遅刻ですが猫の日にちなんで露日猫パラレルです。
趣味に走ってしまったのであらかじめ謝っときます、いろいろごめんなさい!
ちろっとしか出てきませんが
アーサーさん=きくの飼い主/フランシスさん=イヴァンと顔なじみの獣医さん







 22-2-22





 小さな街がありました。
 その街の猫たちのボスはイヴァンといいました。
 外国から来た、不思議なぶち模様の毛の長い猫です。
 そこら辺の猫よりふたまわりも大きく、犬と戦ったって負けるようなことはありません。
 イヴァンは小さな街を支配して君臨していましたが、ひとつだけ、入り込めない場所がありました。

 その場所とは街外れに建つバラに囲まれたお屋敷で、気難しい青年が一人で住んでいました。
 猫が丹精した庭を荒らすので、青年は猫をとても嫌っていました。
 例外は青年が飼っているきくという名の黒猫です。
 きくはとても行儀のよい猫だったので、自分のなわばり内といえども庭で粗相をすることはなく、庭の花々をいたずらすることもなく、
 また庭に侵入してくる猫を追い払ってくれるので、青年はきくをとても可愛がっていました。

 きくはいつも花が咲き乱れる庭でのんびりしています。
 きくは屋敷からほとんど出ないので、きくと交流を持つためには屋敷まで出向かなければなりません。
 わざわざ街外れまで猫嫌いの主人がいる屋敷に出かけてくる猫はほとんどいないので、きくは他猫との交流をほとんど持ちませんでしたが、
 わざわざ出かけてくる例外的な存在がイヴァンでした。
 というのも、小さな街でイヴァンの権力が及ばないただ一つの場所がこの屋敷だったからです。

 イヴァンが制裁を課した猫がきくが住む庭に逃げ込むことがあるのです。
 仲間に攻撃されて血まみれ傷だらけの猫が庭に逃げ込むことに、きくはいい顔はしませんでしたが、
 怪我を負って逃げ込んできた同胞を無碍に追い出すような非情な猫ではなかったので、猫嫌いの主人に追い出されるまでの間
 追いかけてきたイヴァンや子分たちから匿い、ときにはイヴァンと戦うこともありました。
 きくは小柄な猫でしたが、けして弱い猫ではありません。
 主人が大事にしている庭を大勢のがさつな他猫に踏み荒らされるのが耐えられないきくは、さんまわりも大きなイヴァンにも臆することなく向かってきます。
 いつしか街外れの屋敷は、あそこに逃げ込めば何とかなるという中立地帯のような場所になっていて、イヴァンは目障りで仕方ありませんでした。

 イヴァンは野良ですが、いつも大勢の取り巻き猫に囲まれています。一方きくは花が咲き乱れる屋敷にひとりきり。
 はたから見れば二人はちっとも似ていないのですが、イヴァンは孤立しているきくを見るたびに自分と似ていると思いました。
 周囲に気の許せる仲間もつがいもいない、ひとりきり。
 しかしひとつだけ、決定的に違うことがありました。
 きくには飼い主がいて、きくは飼い主のことが大好きだったのです。
 ふたりでけんかを繰り広げていても、飼い主に呼ばれると、きくはイヴァンのことなど忘れたかのように飛んでいってしまうのでした。
 そのたびにイヴァンはきくを嫌いになりました。











 ある日のこと、花ざかりのお屋敷からたくさんの荷物が運び出されました。
 猫嫌いで気難しい青年が出て行ったことを知って、猫たちは早速偵察に出向き、そこにきくがいたことに驚きました。
 その報は早速イヴァンの元に届けられました。

 「君、捨てられたの?」

 によによと笑いを含んで頭上から浴びせられた声にきくはゆったりと振り返りました。
 何かにつけてちょっかいをかけてくる、不思議なぶち模様の大きな猫が、子分たちを引き連れて立っています。
 この屋敷には人間がいないので我が物顔に立っています。
 でも飼い主は直ぐに帰ってくると言っていたのです。待っててくれよな、と言い残していったのです。

