天才と凡人
達海猛という男は、ある意味で天才である。
自分のすべてをサッカーにつぎ込むことにためらいがないのだ。たいていの人間、特に男ならばあってしかるべき本能としての欲望が極めて薄い。男という生きものの頭が下半身と直結しているのに対し、達海の下半身は頭脳と直結している。要するにセックスなしでもまったく平気。10代の思春期も20代の選手時代もそうだった。容姿とプレースタイルで女性にもたいそうもてていたのだがたいてい長続きしなかった。相手が肉体の繋がりによって得られる充足感や愛情を求めているのにそれに応えないのだから愛情を疑われて当然だろう。そういう人間だったから達海にはなぜ自分が疑われてしまうのか理解できず、傷心のうちに相手は去っていく。それを繰り返し、やがて達海はあきらめた。はっきりいって恋人とすごしていようが頭の大半はサッカーで占められているのだから、いてもいなくてもかまわないだろう。子供が欲しいとも思わなかった。セックスなんてむしろ面倒。だって、疲れるから。35歳になった今でも、達海にとってその問題はその程度だった。
恋人ができたら必ずセックスをしなくてはならないものなのだろうか?
村越と達海は選手と監督という枠を越えて、いわゆるおつきあいをしている。
村越は10年の不在による『達海不足』といってもいいその傷跡を埋めたくてたまらないらしく、焦れたように触れてくる。達海が驚くほど、彼は真剣だ。
「達海さん…」
村越に抱きしめられると達海の小柄な体はすっぽりとうずまってしまう。そっと後頭部に大きな手の平が回り、上向けにされてキスをする。村越の手が優秀な脳味噌が詰まった頭を宝物のようにやさしく撫で回し、さりげなく、耳や項、肩を愛撫するのだ。いくら達海でも、男が何を望んでいるのかわかりすぎるほどわかってしまう。
わかるのだが。
途端、達海の頭によぎるのはチームのスケジュールだ。監督には仕事がたくさんある。山のようになんて比喩では追いつかない。山ならば乗り越えればすむが、監督の仕事に終わりはないのだ。自チームの把握、選手の練習計画、対戦相手の分析や研究、それによって戦術やら戦略やらの作戦立案。津波のように次から次へと押し寄せる。こうして村越とふたりきりの時間を確保するのだって、実はやっとのことなのだ。ただそれを、達海が他人に見せることを好まないだけである。
後ろめたさはあったが達海は村越の胸を押し返し、キスが深くなる前に終わらせた。不満気な吐息。焦らしているつもりは達海にはないが、こればっかりは仕方がない。考えてもみろ、セックスをするにしてもまずふたりともシャワーを浴びてその気にさせて盛り上がって事を済ませ、しばらくは動くのも億劫になるから小休止になる、その間に雰囲気に浸っていればもう一回なんてことになりかねない、下手をすれば2回戦にもつれ込むだろう。ただセックスをするというだけでもこれだけの時間と手間がかかるのである。そこまでしてしたいかというと、そうでもないのが達海の本音だ。加えて試合前にセックスをすると当日のパフォーマンスに影響する可能性があった。村越は選手であり、チームのキャプテンである。監督としては余計なことをして集中力を落とさせたくなかった。なんせ弱小チームだ。選手たちはまだまだ村越に依存している部分がある。彼の不調がチーム全体にまで及ぶのだ。
「今日はコレな」
達海は床に散らばっている雑多なDVDの山から一枚を取り出すと、それをデッキに入れた。再生ボタンを押す。達海が日本にいない間に行われた試合映像。他チームの選手のプレーはこうして見ることができるが性格までは掴みきれない。資料で見ることの他に、直接戦い言葉を交わし時には仲良くなる選手の視点は有効だ。
TVから試合開始のホイッスルが響くと達海の顔が監督のそれに変わる。村越はそれを見て、今夜のことはあきらめた。結局のところピッチの外でも絶対服従だ。
