陽だまり
拾った子供は、丸一日目を覚まさなかった。
避難所の消息を尋ねる掲示板にもそれらしい子供はなく、二人はひとまず子供の濡れた体を拭き、温かくして眠らせた。
未曾有の大災害が起きる直前まで健康に育っていたのだろう子供が今は青ざめ、よほどの苦難にあったのだろう、時折魘された。そんな子供に、淑琴は付き添い続けた。
「う………」
「あ…っ」
身じろぎと共に声がして、子供が眼を開けた。
ぼんやりとした瞳が何かを求めるように彷徨う。淑琴を視界に捉えると、ほっとしたのか表情が緩んだ。
「……ママ…?」
ハッと胸をつかれた。この子は意識がまだはっきりしておらず、本能的に自分を守ってくれる母親を求めたのだ。かわいそうに。淑琴はやさしさといとおしさを込めて、尋ねた。
「ぼうや、名前は…?」
「舷………」
「名字は?言える?」
「…………?」
子供は淑琴を見つめ、それからゆっくりと部屋を見回してまた顔を淑琴に戻した。
「ここは…どこですか?」
「避難所よ」
もう一度身元を尋ねようとした時だった。夫が粥を持って入ってきた。
「良かった。起きたか」
子供の上体を起こしてやり、碗を持たせた。食べなさいと促すと、子供は碗と夫の顔を見比べて、笑ってみせた。力ない笑みだった。
「いただきます」
頭を下げて、レンゲに粥をすくい、ふうふう言いながら食べる。
疲労と続く苦難に食欲すら忘れていたのかもしれない。ひと口ひと口一生懸命に食べていく子供は、いつのまにか涙を流していた。
拾った子供は舷という名前しか覚えていなかった。
舷はすぐに元気になり、記憶の無いことを気にしていない様子で避難所で遊び始めた。
避難所には家族を探して人々が訪れてくる。二人は舷を抱きしめるはずの両親の姿を待ったが、何日経っても現れなかった。
やがて二人は避難所に、ささやかな屋台を建てるまでになった。舷は自然に二人を手伝い、客からもかわいがられた。舷は弱っている者を励ますのが不思議なほど上手だった。
「舷は、陽だまりのようね」
「お日様?」
「そう。ぽかぽかして、あったかいわ」
一緒の布団にもぐりこんで寝かしつけながら、淑琴はしみじみと感じた。この子はあたたかい。生き延びたものの絶望から抜け出せず苦悩し続ける避難所の人々のなかには、しだいに不満やエゴが芽生えはじめていた。他の避難所では盗品や救援物資の売買、果てはドルが出回っているときく。助け合って生きることを忘れてしまったのだ。
舷の心は乾いてひび割れていた人々の心を潤した。子供らしいまっすぐな言葉で正論を説かれ、あの瞳で見つめられると、苛立っていた棘が萎んでいくのだ。そして自分が思いやりや優しさ、助け合い労わりあって今の自分が生きている―――生かされているのだと思い出す。
この子を育てたい。二人は日増しにその思いを強めていった。
「舷は…天からの授かりものかもしれないわ」
「舷には舷のご両親がいる。きっと心配しているよ」
「わかってます。でも…もしかしたら亡くなってしまったのかもしれない」
「捜す努力はするべきだろう」
料理の仕込をしながら交わす会話は、このところ同じやりとりだ。
舷を自分の子にしたいという思いは淑琴のほうが強かった。しかし二人とも同じ思いなのは変わらない。舷の記憶を取り戻す努力は最初の日しかしていなかった。方法がわからないということに加え、記憶喪失に対応できる医者がいないのだ。医者はもっぱら怪我人や病人の治療に忙しく、精神的なものまで診ていられないのが現状だった。
二人は毎日堂々巡りのやりとりをしながら、自分たちを納得させようとしていた。
「舷は…どうなんだろう……」
小さく折りたたまれた服に目をやって呟く。舷を助けた時に彼が着ていた服だ。ところどころ破けてボロボロだったが、何か手がかりになるかもしれないと、捨てずにいた。
舷は今、近所のお年寄りの飼い犬を散歩に連れて行っている。
元気なようでも自分の記憶が一切ないということが不安なようで、時折独りになりたがった。あの年齢で親が傍にいないというのは、どれほど不安で、寂しいだろう。舷は決して二人をパパ、ママと呼ばなかった。
「舷!」
屋台を開けると、舷はひとりの老婆と話をしていた。淑琴の呼びかけに舷は振り返り、老婆は驚いた表情でそんな舷を凝視していた。老婆に手を振って、舷が駆け寄ってくる。
「お店?」
「そうよ。手を洗ってきて、お手伝いをして?」
「はいっ」
元気良く返事をして駆け出す。
香りにつれられてぽつぽつと客が入り始める。ほとんどの人が疲れきった表情だ。
二人の屋台には値段が書かれていない。こころざしで結構ですという意味だった。苦しいのはお互い様。無償で振舞うこともある。
舷はにこにこしながら夢中で食べている人々を見ている。
「舷はお客さんが好きだなぁ」
「元気になっていくのが、すごいと思って」
「元気?」
「お店で食べていった人は、みんな元気になるの。すごいことだよね?」
二人は顔を見合わせた。客も箸を止めて、舷を見ている。
「…そうだな。食べることができれば、生きていける」
生きているという実感を、文字通り噛み締める行為。ひと口ひと口、噛み締めるたびに血がめぐり、体内があたたかくなって、ほんのり幸福だとさえ思えてくるのだ。舷の言うとおり、すごいことだろう。
客の一人が笑いながら舷の頭を撫で回した。
「いいお子さんですな」
ハッと、二人は顔を見合わせた。舷はちょっと俯いて、それから上目遣いに二人を窺っている。
「…ええ。自慢の息子です」
言い切った夫に、淑琴はつい涙ぐんだ。舷の前でいつもの説明はもうしたくなかった。舷の全てを否定してしまうようで。その度に、舷の表情が曇るのも辛かったのだ。
「……おとうさん?」
「そうだよ、舷…」
小さな手。ぎゅっとしがみついてくる子供を抱き上げた。あたたかい体。やさしい陽だまりのような心を内包している、大切な子供。
私たちはこの子を助けたが、と舷が寝付いた後で夫が独り言のようにぼんやりつぶやいた。
「救われているのは私たちのほうかもしれないな……」
未来の予測がつかない絶望的な状況で、それでも笑顔を忘れずにいられる。
「いつか…この子のご両親が迎えにくるかもしれない。舷の記憶も、いつか戻ってしまうかもしれない。その時の覚悟だけはしておこう」
「ええ……」
いつかの日を想像するのは辛い。その勇気があるだろうかと思うと、とても自信はない。
でも、大丈夫。淑琴は眠るわが子に微笑んだ。
晴れの日も雨の日も曇りの日も。夜が空を覆っても。
太陽はここにあるのだから。