春が来る
10年は長い。たとえ過ぎてしまえば一瞬のことでも、現実には0歳の赤ちゃんが10歳の小学生にまで育つ時間が流れている。それを思えば本当に、気が遠くなるような月日だ。
10年の間、ETUだけではなく村越にもいろいろとあった。そのひとつが、結婚するだろうと思っていた女性との交際である。
思っていた、つまり、過去形。
よくあるパターンだが友人の紹介で彼女とは出会った。
OLになったばかりだった彼女はサッカーにまったく興味がなく、ETUの低迷にストレスを溜めていた村越にはかえって良かった。オシャレが好きで、遊びが好きで、どちらかというと家庭的な趣味の持ち主という、どこにでもいるパッとしない女の子。だが、落ち着いた雰囲気にホッとした。一緒にいて気楽だった。交際は長く続き、公表することでもなかったが周囲に顔を覚えられた彼女は『コシさんの彼女』としての位置を確保、なかば公認になった。しかし結婚はできなかった。
プロのスポーツ選手、特にサッカーともなれば体力的にも40代くらいまでしか現役ではいられない。ETUがビッグチームならばまだいいが、ニュースのスポーツコーナーで「それではその他の試合結果です」と十把一絡げにされるようなチームである。2部に落ちた時など報道もされなかった。将来が不安定では、結婚しようなどとはとても言い出せなかった。
そして何度目かの冬になった。
「達海を探そうと思うんだ」
何回目かの冬に引退し、GMとなった後藤が村越にそう告げた。
達海。
久しぶりに聞いたその名前は、まるで目が覚めたようにあざやかに、村越の胸に斬りこんできた。
「今のETUを救えるのは達海しかいない。なんとしてでも探し出す」
「…探すと言っても…手がかりがあるんですか」
達海猛は今では過去の人だ。そして村越の知る達海は、過去など振り返らない男だった。所属していたチームに便りのひとつもよこさない。それはまあ、彼が出て行った時の騒動を考えれば無理のないことでもあるが。
村越の質問に、後藤はわずかに頬を緩めた。村越にはどことなくその笑みに優越感が込められているように見えた。一枚のポストカードを差し出される。
『イングランドでカントクやってます。タツミ』
たったそれだけの言葉。近況報告にしてもあまりにもそっけない。そして達海らしかった。
手がかり。わずかに動揺した村越に気づかず後藤はうなずいた。
「世界中に比べればイギリス中なんて狭いと思わないか?」
後藤はおどけて言うが、事はそう簡単ではない。達海は現住所を書いていなかった。問いを続けるとそれでもサッカーチームのあるところだからと答えが返ってきた。カントクやってます。しかし、プロチームだとは限らない。
「副会長はまだ反対だって言い張っててな。おまえの意見も聞いておこうと思って」
まだ決定ではないらしい。ミスターETUとしてサポーター・選手の絶大な信頼を集めている村越の意見を聞くのは、やはり達海が出て行った時のサポーターを思えば当然だろう。
「達海…さんを、監督に?」
「そうだ」
きっぱりと後藤はうなずいた。村越はさらに動揺した。といってもわずかに眉を顰めただけで、たいして表情にはならなかった。この10年で彼の表情筋は頑固なまでに鍛えられてしまっている。
達海が帰ってくる。まだ仮定の話だというのに胸が熱くなった。その熱の源は怒りか憎しみかそれとももっと別なものなのか、自分のことだというのに村越には判断できなかった。
「………本当に、あのひとに監督が務まるんですかね」
実際正直な意見だった。低く暗いキャプテンの声に後藤が苦笑する。
「俺は、あいつしかいないと思ってるよ」
「…………」