 「違いますよ、アーサーさんはじきに帰ってきます」
 「馬鹿だな、人間を信じてるの?」

 イヴァンは器用に肩をすくめました。
 いかにも馬鹿にしている態度を見て、きくの眉根がぴくりと寄りました。

 「君、一人でご飯を獲ったことないんでしょ?この土地を差し出すなら、ご飯を分けてやってもいいよ」
 「結構です」

 親切に言ってあげてるのに袖にされてイヴァンはムッとしました。
 みんなでこの庭にマーキングをしてやれ、と、子分たちに合図をします。
 たった一匹に大勢で、紳士的でないと渋った子分もいましたが、どうせイヴァンに逆らうことなどできやしないのです。
 自分より強い猫に凄まれると、そいつもしおしおと、マーキングをしました。

 怒りのあまりぷるぷると尻尾を震わせる誇り高い黒猫を見下ろして、イヴァンは悦に入りました。
 かわいそうにね、飼い主に捨てられて、こんな屈辱を与えられて、その相手に仕えることになるんだ。
 イヴァンの心の声が聞こえたのかどうか分かりませんが、きくは射るような目でイヴァンを睨み上げました。

 シャーッ
 小柄な猫の鋭い牙がまっすぐにイヴァンの頚動脈を狙って飛び込んできます。
 勝ち目なんてあるはずがない、それでもきくは向かってきました。
 (殺される…!)とイヴァンは久方ぶりに危機を覚え、反射的に爪を閃かせました。

 花ざかりの庭で大小二匹の猫はもつれ合って転げまわりました。
 激しい戦いは見守るのが精一杯で、子分の誰も手を出すことはできません。
 何度も何度も、数え切れないほど小競り合いを繰り広げてきたふたりですが、ここまで激しい戦いは初めてです。

 やがてふたりはふらふらっと離れました。
 きくはゆらゆらとおぼつかない足取りで、それでも一歩も引くことなく、屋敷の入り口を指し示しました。

 「お引き取りください」

 イヴァンも子分に支えられやっと立ち上がりました。
 長い毛の白い部分は赤く染まり、片足をプラプラと揺らしています。
 これ以上やったら命に関わると、勇気ある部下が興奮するふたりの間に割って入りました。

 「うん、じゃあ今日は帰るね、また来るから」
 「おとといきなさい!」

 たたきつけるような罵声にイヴァンは笑い、プラプラと尻尾を揺らして立ち去りました。
 花ざかりの庭には、きくがひとり、残されました。





 負け知らずだったイヴァンが(双方大怪我を負ったとはいえ)小柄な黒猫に撃退されたのです。
 イヴァンが動けるようになったとき、イヴァンの子分たちは、きくは殺されるに違いないと思いました。
 しかし違ったのです。
 イヴァンは回復すると直ぐに街外れのお屋敷をたずねました。
 食べ物を携えて。

 花ざかりのお屋敷につくと、花の匂いにまぎれて血の匂いと、きく以外の猫の匂いを嗅ぎ取って、イヴァンは眉を顰めました。
 急いで気配がするほうに走ると、小柄な黒猫がカッカッと威嚇している声が聞こえました。
 見るとイヴァンよりは小さいもののきくよりはずっと大柄な猫が、我が物顔で庭に侵入しています。
 それよりきくの様子がおかしいのです。腰を地面に付けたままそれに向かって威嚇することしかできないようでした。
 イヴァンと戦ったときよりも毛艶が悪くなり痩せているようです。

 明らかに弱っているきくに対してかさに掛かったように威圧している猫が不愉快でなりません。
 あの気の強いきくが、イヴァンに対して一歩も引かなかったきくが、そこいらの猫に負けているのは我慢ならなかったのです。
 イヴァンがふらりと姿を見せると、無礼な猫は気まずそうに立ち去りました。

 「きくくん、どうしたの」
 「あなたですか…」

 イヴァンの姿を認めるときくは弱弱しく威嚇してきました。
 必死に後足が土を引っ掻きますが立ち上がることはできません。

 「出てってください…」
 「ふらふらじゃないか」

 必死なきくに構うことなくイヴァンは近寄りました。
 もしかしたら引っかかれるかな、と思いましたが、そんな元気もないようです。
 後足から傷が膿んだいやな匂いが立ち上ってきます。
 黒い身体に触れると、小柄な身体は驚くほど熱く、痩せていました。
 あれから、何も食べていないのかもしれません。

 「…はなしなさい、…っ」

 イヴァンがきくの首に牙を立てました。
 生命の危機を感じたきくは息を呑み、ピキンと固まりました。
 しかし鋭い牙は血管や筋肉に刺さることなく、首の後ろの皮をひっかけてひょいと持ち上げました。
 仔猫を運ぶような動作に抵抗したいけれど、きくにはもう声を上げる体力もありませんでした。

