1905.1そして北方へ つつがなく降伏文書を取り交わすとロシアは邪気のない笑顔を向けた。やっと戦いが終わったんだ、お祝いに飲みに行こうよ、と強引に誘われて、日本は大変困惑していた。 (というか、私もう動けないんですけど…) 今まで気を張っていたのが解けたせいかもう一歩も動きたくない。それなのにまったく、さっきまで動けなかったロシアのどこに夜の街に飲みに行こうという体力が残っているのだろう。やはり大きな身体に蓄えられるエネルギー量は違うんだろうか。それとも日本が年をとりすぎたのか。 「だってさ、ウォトカ、僕の生命の水、もうなくなっちゃったんだよ」 ロシアは眉尻を下げて、空の携帯ボトルを振って見せた。 昨日まで殺し合っていた相手と飲みに行こう、と言うのは普通の神経なのか分からない。けれどひとまず戦いは終わったのだ。素晴らしい好敵手を胸襟を開いて褒め称えたい気持ちは日本にもあった。 死闘に次ぐ死闘で緊張状態が長く続いた後で、手放しで懐かれると、つい気を許してしまう。 (新年の祝いをかねてということで、よろしいですよね…) 心の中で上司に言い訳して、日本は棚から極上の赤ぶどう酒を取り出した。 体力的に飲みに繰り出すことは不可能なので、代わりにとびきりの酒を出したというのに、ロシアは量に不満そう、口をへの字に曲げた。 「グラス一杯だけ?全然足りないよ」 「お互いケガ人なんです、自重してください」 そう言う日本はおちょこを持っている。こんな状態でアルコールなど口にしたら、気付けどころか寝入ってしまうに違いない。付き合い程度ということだ。 「それにまだ国同士の戦争が終わったわけではありませんよ」 やんわりと釘を刺すと、ロシアは日本君は真面目だなあ、と肩をすくめた。 「とりあえずここは休戦したんだ、乾杯しようよ」 二人はちん、と可愛らしい音を立ててグラスとおちょこをぶつけた。 「おめでとう、日本君て強かったんだね」 苦手な消耗戦で、日本にとっては不本意な戦況だったが、皮肉ではなくロシアは日本を賞賛していた。傍目八目の他国や本国政府がどう言おうと、戦場で実際に戦った相手には本当の強さが分かるものだ。好敵手と認めた相手から認められるのは嬉しいもの。思わず頬を上気させた日本だったが、あまり舞い上がらないようにしなくてはいけない。 「勝ってかぶとの緒を締めよ、と申します。それに損害は五分五分ではありませんか、あなたも強かった」 ありがとう、と返すロシアの声も今日は素直だ。 「今日、これを飲み干して別れたら、また戦いだね。旅順艦隊は潰されちゃったけど、満州軍も、バルチック艦隊も強いよ。楽しみにしてて」 「存じております、しかし連合艦隊も強いですよ」 アルコールが入っているせいか、日本にしては珍しく身内を誇った。ロシアはあはは、と気持ちよく笑って握手を求めた。握った手がやけに熱いのが気になったけれど、日本は何も言わずに握り返した。 そのまま二人は寝入ってしまったらしい(何しろ不眠不休で戦った後の酒宴だった) 翌朝、日本が目を覚ますと、ロシアはすでに出発の準備を整えていた。暖かそうな帽子を被り、コートを着て肩に銃剣を担いで、のっそりと立っていた。日本は彼の携帯ボトルに(ウォトカはなかったので)コニャックを詰め、糧食を用意した。満州に主力軍がいる以上、国であるロシアをここに留めておくことはできない。 北で、あるいは日本海で、彼らはまた戦うことになるだろう。 「北に向かわれるのですね」 ご武運を、と言おうとしてあわててやめた。いくら何でも敵国にこの挨拶はないだろう、サービスのしすぎだ。 「元気でね」 と、ロシアが言ったので拍子抜けしてしまった。戦闘を離れた彼は、気のいい大男だ。 ここを発つというロシアの広い背中を眺めて湧き上がるのは寂しいと言う気持ちだった。ロシアは強くて気のいい男だと知っているのに、私達はまだ互いを削りあって殺しあわなければならない。これが、戦争ではなく試合だったら、私達はきっと良い友人になれたでしょうに――― 日本君とまた戦えるのは楽しみだ、僕も君も、尻尾に他所の国の意向をぶら下げてはいるけれど、強い相手と戦うのは純粋に楽しいよ。日本君の戦略は目新しくて面白いし、力押しでもなかなか踏ん張るし―――まあ、最後に勝つのは僕だけどね |