*いつもの設定と違ってはじめのうちロシア様は日本君を侮ってます。日本君はロシア様を嫌ってます。
ロシアがこの世に発生したときから、ロシアの周りは敵だらけだった。けれどそれはロシアが大陸国である以上しかたのないことだった。兄ともども、黒髪の悪魔に喰われ、それを押し返し、兄を呑み込み、西で東で南で戦い、勝って、負けて、勝って…強くならなければ、敵に呑み込まれてしまう。強く、大きくならなければ、呑み込まれるのはロシアのほうだ。ロシアの歴史は絶え間ない闘争と膨張の繰り返しだった。 領土不拡大の原則に賛成したあとでさえロシアは大きくなった。それでもまだ不安で、さらに周囲を衛星国で囲んだ。世界がみんなロシアになればいいのに。そうなったら初めてロシアは安心して眠ることができる。地上の土地は有限だと知っているのに、自分が小さくなることがあるなんて、考えることができなかった。 それは突然やってきた。 ロシアを守る防壁だったはずの周囲の国は次々と民主化を叫び牙を剥いた。何度も潰してきたその運動を、今度は潰すことができなかった。ロシアの内部にまで呼応する者が現れ、ロシアが作ったソビエトという擬似家族は崩壊した。 そうなればロシアはもろかった。 今まで家族に囲まれ安心していたのに、一転して周囲は敵だらけになった。強くて大きなロシアのアイデンティティはもろくも崩れ去った。ロシアから離れようとする国は容赦なく叩き潰してきた。大きくなければ呑み込まれるのはロシアのほうだ。しかし今度はロシアがその恐怖に晒されなければならなかった。 恐怖であると同時にそれは悲しみでもあった。家族だと思っていた国々に責められるのは辛いものだ。しかもロシアを構成する国民の中にまで、裏切り者はいる。あちこちから反発され、ロシアはどうしていいか分からなくなった。 ■ ■ ■ そんなある朝、目覚めたロシアは周囲のものが大きくなっていることに気付いた。ふかふかのクッションがでかい。ベッドがでかい。まだ寝ぼけているのか、不思議の国に迷い込んだようだ。もっとも、風景自体は見慣れたものなのだが。 ロシアは半分まどろみながらベッドの中で味わう朝のお茶が好きだったが、今ロシアのためにそれを支度してくれる部下はすでにいない。心の中で罵りながらベッドから降りようとする。…足が届かない。ロシアは眉根を寄せた。 何とかぴょんと飛び降りて。 …え? 目をパチパチと瞬いた。 ベッドから少しはなれたところに全身が映る鏡がある。そこに映るロシアの姿は、どう見ても小さな子供だった。 ああもうめんどくさい、何もかも放り出してしまいたい。 何も知らない子供みたいに全ての責任から解放されたい。 確かにこのところロシアに向けて発せられる呪詛の声に疲れ果て、そんなことを願っていたような気がする。だがこれでは不完全だ。神様は意地悪だ。どうせ子供に戻すなら、記憶や思考も戻してくれればいいのに。 記憶や思考がそのままで子供に戻ってしまったということは、恐怖だけを倍増させる。だって攻められて逃げ惑った恐怖を覚えているのに、身体は対抗するすべのない無力な子供だなんて。 とにかくここにいたらまずい。今のロシアは敵だらけなのだ、こんな姿を他国に見せたら大変なことになる。どこかへ逃げなきゃ…でもどこへ? 兄はダメだ、かつて呑み込まれた恨みを忘れていないだろう。リトアニアは?エストニアは?ラトビアは?大きなロシアには怯えていたけれど、小さくなったロシアを見ればここぞとばかりに復讐してくるに違いない。同じ理由で衛星国もダメだ。道を違えた中国はもはや味方ではない。では妹は?昔からリトアニアやポーランドとずいぶん仲がいい妹に助けを求めれば彼らに筒抜けなのは明白だった。 いまや周囲は敵だらけだ。ロシアは怯えたように走り出した。 ■ ■ ■ ―――で (…何で日本君の家になんか来ちゃったんだろ…) 目の前にそびえる板塀と格子戸を眺めながらロシアはいささかならず憮然としていた。 ここは世界で一番安全な国だから。無意識に足を向けてしまったのだろうか。アメリカの傘の下の安全を選んだ日本を、ロシアは馬鹿にしていた。