 くたりとぶら下げられて運ばれるままのきくの身体は驚くほど軽くなっていました。
 イヴァンの言うことをちっともきかない生意気な猫を助けてやる義理なんてない、どこかに捨ててやればいい、
 向かうところ敵なしのイヴァンに立ち向かってきた稀有なその勇気と無謀には敬意を表してやってもいいけれど。
 ギラギラとこちらを睨みつけていた瞳は力なく閉じられ、美しい毛並みとしなやかな筋肉に覆われていた黒い身体はみすぼらしく汚れています。
 捨てられた猫の末路なんてそんなもの。きくも放っておけばじきに死んでしまうでしょう。
 このまま放っておけば、二度と生意気な口を利いて歯向かってくることはないのです。このまま放っておけば―――
 この猫が目障りで仕方なかったはずなのに、イヴァンの足は彼の意思とは関係なくお屋敷に向かって歩き出しました。





 雨露をしのげる場所を確保すると、イヴァンは小柄な身体を自分の身体ですっぽりと覆い、一番大きな後足の傷に舌を這わせました。
 膿の匂いが鼻につきましたが、全て舐めとるつもりでざらざらの舌で舐め続けました。
 舌で刺激されて傷が痛むのか、黒い身体がびくびくと跳ねます。
 熱に浮かされ夢うつつのきくはご飯を食べることもできません。
 このまま死ぬのかもしれない、敬意に値すると認めたきくがひとりぼっちでみじめに死んでいくのなら、それを看取るのは僕だ、と決意して。
 イヴァンはきくが目を覚ますまで舐め続けました。





 死神の大きな手はきくの上から去りました。
 目を覚ましたきくは―――猫のくせに人間のように偏食がひどくてイヴァンをてこずらせましたが―――少しずつ回復していきました。
 飼い主の手から貰ったものしか食べないようにしつけられていたきくを、犬みたいだとイヴァンは揶揄しました。
 犬みたい、というのは猫にとっては侮蔑のことばです。
 アーサーさんは必ず戻ってきます!とムキになるきくに、死んじゃったら君のご主人様に会うことはできないんだよ、と告げて
 やっと食べさせることに成功したと思ったら、腐った肉や生肉は食べられないなどと言って、猫のくせにとんだ偏食です。

 それでも毎日のように食べ物を運ぶイヴァンは、ほんの少しだけ、責任を感じていたのかもしれません。
 怪我を負ったきくが他の猫に蹂躙されるのはいやでした。
 イヴァンがいれば不埒な猫が近づいてくることはありません。
 きくは迷惑そうにしていましたが、立ち上がってイヴァンを追い出すほどの力は出ないようでした。

 話してみるときくは驚くほどの温室育ちでした。
 猫のくせに、スズメを眺めてのんびりとくつろぎ、メジロのさえずりに目を細めます。
 一度イヴァンが庭のスズメを狩ったら怒られました。
 これも貴重なタンパク源なのに。

 それでも、お屋敷をほとんど出たことがないきくにいろいろな物を持っていって反応を見るのはなかなか愉快なことでした。
 無愛想なきくは食べ物が絡むと表情がくるくる変わります。
 トカゲやバッタの死骸を持ち込めばこれ…食べるんですか…と顔を引き攣らせ、
 弁当の残飯の塩鮭をやったときはこんな美味しいもの、初めてです!と目をキラキラさせました。
 きくと過ごす時間は思いのほか楽しくて、毎日毎日街外れのお屋敷に通うイヴァンも腑抜けていたのかもしれません。

 その日は美味しい獲物が手に入り、イヴァンは上機嫌で走っていました。
 公園のゴミ箱の陰に落ちていたフライドチキンの食べかけ。生肉は食べられないというきくもこれなら喜んでくれるでしょう。
 これは骨が刺さって危ないので、きくに与える前に警告しなければ。
 そんなことを考えながら走っていたら、つい周囲への警戒をおろそかにしてしまったのです。





 「きくさん!」

 呼ばれてきくは顔を上げました。
 イヴァン以外の声を聞くのは久しぶりです。
 そこにいたのは、目の周りにめがねのようにぶちがある細身の猫でした。
 …たしか、イヴァンの子分のひとりだったはずです。