その信頼は一体どこから来るのだろうか。あの移籍騒ぎの時、怒っていたのは彼も同じだったというのに。逆に村越は怒るでも悲しむでもなくただ静観していただけだった。たかが新人のひとりにすぎない村越の出る幕ではなかったということもあったが、自分の夢がこうもあっけなく――それも叶う直前になって――断ち切られたことに信じられない想いで脱力していた。その時期が過ぎてやっと、怒りと悲しみが絶望をつれてやってきた。あれだけ憧れ、尊敬していた達海猛を憎んだ。
会いたい。
願望が急激に湧き上がってきた。村越はその想いを否定した。会いたくない。俺は、あのひとになど会いたくない。今の自分を見て、達海はなんと思うだろう。新人のひとりにすぎなかった自分を彼が覚えているかどうかも怪しいのに、今のこの、みじめな現状をほとんど意地だけで支えている自分を見て、自由を背中にくっつけているような男がどう評価するのか、怖かった。
村越の胸の中の達海はいつだって輝いている。あのひとと比べて自分のなんてちっぽけなことだろうと、いつもいつも思っていた。そして自分は違う、あんなふうにはなりたくないと、憎悪を膨らませることで彼の存在を否定してきた。
「…ETUを強くできるのなら、誰でもいいですよ」
10年間、いろんな監督が来て、去って行った。誰にも、自分にさえもできなかったことを、達海なら本当にできるのだろうか。村越は苛々したものが込み上げてくるのを感じたが、それが期待であることに気づかなかった。彼はあまりにも裏切られ、傷つきすぎていた。そしてそのことに気づかないほど疲れていた。
後藤は村越の言葉に嬉しそうにうなずいた。基礎的な英語はできても英会話まではできないから、広報の有里も一緒に行くと言う。村越も知っている。彼女は達海の大ファンだった。おそらく今でも達海への憧れと怒りは消えていまい。もっとも村越ほど、屈折してもいないだろうが。
「…後藤さんは……」
「ん?」
苦悩に苛まれたキャプテンの暗い声に、GMは穏やかな目を向けた。
「許す、んですか?達海…さんを」
後藤はしょうがないなと言いたげに、笑った。この話を持ちかけた全員が、そのことを彼に訊いたのだ。
「許す、許さないじゃない。覚えているだろう?村越、いつだって達海は逆境の時ほど楽しそうだった」
よく覚えている。どれだけ忘れたいと願ったことだろう。闘志に輝いている彼の瞳。今も心の奥底で求めている。彼の背中。
「達海は、希望だ」
オフシーズン。ETUは監督が決まらない。村越は契約を更新した。年俸はわずかに上がったが、一部リーグのチームキャプテンにしてはあきらかに低かった。チーム事情を理解している村越は何も言わずに受け入れた。
今年も結婚はできそうにない。どこかホッとしている自分を知りながら村越は冷静に思った。恋人はサッカーのことに相変わらず詳しくなく、今のサッカー界がどうなっているのかの興味も持たなかった。村越は彼女にETUを悪く言ったことは一度もない。それでもつきあいが長ければ、待っているのだろうとわかった。
彼女といる時には考えずにいるサッカーのこと、今日のやりとりを思い出して、村越はふっとため息を吐いた。彼女は顔をあげて村越を見たが、どうしたのと訊いてくることはなかった。居心地の良い、ぬるま湯のような空間。神経がふやけて弛む。忘れられない男がもたらすすべてと正反対だった。
侵食してくるな。10年間封じてきた想いに捕らわれそうになる。どれほど憎み、否定し、忘れようとしても、達海猛というたったひとりの名前だけで世界はこんなにもあざやかだったのだと感動する。永久凍土のように固く凍り付いていた心に春が来る。
そして後藤が帰ってきた。達海を連れて。
プレシーズンマッチ終了後、村越は恋人であった女性と別れた。泣かれ、詰られ、罵られたが村越の決意は翻らなかった。罪悪感に胸が痛んだが、それもすぐに薄れていった。
達海がいる。村越が望み続けたすべてを連れて帰ってきた。そして今、村越は達海の背中ではなく正面を見つめて立っている。あたたかな風が甘く薫る、春の大地で。