本人の目の前で、皆の見ている前であざけったりした。日本は穏やかな顔を歪めてじっと屈辱に耐えていた。アメリカの陣営に組み込まれてから日本は自発的にロシアと接触を持とうとしなかった。上司に言われて近づいてくるときでさえ、心からの笑顔を浮かべることなどない。当たり前だ。散々自分の身体を蹂躙した上に、ことあるごとに自分を侮る相手に好意を持つわけがなかった。 だから日本とはしばらく会っていない。日本はロシアのことを嫌っているから。 (日本君にはすっかり嫌われてるから、どうせかばってなんかくれないし) アメリカにすっかり牙を抜かれた日本に復讐されるとは思わなかったが、ここにいても何も進展しない。この上日本にまで嘲笑されるのは耐えられない。ロシアはくるりときびすを返した。 (でも…そしたらどこも行くところがないや) マフラーに首を埋め、隠れた口をギリ…と噛みしめる。今までロシアに押し込められていた国達が今の自分を見たら嘲笑うだろう、殴られるかもしれない。考えれば考えるほど、一人ぼっちだということに気付く。ここはロシアよりずっと南なのに、急に寒くなってきた。はあ…吐いた息が白い。 ロシアはとぼとぼと歩き始めた。 くぅぅ… 可愛らしくお腹が鳴った。日本の地にはまだ雪は積もっていないが、ロシアではもう雪が積もっていて、小さな子供の足で歩くのは大変だった。雪を漕ぐのにかなり体力を使ってしまったし、必死で逃れてきて、朝のお茶も口にしていないのだ。お腹がすくのも当然だった。 とぼ、とぼ、とぼ、力なく歩く足が急にもつれた。 「ふぎゃっ!?」 冬の冷たい空気の中、ロシアはずべしゃぁっ!と顔面から地面にダイブした。 子供なんて不便なことばっかりだ。疲労と顔面の痛みと驚きで転んだ姿勢のまま動けない。ちくしょう、どうして僕がこんな目に…!思わず神を呪いたくなった。 と、そのとき 「大丈夫ですか?」 聞きなれた、柔らかい声が耳を打った。 ■ ■ ■ ―――え? 「大丈夫ですか?」 ロシアは顔を上げたまま驚きで固まった。 ここに彼がいるのは不思議でも何でもない。だってここは彼の家の近所だから。柔らかな口調もいつもの彼だ、ただしその柔らかさがロシアに向けられたことはついぞなかった。 「どうしました?この辺では見かけない顔ですが…迷子でしょうか?」 着物に土がつくのもかまわず日本は目線を合わせてしゃがみこんだ。ロシアを助け起こして、子供好きでお人よしの国は、極上の笑顔を浮かべた。 目線を合わせて、どうやら相手が人間ではなく国だと気付いたようで、日本はしばしあごに手を当てて考え込んだ。 「ロシアさんとこのお子さんでしょうか、何となく似てらっしゃいますから…」 ソビエト連邦が壊れたときに誕生した新興国の一つだろうと推理したらしい。僕の名前が彼の口からこんなに柔らかく発音されることがあるなんて知らなかった。 「私はロシア語はあまり得意でないのですが…ええと、ずどらーすとぶぃーちぇ?」 ロシアは目を丸くした。 お世辞にもうまいとは言えない発音だったが、それは確かにロシア語の挨拶だった。日本がロシア語をしゃべれるなんて(ヘタクソだけど)知らなかった。彼は僕に無関心だと思っていたのに。 こんな日本君は知らない。日本君はいつも嫌そうな目で僕を見て、上司に命じられても決して心から僕と打ち解けることはない。だから、こんな柔らかい日本君は知らない。 (僕だって分かったら、見れなくなっちゃうのかな) 何も言わずに日本の手をぎゅっとつかむと、日本はニッコリ笑って立ち上がった。いつもは目下にある黒い頭が上の方にあることに違和感を覚える。 「ロシアさんの家に行きますか…?」 それは困る!ロシアは空いているほうの手で着物の端をつかんでいやいやするように顔を埋めた。それで嫌がってることを察した日本は眉を下げた。 「ではどうしましょかね…」 彼が嫌う“やっかいごと”だろうにのんびりと言う。日本とロシアは手をつないだまま、その場にしばらく立ち尽くしていた。 ばさり 不意に視界が翳った。 頭から日本が着ていた羽織をかぶせられたのだ。 ―――?? うつむいていた顔を上げると、日本はいつの間にか黒くなっていた空に手を伸べていた。 