 イヴァンさんが大変だ、とにかく来てくださいと告げられてきくは久しぶりにお屋敷の外に出ました。
 本当はもう歩くぐらいはできたのですが、ご飯を持ってきてもらうのが楽で、外に出るのが億劫でつい言い損ねていたのです。

 長い間歩くのはまだ辛いと危惧していたのですが、目的の場所には直ぐにたどり着きました。
 それを見て、きくは驚いて固まりました。
 空き地のぐるりの塀にたくさんの猫が鈴なりになって一点を見つめています。
 皆の目線の先では、作業着を着た人間が、イヴァンを針金で縛って袋に押し込もうとしているところでした。
 きくをここに連れてきた猫が言いました。

 「凶暴で人になつかないどころか、人間が飼っているカナリアを殺したりして悪名高い猫を駆除することになったそうです」
 「…助けないんですか…?」
 「どうしてそんな必要がありますか、これで僕たちはあのひとの支配から逃れることができるんです。
  きくさんだって、彼に怪我を負わされて居座られて迷惑だったでしょう?だから、連れてきたんです」

 イヴァンは周囲にいつもたくさんの猫をはべらせていました。
 きくは彼らを仲間だと認識していたのですが、ボス猫の危機にもかかわらず、誰も動こうとはしません。
 動かない子分たちに向かってイヴァンは恐ろしい雄たけびを上げました。
 ギリギリと周囲を睨みつける色素の薄い瞳には憎しみの炎がはっきりと見えました。
 子分の裏切りに対する憎悪、人間に対する憎悪、聞くだけで身体の芯から震えるような恐ろしい声でした。

 もがいてもがいてぱたっと抵抗をやめた、絶望に彩られた瞳を見て、きくは決心しました。

 バリバリッ
 「な、なん…ギャー!?」

 突然顔に黒猫が降ってきたのです。
 イヴァンを戒めていた人間が顔をかばって悲鳴を上げました。
 思わず離した手からイヴァンが詰め込まれたずだ袋が零れ落ちました。
 イヴァンは身をよじって袋から脱出し、ふたりはもつれるように物陰に飛び込みました。
 もう他の猫は信用できません。
 針金で身体が不自由な現状では戦うこともできない、
 不信に満ちて誰も寄せ付けない雰囲気のイヴァンからぶら下がる針金をきくがくわえて伴走します。

 どこを走っているのか、街に慣れないきくにはさっぱり分からなかったのですが、気がつくとふたりはとある建物の前に立っていました。
 イヴァンがにゃーにゃーとひび割れた声で呼びたてると、やがて白い建物の扉が開きました。

 「ん、どうしたの?お前…」

 中から出てきたのはあごにうっすらひげを蓄えた金髪の人間で、きくは知りませんが獣医でした。
 イヴァンの身体に巻きつく針金に気づいた人間は、それを器用に解いてくれました。





 他の猫を避けてふたりはこそこそと街外れのお屋敷に戻りました。
 床下に丸まったイヴァンの隣にきくはそっと腰を下ろしました。

 「はじめて人間に爪を立ててしまいました、ドキドキしました」
 「何であんなことしたの」

 きくは人間の怖さが分かっていないのです。
 網とか、トリモチとか、麻酔銃だって持ってるのに!

 網もトリモチも麻酔銃も分からないきくは困ったように首を傾げました。
 (別に、私のせいで捕まったとか思ってるわけじゃない…ずだ袋の中で、人間への憎しみをギラギラとたぎらせるのかと想像すると哀れになっただけです)
 そう思いながら、何も言わず血の滲む擦り傷をペロペロと舐めはじめました。





 逃げ込んできたものを無碍にしないきくの姿勢は目障りでしかなかったのに、皮肉なことに今はイヴァンを助けていました。

 最近では飼い主以外の人間にご飯を貰うことへの抵抗感も薄れたきくは、お屋敷の門の前にちょこんと座ってじっと人を待ちます。
 お屋敷の門は人間の子供たちの通学路に面していて、たまに学校帰りの子供が食べ残した給食のパンや牛乳を差し込んでくれるのです。
 飼い主に可愛がられて育ってきくは人間が好きで、子供がべたべたと撫で繰りまわしても嫌がらずじっとしているので、子供たちの人気者です。
 イヴァンは人間が嫌いです、中でも子供のことは忌み嫌っています。だから人間に愛想がいいきくが信じられませんでした。
 飼い主に捨てられたのに、それでもまだ人間が好きだなんて!
 アーサーさんを信じていますから、と言うきくの声は平静そのもので、イヴァンをいらだたせました。
 それでもきくは「あなたのためじゃありません、怪我してるものを放り出すのはしのびなかっただけです」と言いながら
 ふさぎこんで丸まっているイヴァンにもご飯を分けてくれました。





