1920.3 日本はシベリア東方の町の中を走り回っていた。先ほど到着したばかりの港町は、出港してきた日本よりもずいぶん寒かったが、予想していたように白い雪に覆われてはいなかった。 (静か過ぎる…) 油断なく周囲に気を配りながら、不安になる。ここには日本の国民がたくさん住んでいたはずなのに、先ほどから日本人はおろか、何者の気配も捉えることができない。静か過ぎる景色は不安を呼び起こした。 日本がここにやってきたのは、閉じ込められた国民を助けるためだった。ロシア赤軍が迫っているとの報にあわてて、結氷した港が融けるのを待ってすぐに(いや、待ちきれずに薄くなった氷を蹴破りながら)船を出したのだが――― (どこかに避難できたのでしょうか…それならばよいのですが…) 心の中で呟きながら、どこかでそれは希望的観測に過ぎないと言う自分がいる。不気味な予感がどんどん胸の中に湧き上がってくる。今のロシアは危険だ。ロシアの暴発を抑える“父なる”ツァーリはもういないのだ。帝を失って混乱したロシアが何をするか保障はなかった。国民の身を案じて、日本は無意識のうちに布に包まれた刀をぎゅ、と握り締めていた。 やがて町外れに近づき、黒っぽかった景色は白い景色に変わってきた。ザクッ…積もった雪を踏みしめて、日本は立ち止まった。 靄のように何かが揺らぎたちこめる向こう側に、誰かが立っていた。 「ロシアさん…」 「日本君、思ったより早かったね」 ニコ。 ロシアは以前と変わらない可憐な笑顔を浮かべた。しかしその異様な姿に日本は息を呑んだ。 ロシアの印象を一言で言うと白い国だ。一年の半分は雪に閉ざされているという…そしてもの静かで子供のように純粋な国。だが――― 雪のように白い肌、アイスブルーの瞳、まさに凍土を体現したような姿が今は赤く染まっている。ロシアは狂熱に浮かされた瞳で日本を見た。 「君がいけないんだよ」 ロシアは両手に何か赤く染まったものをぶら下げてゆらりと立っていた。 あれ、は――― ザ…と日本の顔から血の気が引いた。 「僕、何も迷惑かけてないのに、みんなして僕を責めるんだもん、アメリカ君と一緒に君まで来るなんて…」 ろ、しあ、さ…何とかしゃべろうとするのだが口内が乾いてうまく言葉が出ない。ロシアは日本の返事など待っていないようで一人で滔滔としゃべっている。普段無口なロシアが今はずいぶんと饒舌だった。 「ひどいよ、僕、君のことは本当に怖かったけど、でも友達だと思ってたのに」 いじめられっ子のようなことを言う。けれどその手に下げているのは――― 「その子たちを、地面に、置きなさい…!」 寒さではなく唇を震わせて、日本はやっと言った。 あれは日本の国民ではないか、しかもまだ年端もいかない子供だ。 血染めの子供の死体を両手にぶら下げて、ロシアは子供のように訴えた。 「僕、何も悪くないのにさ………出てけよ!」 ロシアは突然かんしゃくを起こして手に持っていた日本人の子供だったものを投げつけた。ドン、とぶつかり日本はよろけてひっくり返りそうになった。何とか踏ん張りつつとっさに抱きとめる。ロシアは人形のように軽々と扱っていたが、日本にとっては決して小さくはなかった。 まだ年端もいかない子供の死体は、五指を落とされ、口にするのもおぞましい…それはむごたらしい有様だった。死んだ後も更に酷い仕打ちを受けていたものらしい。正視するのもつらいそれらを日本はじっと見た。 ああ、そうだ本当に。私が悪かったのだ。 ロシアはくっつきたがる割に、身の内に踏み込まれることを極度に嫌う、猜疑心の強い国だ(もちろんそれは今までの歴史の中で自分の身を守るのに必要なことだったのだろう)さらに、恐怖を抑える“父なる”ツァーリを失ったことで怯えている。もともと一人ぼっちの子供のように怖がりなのが、今は他国に侵入されて度を過ぎた警戒心で全身を鎧うている。それを分かっているべきだったのに無神経に彼の地に国民を送り込むなど。 だが、だが! 非戦闘員の、それも子供まで手にかけるとは許せることではない。しかも遺体の様子を見ると、残虐な方法で殺されたことは明白だ。日本は哀れな子供をそっと地面に寝かせて、ギリ…と刀の柄を握り締めた。 日本が来る前に漂っていたはずの血なまぐささはない。代わりに辺りには焦げ臭さが漂っている。町は火をかけられて焦土と化していた。この町に住んでいた日本の国民は皆殺しにされたのだ。 「まだ出てかないんだ?君が出てかないなら、この子がこうされても仕方ないよね…」 日本が動こうとしないのを見て取って、ロシアは不機嫌になった。持っていたもう一人の死体を弄び始めた。血まみれの足を両手にそれぞれ持って、それを少しずつ左右に開――― ふっと日本の姿が消えた。 ひゅんっ 眼前に斬り込んできた鋭い切っ先をロシアはすんでのところでかわした。手が滑って、持っていたものを取り落として少し気がそれる。勢い余ってロシアの背後に着地した日本は、すぐに体勢を反して足元の雪を蹴った。 息もつかせぬ猛攻にロシアは持っていた銃で応戦することもできなかった。銃口は火を吹くことはなく、銃はただの鉄塊となって刃を防ぐ盾と化している。雪と刃に日の光がキラキラと輝き、合間に日本の黒い瞳が殺意をはらんで光る。 ロシアは危険な伝染病に支配されているとアメリカは言っていた。まさか、そんなと思いながら、みんなで幸せになろうという思想はそんなに悪いものなのかと疑問を感じていた。 けれど。 狂熱に浮かされ赤く染まった瞳のロシアは本当に病気なのだろう。 帝を喪い、正常な判断力失って、原始の感情である恐怖の命ずるままに従い、この恐ろしい虐殺を遂行したのだ。 こんな恐ろしい病を、我が国民には、決して感染させてはならない。 氷のように冷えた日本の心と 熱に浮かされたロシアの瞳が 交錯した一瞬――― ロシアは身を翻して白い雪原の向こうに駆け去っていった。 |