試合終了の笛が鳴って、ようやく達海がホッと息を吐いた。紙飛行機がふうわりと地面に降りるように現実が戻ってくる。ほとんど機械的に食べていたチョコレート菓子はすっかり空になっていた。
「おつかれ」
とん、と肩ごとぶつかると、驚いたように村越が達海を見た。それで達海も、さっきまであった甘い雰囲気を思い出した。ごまかすように、言う。
「咽喉渇いたな。…なんか、飲む?」
「ドクターペッパー以外なら」
「ん。車だから、ビールもダメだな」
何気なく言った達海だが、村越の眉間の皺がわずかに深くなったことにあっと思った。しまった。これでは今夜はもう帰れと言ったようなものだ。
しまったなあ。廊下を歩きながら達海は両手を頭上で組んだ。まずいかもしれない。これで今夜も逃げたら悪いほうに誤解されそうだ。そうでなくてもいいかげん、村越も愛想をつかしてしまうかもしれなかった。
別に、したくないわけではないのだ。だがいつまでもごまかしているわけにもいかないだろう。
「ホラ」
達海が村越に選んだのは野菜ジュースだった。監督の健康を心配した優秀な広報が用意したものだがあまり本来の用途に使われていない。紙パック入りのそれを手渡し、達海は再び肩の触れる至近距離に座った。
「あのさ」
「なんですか」
ストローを刺し口に突き刺したのを見る。
「…どうしても、セックスってしなくちゃダメか」
「っ!?」
ぴゅっとストローの先からオレンジ色の液体が飛び出した。村越が咄嗟に受け止めたが素手ではどうにもならずベッドに染みを作る。達海もあわててティッシュをとった。
「い、いきなり、なんだ」
「だってさぁ」
手を拭きながら村越が睨みつけた。さすがに顔が赤くなっている。ジュースまみれのティッシュをゴミ箱に放り込み、達海はそんな男の前に立った。水滴のついたドクターペッパーの缶はまだ開けられないままだ。ぬるくなっても平気で飲めるのか。村越はそんな心配をしてしまう。
「実をいうと、あんまり好きじゃないんだよね」
「…………」
「全然したくないってわけでもないけど…なんていうかさ」
達海が先ほどの理由を説明すると、村越は大げさなため息を吐いた。
「あんたにとってはその程度ってことか」
「違うの?」
そんなにしたいのかと問われるとイエスと答えにくい。村越は言葉に詰まった。
「好きな…相手に触りたいと思うのは、当然だろうが」
好き。怒ったような言い方だったが村越の本心だ。達海が嬉しそうな顔をしたのを見て、気まずそうに咳払いをする。
「手を繋ぐとかじゃ足りない?」
言って、達海が手を絡めた。
「抱きしめたい」
言って、村越が自由な片手を細い腰に回した。中身が本当に詰まっているのかと疑いたくなるほど薄っぺらい腹に額をのせる。
年下の男の可愛らしさに達海は目を細めた。
「いいよ。したいなら、しようぜ」
「俺は」
捕らわれた手を捻って逆に拘束する。したいなら、なんてずるい言い方だ。求めている人から求められたいと思うのは当然のことなのに、達海は自分からは与えないというのだ。
「あんたを気持ちよくさせたいんだ」
あんた本当に俺が好きなのか。問い詰めたくなる。サッカーのことなら誰にも譲らないくせに、どうしてこういうことはただ流されるだけなのだ。
「すごいこと言うな、おまえ」
すっと身体を離して、達海が村越の顔を覗きこんだ。何に驚いたのか、目を丸くしている。
「何が」
「気持ちよくさせたいって…それってすっげえ難しいことじゃん」
そうだろ?他人を不愉快にさせるのは簡単だが、気持ちよくするのは大変なことだ。村越のつんととんがった短髪をくしゃくしゃにして、達海が笑った。
「どうしよ。すげー感じた。村越、おまえって天才だろ!」
「ちょ…、達海さん」
「期待してるからなっ」
とどめとばかりに抱きついて大きな身体をベッドに押し倒す。あたたかくて固い胸板から早くなった鼓動が伝わってきて、たまらないほど愛しくなった。
ぐう、と村越が唸る。彼は身体を反転させて、愛しい男を組み敷いた。