「雪が降ってきましたね…」 近所をちょっと散歩するだけのつもりだったのだろう。羽織の下は普通の着物で手袋もつけてない。予定外の長時間外にいて、きっと寒いに違いない。それでも日本は上着を見ず知らずの子供に譲った。 「…仕方ありませんね、お子さんを一人で外に残しておくわけには行きませんし…うちに来ますか?」 最後の文だけはつたないロシア語で。言葉が通じてないと思っているのだ。ロシアは日本に手を引かれて、日本の家の戸をくぐった。 ■ ■ ■ いつもは全体的に小さすぎる家も、この体格なら苦にならない。ロシアの広すぎる家には恐怖しか感じなかったが、こじんまりした日本家屋では落ち着くことが出来た。 目の前にある“コタツ”というテーブルもいつもは小さすぎて難儀するが、今日はちょうどいい。座布団にちょこんと座ったロシアに日本はホットミルクを出してくれた。空腹にホットミルクはよく沁みた。日本の牛乳はロシアのものに比べて味が薄くて物足りないけど、これは砂糖が入っていて甘くておいしかった。大きめのマグカップを両手で抱えて少しずつすする。日本はニコニコしながらその様子を眺めていた。 ああそうです、何か思いついた様子で日本は奥に行き、すぐに手に本を持って戻ってきた。『ロシア語講座』とある本を開いて、ぼそぼそと会話を試みようとした。ロシアの前ではいつも冷たい表情をしていたのに、まさかロシアの言葉を勉強していたなんて。何だか夢でも見ているようだ。 不意に日本がロシアの頭に手を伸ばしてきた。くしゃり、優しく撫でられる。白い水面に落としていた目線を上げると、どうしたのだろう、日本は眉根を寄せて悲しそうな顔していた。口を開いた日本はあえてロシア語でなく日本語で呟いた。 「あなたはきっとロシアさんのご近所の国なんですよね…、…ねえ、ロシアさんはどうしていますか…?元気でいらっしゃるでしょうか…」 違う、悲しそうじゃなくて、誰かを思い遣ってる顔だ。 「気落ちしていないといいのですが…」 全世界はソ連の崩壊ひいてはロシアの苦境を喜んでいるとばかり思っていたのだけど。ミルクをすするのをやめて日本の顔をじっと見ている子供に気付いて、日本は仕方なさそうに微笑んだ。ロシア以外のソビエトの国々はおおむねソ連の崩壊を歓迎していることに気付いて気まずそうだ。 「…あなたはお嫌いかもしれませんが、決して悪い方ではないと思いますよ。門外漢が無責任に言うことではありませんが、できれば、仲良くしてあげてください」 政策面では残念ながら意見が合わないことが多いのですが…と困ったように笑って、日本は客間に布団を敷きに行った。 ■ ■ ■ 客間の布団の中でロシアはもぞもぞと身体を動かしていた。日本の家は風を通して寒い。布団をいくつも重ねて、足元には“ユタンポ”なる暖房器具が置いてあるが、それでも寒かった。 だってこの家、暖炉もないんだもん…。 足元の小さな暖房器具一個では足元がかすかに暖まるだけだ。 疲れているはずなのに、腹も満たされたのに、何だか寝付かれない。ロシアは先ほどの日本の様子を思い返していた。子供の不安を取り除くように満面の笑み。自分も寒いだろうに(つないだ手はかじかんで冷たかった)上着を譲って、しかも家に上げてミルクを飲ませた上に泊めるなんて。ちなみにロシア自身は一度も泊まるように勧められたことはない。何でそんなに優しいかな…と思い返して、志が折れる前の戦前から彼はそうだったと思い出す。日本は困っている弱い国にはとても優しいのだ。どこのものとも知れない国を、簡単に家に上げてしまう日本はやはり平和ボケだと思うけど。 “決して悪い方ではないと思いますよ” あれは不意打ちだった。思い返すとむずがゆくてたまらなくなり、ごろんと寝返りを打った。日本はいつからロシアに関心を持ち始めたのだろう。ロシアの前ではそんな素振りを一切見せなかったのに、ロシア語の勉強までこっそりしていたなんてね。自国に関心を持ってもらうことは国にとって何より嬉しいことだ。相手に好意を伝えて嬉しがらせることは外交上の戦術の一つになりうるのに、ロシアに対して意地っ張りな日本は決して好意を見せようとはしなかった。