という波に飲まれ、矛盾に悩み、掲げていた―――縋りついていた正義という旗を手放していただろう。刑事という職はいやでも社会の壁にぶつかる。お上の意向というやつだ。国家に属する組織なのだから仕方がないと、ある程度はわかっていたが、妥協してしまうことは羽のプライドが許さなかった。
結果、刑事を辞め、流されるまま父の会社に入り、汚染されていく自分を嫌悪するしかない未来が待っていたに違いない。
「だからといって、礼のつもりでついてきたんじゃないぜ。前にも言ったが、自分の目で祖国が見たかったし、なによりお前が日本でなにをするのか、その傍に俺がいないことが俺には許せないんだ」
「なんだよ、それ……?」
「兄弟が命がけででかいことやろうっていうのに、黙って見ていられるはずがないだろう?」
「……兄弟?」
「そうだ」
きっぱりとうなずいた瞬間、視界から舷が消えた。同時に、胸に軽い衝撃。舷に抱きつかれていた。
「…舷一郎?」
「ありがとう」
ぎゅうっと抱きつき、舷はくぐもった声でもう一度ありがとうと告げた。
しかし顔をあげた舷には羽の望んだ笑みはなく、まだ完全に不安が解消されていないとわかる。残る不安は―――…。
―――…張か…。
心配することはないなと羽は心の中でうなずいた。舷が張の何を不安がっているにせよ、張は絶対に舷を裏切らない。それに舷なら、多少言葉が足りなくても真意を聞き取ることができる。
張は、と船内に目をやると、舷と羽が何を話しているのか気になって仕方がないのか、そわそわとこちらを窺っていた。羽は苦笑して、気が済んだら船内に戻るようにと注意だけうながして、先に船室に戻った。
「…舷となに話してたんだ?」
「なに、ちょっとな」
お前ばっかりずるいぞと子供みたいな嫉妬心を向けてくる張は、至ってわかりやすい。よくこれでヤクザをやっていられたものだと羽は場違いに感心した。
「操舵を代わろう。話しをしてきたらどうだ?」
「できるのか?」
「見よう見真似だが、なんとかなるだろう」
張は少なからず逡巡した後、結局舵を羽にまかせた。
「舷〜!」
「張」
他に操舵を任せられる者がいなかったとはいえ、ずっと舵を握っていた張は、ようやく舷と話ができると上機嫌になった。
「あれ、舵は……」
「羽が代わってくれた」
「そうか…任せきりだったからな。次は俺が代わるよ。羽ができるんなら俺でも大丈夫だよね?」
「うん。教える」
舷が見る限り、張はいつでも上機嫌だ。外見の迫力に比べて心は至ってあたたかい。ヤクザ社会では決して大物にはなれない情の持ちようは、しかし弟分たちには慕われていて、実際他の誰よりもたくさんの「兄弟」たちが、彼のためにならと動いた。
「舷、心配いらない」
「?」
「おっ母さんのことなら、それとなく見守ってくれるように、みんなに頼んである」
舷のいない今、たった一日で台湾中で有名人となってしまった彼の唯一の家族に世間の目がいくのは当然の成り行きだった。舷が密航したことも隠さなくてはならないというのに、まだ混乱の収まりきっていない中で母一人を置いていくのは心痛だろう。舷は母に全てを話したし、母も送り出してくれた。覚悟を決めたとはいえ、心配するのは無理もない。
張の言うみんな、とは彼の弟分のことだ。淑琴が世間の目に晒されないよう、また、反日感情を持つ人々から守るように、旅立つ前に頼んでおいた。市場の女親分 夏太太も、彼女を守ってくれるだろう。夏太太とは舷の父からのつきあいだ。
「うん……。六海幇のことは心配だけど、みんなもいるし、帰るまで無事でいてくれると思う」
そのわりに舷の表情は晴れない。
母のことではないのか。張は一体なにに舷が心を痛めているのかわからなかった。
「舷…なにが心配なんだ?」
わからなければ、訊くしかない。
確かに先行きを考えれば心配になるのも無理はないが、舷となら必ずうまくいくと張は信じている。もともと張は頭脳派ではない。舷と一緒にいるのなら、結果がどうであれ満足なのだ。
「……張はさ、どうして俺についてきてくれるんだ?」
「どうしてって、そんなのあたりまえだ」
「俺は日本人だ。日本に着けば柳 舷一郎を名乗ることになる。もう…母さんたちの舷じゃない」
「舷………」
ふいに、張は自分の身体を抱きしめながら震えていた舷を思い出した。淡水の日本人キャンプへ向かう車内でのことだ。恐いと言って、震えていた。自分の本当の気持ちが。
「張は、日本人のことが嫌いなんじゃないのか?なのにどうして俺を助けてくれるんだ?…巻き込まれて、今まで仲間だった…親や兄弟たちとも別れなくちゃならなくなったのに……」
親兄弟というのは、六海幇の組織のことだ。
「確かに…あいつらを残していくのは気が引けたよ」
六海幇にとって裏切り者である自分の弟分であった彼らを、六海幇がどうするのか。制裁がくだるのは間違いなかった。組織をまとめるためには掟が必要なのだ。そのための身分関係であり、破った者には当然の裁きが待っている。下っ端とはいえ、彼らもわかっているだろう。
「でも、六海幇とはしっかり手を切ってきた。未練はないぜ。六海幇が必要だったのは俺じゃなくてこの馬鹿力だけだったからな。利用されていたのはわかっていた。でも、そうやって生きるしかないと思ってたんだ」
