明日の話をしよう








 目を覚ますと、そこに、見慣れた天井があった。見慣れた、だが、懐かしいなどという感慨のまったくない我が家。

「…ど、どうして………?」

 起き上がったアムロは、呆然と呟いた。なぜ自分がここに、シャイアンにいるのか、理解できない。
 ついさっき、眠る前までは、心から安心できる―――まさしく『家』と呼べる場所にいたのだ。
 そんなバカな。きっと、夢を見ているのだ。
 そう自分に言いきかせ、着替えもそこそこに寝室を出る。贅沢な、かといって趣味が良いとはいえない金のかかった絨毯の敷かれた廊下。螺旋を描く階段。無駄に豪華なシャンデリア。

「お目覚めでございますか」

 執事兼、監視人の男が愛想笑いすら浮かべずに声をかけてきた。そんなところも記憶と同じ。いつもならアムロも挨拶くらいはするのだが、今のアムロにはできなかった。立ち尽くす。

「アムロ様?」
「そんな……」

 一歩、後ずさって、背を向ける。それからアムロは一階の部屋を、厨房までも走り回ってこれが夢であることを確認しようと必死になった。様子のおかしいアムロにさすがに執事兼監視人も顔色を変えて、止めにはいる。アムロは彼を振り払って、二階へと駆け上がった。
 ここで叫んではいけない。呼んではいけないと、咽喉の奥でこらえていたものが、不安に後押しされるように涙と共にあふれだす。

「シャア!」

 バタン!扉を壊しそうな勢いで部屋を開けていく。

「シャア、どこだ!」

 泣きながら、アムロは叫んだ。声に出してみてなんて愛しい名前だろうと、あらためて思う。迷って迷って、悩んで戦って。何ひとつ残るものの無い自分のなかで唯一それだけが大切な。
 ここだ。アムロ。
 そう言って笑って、腕を広げて抱きしめてほしい。

「アムロ様!」
「…あ……っ?」

 最後の部屋の扉を開ける前に、アムロは取り押さえられた。

「はなせ……っ」
「悪い夢を御覧になったのですね。アムロ様」
「夢………!?」

 悪い夢。どっちが悪い夢なのだ。こここそ悪夢だ。ただ飼い慣らされる。それがどんなに苦痛なのか、させる側の人間にはわかるはずがない。
 執事兼監視人がアムロを押さえつけ、腕をまくる。やってきたメイド兼監視人の手には注射器が握られていた。

「もう、大丈夫ですわ」

 笑顔を貼り付けて、アムロの腕に注射器を刺す。皮膚を貫かれる、小さな、だがするどい痛みと、注入される圧迫感。
 夢か。
 あれが夢だというのなら、いっそ体内に流し込まれる液体で、永遠の眠りにでもつかせてくれればいい。あんな幸福な夢を見られるのなら。
 あの男のいない世界には、なんの未練もありはしない。

「シャア」

 名前を呼ぶとまた瞳から涙があふれた。











 頬を温かいものが伝っていく感触に、アムロは目を覚ました。泣いているのだとすぐにわかった。ただその感覚が現実であることが、すぐにはわからなかった。

――――――…夢………。

 首だけを回らせてここが自分の部屋であることを確かめる。馴染んだ家の、自分の部屋。家そのものは自分のものではなく、一緒に暮らしている男のものだ。好きにしていい、ここが君の家だと言われてはいるが。
 涙を拭って、アムロは起き上がった。暗がりの中で時計を見れば午前三時を過ぎている。もう、シャアは帰ってきているだろう。
 ネオジオン総帥であるシャアは当然のことながら多忙で、自宅に帰ってくることさえままならないこともある。同じ部屋の同じベッドでは、先に眠っているアムロに悪いと言って、それぞれの部屋のそれぞれのベッドで眠ることにしている。帰ってくることがあらかじめわかっている時は、アムロは起きて待っているので一緒に寝るのだが。
 贅沢な、だがシックな感じのする金のかかった贅沢な絨毯の敷かれた廊下。広く真っ直ぐに玄関に向かう階段。無駄な装飾の省かれた、だが趣味の良いライト。
 アムロはシャアの部屋の前でためらった。怖い夢を見て泣いて、眠れなくなったなんて、子供みたいだ。
 音を立てないようにそっとドアを開ける。ほんの少しの隙間から泥棒みたいに滑り込む。足音を忍ばせながら、そっとベッドへと近づいた。
 シャアは、いた。予想どおり眠っていた。
 声をかけるかどうしようかと、アムロが次の動作をためらっていると、シャアが目を開けた。

「……どうした、アムロ」
「シャア」
「なんだ」

 かすかに笑って、シャアが手を伸ばす。アムロはその手をとって自分の頬にあて、ベッドの端に座った。触れた手が暖かかったことに安心した。

「怖い夢でも見たのか?」

 隣りに体を滑り込ませると、自然にシャアの腕が背中に回った。抱き込まれる形になる。

「なんでわかる」
「泣いただろう?涙の跡がある。それに、昔アルテイシアがそうだった」
「セイラさんが?」

 同じ人物なのに名前が違うというのは奇妙なものだ。目の前の男も、今は、アムロの前ではシャア・アズナブルだが、時により複数の名前を使いこなす。クワトロ・バジーナならアムロにも馴染みがあるが、キャスバルは遠い名前だ。