だからこそ本物だと分かる。こんなアクシデントでもなかったら、永遠に闇に葬られていたかもしれない事実だ。 タオルに包まれた“ユタンポ”をぎゅっと抱き締めて、冷えた頬をすり寄せた。 (僕の周りは案外敵国だけじゃないのかもしれないな。少なくとも日本君は、僕のこと) “ユタンポ”を抱き締めてロシアはむくりと起き上がった。客間のふすまを開けて居間を突っ切り、勝手知ったる他人の家をぺたぺたと歩いた。日本はとても嫌な顔をしたけどロシアはよく勝手に侵入して勝手に歩き回っていた。日本がどこで休んでいるかも知っている。日本の居室のふすまをからりと開けた。日本は布団の中で本を読んでいて、子供の姿を認めて目をぱちくりさせた。 「ええと…、トイレに行きますか?」 ヘタクソなロシア語まで嬉しい。ロシアはふるりと頭を振ってとことこと布団に歩み寄った。 「…一緒に寝ますか?いいですよ、いらっしゃい」 ロシアの意図を察すると、日本は布団をめくり上げてロシアを招きいれた。布団の中は冷たく、日本は熱源を招き入れて、ほ…と呼吸を緩めた。この“ユタンポ”もいつもは日本が使っているものに違いない。ロシアから擦り寄っていってもいつものように拒絶はされなかった。本をパタンと閉じて日本は二人の身体に布団をかけた。 ■ ■ ■ 翌朝、日本の覚醒は唐突に訪れた。 (あたたかい…) 冬の朝は寒くて苦手だ。若い時分には、冬はつとめて。などと言って寒稽古に励んだものだが、年々布団から出るのが億劫になっている。それがどうしたことだろう、今日はやけに暖かい。 ぱちっと目を開いて絶句した。 目の前のすぐ至近距離になだらかな白い頬。だらしなく緩む口元。身体の上には重たい腕が回ってしっかりと抱き寄せられている。 (な、な、な…!?) 宿敵の大男と布団を共にしていることに気付いて一瞬固まる。それからようやく昨日子供を保護したことを思い出した。 (あ…れ…?あのお子さんは…?てゆーか何でこのヒトここに!?) 混乱しつつも腕から逃れようと必死に動くが、ロシアは寝ていようと起きていようと日本の思い通りにならないことに変わりなかった。ズッシリと重い腕はビクともしない。しかし蠢いているうちにロシアが目を開いた。 「ん…おはよ…」 目はとろんとして夢と現の間をさまよっており、寝起きの悪さをうかがわせた。ロシアが起きる前に逃れたかった(そしてなかったことにしたかった)のだがこうなれば仕方がない。さっさと目を覚ましてもらおう。日本は容赦なく大声で怒鳴った。 「なんでアナタここに!?」 「あれー?戻っちゃったんだ…」 ロシアは自分の手をかざして、日本の頭の大きさと見比べて、残念そうに呟いた。 「まっまさか…」 「うん、あれ僕」 その瞬間の日本の表情こそ見ものだった。 「〜〜〜っ」 がばっと布団から飛び出すと叫びそうになった口を両手で抑える。顔は耳まで真っ赤だ。 日本とロシアは対立しているのだ。何度か戦争した上に領土を不法占拠され、権利を侵害され続けている日本はロシアを敵視している。ことになっているのに、うっかり昨日見ず知らずの小さな国(と思っていたが実はロシア本人)に対してロシアを心配してしまった。怒っていいやら照れていいやら決めかねて、あっあっ…と口をバクバク動かしていたが、怒ることに決めたらしい。 「あっあなたはそうやって私をだまして…!」 いつものようにキツイ言動を向けられても、日本がロシアに向ける好意を知ってしまった後では可愛らしいとしか思えなかった。ロシアは何も言わなかっただけで、別に日本をだますつもりはなかったが、おかげでいいものが見られた。 「僕を心配してくれるなんて、日本君は優しいねー♪」 「出てってください」 日本は端的な言葉でずばりと切り捨てて、くるりと背を向けた。けれど耳の赤さは隠せない。 「これからは仲良くしようねっ♪」 背後からがばっと抱きつかれて日本はしばらくもがいていたが、そんな体勢では大きすぎるロシアを投げることもできずに、憮然とした表情で抵抗をやめた。 「それはあなた次第ですよ…」 |