■1991.12





 頭上には抜けるような青空が広がっていた。
 カランとした青空。他には何もない。
 (だるいなあ…)
 何もかも失ってしまった。
 少し前に暴発事故で寝込んだときにはまだみんないたのに。リトアニアは忙しそうに駆けずり回っていて、エストニアはおろおろ、ラトビアはびくびくしながらこちらを伺っていて、それからもう一人、小柄な国が―――
 在りし日の情景を思い浮かべかけて、そんなことは意味のないことだと頭からふるい落とした。
 (連邦と一緒に僕も滅びるのかな…)
 その想像は具体的に思い描けて嫌だった。国がバラバラになり、国民のみんなが僕を捨て、あちこちに小さな新しい国ができて、そうしてロシアの名は忘れ去られる。僕を憎んでいたリトアニアたちはさぞかし喜ぶことだろう。
 周囲にはもう誰もいない。みんな出て行ってしまった。昔馴染みのヨーロッパのみんなも誰も来てくれない。彼らは東欧のことで精一杯でロシアまでは手が回らないらしい。
 「また一人ぼっちになっちゃったなあ…」
 「一人ぼっちじゃありませんよ」
 ロシアはパチパチとまばたきした。
 むかつくほどの青空と、青空を映したようなロシアの双眸の間を、闇色がさえぎった。
 白皙の顔に影が射した。

 突然現れた小柄な国はぬばたまの瞳で無表情にロシアを見下ろしていた。
 「…どうしたの、慎重な君がこんな混乱してるとこに何の用…?」
 石橋を叩いて渡らないほど慎重な日本がこんなところに来るはずがない。
 ロシアは日本のことを好きだったけれど、弱っているときには会いたくなかった。彼は一番弱っているところにやってきて、僕を引き裂いていく国だ。僕も彼に対してそれをしたからお互い様だけど。
 この間僕が寝込んだときに日本はふらりとやってきて、わたわたするラトビアを尻目に世話を焼いてくれた。僕はとても嬉しかったのに。あのとき、僕がどれだけ弱ってるか調べに来たんだろうか…と思ったら裏切られたような気持ちになった。
 「僕が息を引き取るのを、見届けに来たのかな…?」
 さしずめ天使ってとこだろうか。天使というにはいささか黒いけど。可愛い女の子とかじゃなくて君なんだ…と思ったら笑えてきた。
 「“死なないで”」
 「…え?」
 「“君を滅ぼすのは僕なんだから”」
 「あ…」
 その台詞は昔ロシアが日本に言ったもの。あのときの日本は酷い有様だった(もっとも、それは僕のせいもあったんだけど)それでも立ち上がって、こうしてここにいる。
 「あなたに倒れられると困るんです」
 とてもそう思っているとは思えない無表情で日本はずいと風呂敷に包まれた何かを差し出した。
 「これでも食べて身体を温めてください。あなたの燃料のウォッカはありませんが、とりあえず空腹じゃ立ち上がることもできませんから」
 ………?
 淡々と告げる日本を信じられないものを見るような目でロシアは見た。だって彼は確かに僕を憎んでいたはずだった。ああそうだ、油断してはいけない。刀を取り上げられた日本は、武力行使以外のあらゆる手を使って戦うつもりだと、僕に告げたじゃないか。日本に領土的野心がないのは知ってる。でも君の身体に領土的野心を燃やす僕から身を守り、君が自国のものだと主張する領土を取り返すためなら、こんな好機はない。
 「…混ぜちゃいけないものが入ってるんじゃない?」
 「そんなことしませんよ」
 日本は決して嘘をつかない国だ。となるとここには本当に差し入れに来たらしい。驚きのあまり、僕は間抜けな顔をしていたと思う。ずっと君と僕は敵同士だと思っていたのに。征服する気もないのに、弱っているところにやってきて、言葉をかけて食べ物をくれるなんて、まるで友達じゃないか。
 「だからさっさと起きなさい」
 「う、ん…」
 二度と立ち上がれないかと思っていたのに、案外簡単に身体は動いた。のそのそと起き上がるロシアに、日本は魔法瓶から注いだ湯気の立つ白濁液を差し出した。まったく寒くてかないませんね…とブツブツぼやきながら、自分でもコップに注ぎすすっている。
 独特の匂いを放つ液体をちろりと舐めてみると優しい甘味がした。
 「ねえ、これってワショク?」
 日本がこんなに優しいなんて珍しい(って言ったら怒るんだろうな)。何だか嬉しくなって日本に尋ねる。
 「甘酒ですよ。寒いときにはこれが一番です」
 日本は重々しく言った。
 甘酒で人心地ついた頃を見計らって日本が持ってきた風呂敷包みをほどき、アルミ色に輝く大きな箱を開けると、中からは温かい食事が出てきた。ほかほかのライスボールにおいしそうなおかずがぎっしり詰まったお弁当。きれいに詰められていて、手をつけるのがもったいないほどだ。
 「食べないんですか?」
 お箸が使えなくても食べられるようなおかずにしたんですけどね…と首をかしげている。今日の日本はサービス満点だ。さめないうちに、黙々と食べ始めるロシアを見てふ、と微笑んだ。一瞬本当は毒入りだったかと疑ったが、お弁当は普通にとても、おいしかった。

 甘酒のコップを片手に、日本は機嫌よさそうだった。
 「今はまだ混乱していますが、これで気兼ねなくロシアさんのところに来られるようになればいいですね」
 「いままでだって会ってたじゃない」
 「一応私もアメリカさんに気兼ねしてたんですよ」
 そうだ、日本はこんなところでこんなことしてていいのかなとふと思った。その答えはすぐに日本自身の口から得られた。
 「アメリカさんの一極大国体制は困りますもの。早く立ち直っていただかなくては」
 「君も性格が悪いなあ…」
 くすくすっと袖で口を隠しながら日本は底の見えない笑みを浮かべる。
 それでこそ日本だと思う。日本はアメリカに従順なだけの便利屋ではないはずだった。彼はアメリカの陰に隠れて牙を研ぎ、武力行使ではないやり方でアメリカに戦いを挑んで、そしてアメリカの土俵でアメリカを跪かせんとしていた。

 ゴーン、ゴーン、ゴーン…

 遠くで復活の鐘が鳴る。この国は神を取り戻し、ロシアは友を取り戻した。いつか在りし日の権威も取り戻すことだろう。






日本君はバブル期なので強気ですよ。
ですがこの頃から陰りが見え始め、やがて寝込むことになります。
アルミ色に輝く大きな箱→ランチジャー。蔵の中でほこりをかぶってたに違いありません。
(ランチジャーなんて90年代には絶滅してましたよ?<最近復活してるみたいですね)