「父を殺されて地球にいたころだ。怖い夢を見たと言って、私のベッドに入ってきた」

 今の君のように。どこか所在なげに立って、起こしてしまったことへの気まずさと、慰めてほしいという甘えを顔にのせて。
 懐かしそうに目を細める。シャアは妹のことを話す時、こんな表情をする。懐かしそうな、いとおしそうな……切ない瞳。

「なんか、意外。セイラさんの小さいころって、想像できないな」

 アムロの抱くセイラは強いイメージだ。強くて、優しい。そして美しかった。さすが兄妹だとよくアムロは内心うなずくことがある。
 くすくすとお互いに忍び笑い。シャアも、『セイラ』を知っている。

「……そんな時、どうしてた?」

 アムロが訊いた。シャアが過去を語るのはめずらしいことだ。思い出したくもない、というのではなくむしろ逆で、大切すぎて話せないらしい。シャアが言った。

「明日の話をしたな」
「明日の話?」
「そう。―――まず、明日の朝は私がアルテイシアを起こすだろう?それからどちらが先に顔を洗う?」

 なるほど、明日の予定をこうして決めていくのかとアムロにもわかった。夏休みの時間表を考える、あのノリだ。

「それから?」
「朝食のパンはトーストにするか、サンドイッチにするか。ジャムとバターのどちらをつけるか。卵の焼き方はどうするか。コーヒーと紅茶とジュース、どれにしようか」

 朝食が終われば、学校の授業の時間割の確認。宿題は済ませたか。そんな些細なことを話し合う。

「お茶の時間には、私がお菓子を焼いてあげよう」
「シャアが?……できるの?」

 戦いにしか縁のなさそうなシャアとお菓子という組み合わせが結びつかなくて、アムロが不安そうに言った。

「料理はひととおりできる。…というか、できるように仕込まれた。食べ物を自分で料理することは、暗殺の防止に有効だからな」
「………シャア」

 アムロも写真で見たことがある。あどけない笑顔の兄妹。親を殺された彼らがどのように危難を乗り越えたのか、シャアは話さない。ただこうやって、ぽつりと零すだけだ。
 神妙な顔で黙ってしまったアムロに、シャアはふわりと微笑みかけた。

「今の私を暗殺しようとしたら大変だ。どんな優秀なボディガードよりも強いものを、今の私は持っているからな」
「……俺?」

 白い悪魔だの、伝説のニュータイプだのといろいろ異名のある。アムロ・レイ。だが、シャアは首を振った。

「そうとも言えるが、少し違う。…死にたくない、という思いだよ」

 過去のシャアは、進んで死にたがっていたとは言わないが、死んでも構わないと思っていた。自分には何ひとつない。たとえば宇宙のかたすみでひっそりと死んだとしても、何も残さずに無に還るだけ。

「今は、違う」

 シャアが向き合う形でアムロの上に圧し掛かってきた。加減をしてくれているのだろう、あまり重たくなかった。シャアが頭をアムロの胸に乗せる。甘えるように。

「アムロがいてくれる」

 他には何もいらない。言い切る男にアムロは苦笑した。今のシャアには捨てられないものが多すぎる。そのことがおかしかったのではなく、自分と同じことをシャアも思っているのだと思うと、嬉しくて笑った。

「ネオジオン、どうするの」
「あげるよ」
「アッサリ言うなよ……。いらないよ、あんな重たいもの」

 アムロは一度目を閉じると、少し言葉を選んだ。

「………さっきの、」
「?」
「夢」

 手を伸ばして額にかかる金髪をすくいあげると、唇が降ってきた。

「怖い夢?」
「そう。昔の夢だった。シャイアン基地にいたころの。俺はそこにいて、生活していて、そして夢を見た」

 言いにくそうにアムロが話し出す。ここでのこと。シャアとこうしている夢を。

「………アムロ」
「これが、夢で。もう終わったはずの過去が現実だった。あなたはいない。俺は半狂乱になってシャアを探すんだけど、いないんだ。夢を見ていたんだって、言われた。―――俺は、」

 アムロはそこで言葉を区切った。こみ上げてくるものを堪えるように瞼を固く閉じ、そして開けた時には瞳が潤んでいた。震える唇が言った。

「俺は、あんな幸せな夢が見られるのなら、いっそずっと―――永遠に眠りつづけていたいって…思った」

 堪えきれずに、涙が溢れる。瞬きをすると睫毛を濡らしながら雫が滑りおちた。腕を伸ばして、シャアにすがりつく。

「忘れるなよ、シャア。他に何もいらないって思ってるのは、あなただけじゃないってこと」
「アムロ」
「どこへも行くな」
「ああ。ここにいる」

 ここに、を強調して言うと、アムロは安心したようだった。照れくさそうに手で瞼をごしごしと擦る。
 シャアは優しく笑って、額にキスを送る。

「もうおやすみ。心配しなくても、明日の朝は私が君を起こしてあげるから」







 目を覚まして一番最初に見るのは一番好きなひとの顔。
 それならきっと、今度は優しい夢を見られるだろう。