仕方がない、世の中はこういうものなのだと、諦めのように思っていた。確かに仲間がいたし、気の許せる者も何人かいて、それなりに楽しかった。
けれど心が晴れたことはない。
何をしても得られない満足に、張は苛立っていた。持て余す力を揮う場所はある。けれど何かが足りないのだ。―――誰かが。
心の底から尊敬し、惚れこんでしまうような誰かを、張はずっと待っていた。六海幇の兄貴分だった楊や、黄会長に言えば笑われてしまうような甘い夢を、ずっと、捨てずに持ち続けていた。
占い師の言葉通り、自分の身体は大きくなった。強い力も手に入れた。多少惚れっぽいが、人を見る目もあると思う。それでも六海幇という組織では、張は所詮使い捨ての駒のひとつでしかないのだ。
「毎日毎日、思ってた。どこかに俺の捜しているやつがいるはずだって。少しでも評判の良いヤツのところに会いに行ったりもしてた。ハズレばっかりだったけど、俺は舷を見つけたんだ!」
日本人に絡まれていた屋台の青年。心意気と度胸のよさに惹かれて会いに行った時、張はもしかしたらと期待した。今の自分は日本人ではなく台湾の父と母の子だと言い切ったことも大きかったのだが、その問題はすでに張にはどうでもいいことだった。
「日本人だの台湾人だの、そんなの関係ない。そんなこと気にするのは小せえ人間のやることだ。俺は、舷が舷だから、大好きなんだ!」
「…俺で、いいの?張」
張は大きくうなずいた。がばっと舷に抱きつく。張の大きな身体にすっぽり埋まってしまった舷は、分厚い胸板に押しつぶされそうになりながらも、背中に手を回そうとした。
「俺は、舷を愛してる。信じてくれ、舷。怖がらなくていい。俺が舷を守るから……」
祈るように言い募る張に、舷はいちいちうなずいた。たまらなくなり、張は舷の脇に手を入れて足を浮かせると、くちづけた。
トン、と足を下ろす。舷はぽかんとした表情で張を見上げていた。
「張、今の……」
「う、あ、い、イヤだったか?」
「ううん、いやじゃなくて……ビックリした」
「そ、そっか」
舷とは対照的に、張は赤くなってあわてている。
ふわりと笑うと、今度は舷が張に抱きついた。
「ありがとう、張。俺も、張を愛してる」
「うん」
張がそっと背を屈めると、意図を察した舷がさっと頬を染めて眼を閉じた。
いつか家を出る日がくるだろうとは思っていた。だがそれはこんな形ではなく、もっと平凡な、たとえば結婚してだとか、なにげなく過ぎていく人生の一過程であろうと思っていた。
それがまさか8万人の祖国の人々の思いを背に、密航という手段での帰国という形になろうとは。
母は泣いていた。何よりも誰よりも幸せにしたかった母をひとり残してしまったことは、苦しかった。記憶が戻ってから日本に帰りたいと思ったことはもちろんあった。しかしその声は大きくなく、目の前の現実を見つめて小さな幸福を大切にするほうが大事だった。声なき声に導かれるまで。
「人はひとりでは生きられない…か」
「ん?総統の言葉だな」
「うん。そのとおりだよね。俺一人では8万人の行進なんて、とても上手く行かなかっただろう。尾津さんや地道さんや…周刑事。それから8万の人々」
人は心をあわせ、力をあわせることができる。
それは、なんて素晴らしいことなのだろう。天が裂け、地が割れても、人々は手をとりあって生きていく。
「日本も…だからきっと上手くいくと思うんだ。俺には日本をどうこうする力なんてないけど、その一部になることはできる」
舷がそう言った時、羽は気づかないうちに小さく笑っていた。それは、どうかな。羽は心の中で問うてみる。15年経っても一向に進路を決めることのできない日本には、舷のような考えをもつ人間などいないのではないだろうか。誰か、強力なリーダーシップを持つ者に従うしかないと思う人々ばかりだから、復興できないのだ。誰かではなく、自分にも力があるのだと目覚めさせる人間。それが舷なら、日本にとって最も良い力を持つのは舷ということになる。もっとも、舷に言えば、そんな大それた力はないと否定するだろうが、羽はそこまで期待している。
「俺も舷に力を貸すぜ」
張はすでに心を決めている。迷うこともない。
「俺もだ。何があっても―――……」
「ああ。ありがとう二人とも」
信頼しきった舷の瞳に、ふと悪戯心が湧いた。どうしようかと一瞬迷い、しかし腕はすでに動いていた。
舷を引き寄せて、くちびるを奪う。掠め取るようなキスだったが、とりあえずはこれで満足すべきだろう。
「ゆ…羽?」
突然のことに舷は真っ赤になってしまった。
怒るかなと羽は張を窺うが、意に反して彼はにこにこと笑っていた。張は彼なりに羽が舷のことを好いているのを知っていたし、好きなら欲しくなるのは当然だと、そのあたりのことはわりきっていた。
舷は赤くなりながらも、どうやら羽と張の間には通じ合うものがあるらしいと確信して、笑った。
「…これからヨロシク、二人とも」
つられて張と羽も笑い、舷に手を伸ばす。
分断され傷ついたやさしい人々が住む国へと、三人は一歩を踏み出した。