 寒風の中に冬の気配を感じ始めたイヴァンがまたお屋敷の外へ食べ物を探しに行くようになって(パンだけでは冬を越すための脂肪分が足りないのです)
 獲得したご飯を分け合うことによって、ふたりの距離はかなり縮まっていました。
 とはいえ、寝床は別です。
 イヴァンは床下、きくは猫用ドアで出入りしてお屋敷の中です。
 夜中に一人で寝ていると、にゃぁー…にゃぁー…と頼りない鳴き声がして、イヴァンはそのたびにイライラしました。
 寂しい秋の夜長には人肌が恋しくなって、きくが飼い主を呼んでいるのです。
 イヴァンはいろいろしてあげてるのにきくはアーサーってやつのことばっかり!
 帰ってきやしないよ!と否定してはきくに悲しい顔をさせてしまい、こんなに待ってるのに何をやってるんだろうときくの飼い主を憎らしく思いました。

 人気のない街外れのお屋敷は冬になればさらに寒くなるでしょう。
 ここで冬を越すのは辛いと思うよ、とイヴァンは忠告しましたが、飼い主を待つきくはここを離れるつもりはありません。

 「あなたまで付き合ってくれなくても結構ですよ」
 「いたいからここにいるだけだよ。うぬぼれないで、別に君のことを心配してるわけじゃない」

 憎まれ口をたたきながらもきくはイヴァンを追い出そうとはしませんでしたし、イヴァンは毎日お屋敷に戻ってきました。





 ついに街には雪が降り出しました。

 きくはひらひらと舞う白い雪を爪で捕らえようとして、捕らえられずに庭を跳ね回っています。
 雪のひとひらに触り、冷たかったことにびっくりして、目を丸くするきくは楽しそうです。
 綺麗ですねー…とぽかんと馬鹿みたいに口をあけて空を見上げています。
 雪が降って、池が凍ったら水の確保にも苦労するのに呑気だね、とイヴァンはあきれました。
 寒さは最大の脅威です。
 このまま寒くなったら、太陽が照っている昼はいいとして、夜になれば凍死の危険もあります。

 きくは、いつものように冷たい土からの冷気が上がってくる床下にもぐりこもうとしたイヴァンに声をかけました。

 「あがったらどうですか」
 「…いいの?」
 「アーサーさんの庭で凍死されたら気分が悪いじゃないですか。あなたの重い図体を引きずってどかすのも、死体を庭で朽ち果てさせるのも、いやですよ私は」
 「うん、じゃあ、お邪魔するね」

 ずいぶんな言いようでしたがイヴァンは気にしません。
 言葉はきつくても、イヴァンが凍えてはいけないと心配してくれたのでしょう。
 猫用ドアは規格外サイズのイヴァンにはきつく、ギリギリでしたが苦労して何とか通り抜けました。

 きくの寝床にはラグが集められ暖かいようにしつらえられていました。
 少し離れたところに腰を下ろしたイヴァンはちらちらときくを見てはそわそわしています。
 寝床に収まったきくの身体がかくかくと小刻みに動いているのを見て、イヴァンは遠慮がちに声をかけました。

 「ねえ、そっちに行ってもいい?」
 「勝手になさい」
 「うん、勝手にするね」

 突き放したようでも別に嫌がってるわけじゃない、その証拠に黒い尻尾がくるんとイヴァンの尻尾に絡まって、歓迎してくれました。
 そもそもいやだったら容赦なく猫パンチが飛んでくるはずです。

 「イヴァンさん、あったかいです…」

 ほう…ときくが詰めていた息を吐きました。
 本当は凍えていたのでしょう、尻尾がまだ少し震えています。

 (きくくんは意地っ張りだな)

 意地っ張りも可愛らしく思えて、イヴァンはふふっと肩を揺らしました。
 寒いなんて一言も言いませんが、小柄な身体には冷気が殊更こたえるのでしょう。
 さんまわりも大きな身体で冷気をさえぎるように寄り添うと、きくはおとなしくイヴァンに身を寄せました。
 素直な態度に思わず、ごろごろ、ごろごろと勝手に喉が鳴ってしまいます。

 イヴァンの長く柔らかい毛は日々の暮らしの中でもつれて絡まっています。
 それをきくが手慰みに梳きはじめました。
 目の前に毛玉があると汚らしく見えて気になるのだといいます。

 「ほう…長い毛と短い毛が生えてるですね、二重になっててあったかそうです」
 「僕の先祖はね、ここよりずーっと寒い北の国の森の中で暮らしてる猫だったんだって」
 「だからこんなにふかふかなんですね…」

 至近距離でほわんと笑われて、イヴァンは急に身体がぽかぽかしてきました。
 (え?え?何これ??)
 暖を求めて、すり…と寄ってこられるとドドドドッと全身に血液が駆け巡ります。

 顎のすぐ下にある小さな身体からぷんと甘酸っぱい匂いがただよいます。
 そういえばここはきくの寝床なので、きくのにおいが染み付いています。
 きくの匂いに包まれていることに気付くと、もう平静ではいられません。

 変な声が出てしまいそうでイヴァンは口をつぐみました。
 きくが大怪我を負って寝込んでいたときに包むように暖めたことだってあったのに。
 あのころと同じように接することはできそうにありません。

 「き、きくくん、あのね…、もっと、近づいてもいい…?」

 これ以上どうやって近づくというのでしょう。
 興奮で体温が上がるとイヴァンの匂いが強く香り、きくはいぶかしげにイヴァンを見上げました。
 きくのお月様みたいな瞳にイヴァンの情けない顔が映っています。

 (あ、もう、だめ…)

 イヴァンは、無防備に晒された首筋にガブリ、と噛み付きました。










 春になり、アーサー・カークランドは約半年ぶりになつかしの我が家に戻ってきました。
 庭のバラたちにも、預けていた愛猫にも半年振りの再会です。

 半年前には確かにきれいにしていった玄関ドアの横の猫用ドアが汚れているのを見たとき、アーサーは蒼白になりました。
 取り返しのつかない忘れ物に気がついたのです。

 (ペットシッターに、菊のことを頼むのを忘れてた…!)

 可愛い菊に、すぐ帰ってくるから待っててくれよな、と言い置いて屋敷を出たとき、菊は玄関に座ってにゃーん、と行儀良く返事をしていた気がします。
 つまり誰にも預けられることなく。

 アーサーはかねがね、自分の忘れ物癖の酷さに頭を抱えていましたが、これは取り返しがつきません。
 菊は生まれたときから飼い猫で、アーサーが自分以外からはエサを貰わないようにしつけました。
 菊はアーサーの言葉を信じてこの屋敷で待っていたに違いないのです。

 最悪の事態を想定すると、玄関から先に足を踏み入れるのが怖くて仕方ありません。
 自分の忘れ物癖が招いた悲劇を突きつけられるのですから。
 しかし飼い主の責任として見届けないわけにはいかない、しばらくためらってぐずぐずした後、アーサーは屋敷の中へ歩み入りました。

 菊の寝床は居間にしつらえてありました。だからいるとするならば居間にいるはずです。
 居間の冬暖かい暖炉のそばが菊のお気に入りでした。
 アーサーがソファに座るとすたっと隣に上り、アーサーが許可を出すとひざの上に載ってごろごろと行儀良く甘えたものです。
 菊との思い出を反芻すると悲しくなって、勝手にぼたぼたと涙がこぼれました。

 (ん…?)

 ふと何かの気配を感じてアーサーは涙をぬぐいました。
 (ま、まさか、きくのゆうれ…馬鹿!まだ死んだと決まったわけじゃねえ!何縁起でもないこと言ってんだ俺!)
 心の中で馬鹿なことを言いかけた自分をなぐりつけながら、恐る恐る居間を覗くと、そこには―――





 みゃぁー、
 みゃぁー、

 にゃおーん!

 「き、きく…?」

 半年ぶりの懐かしい黒が、喜びの声を上げました。
 でも飛びついてはきません。
 なぜって、黒猫のおなかには乳を吸う仔猫がしがみついていたのです。

 恐る恐る近づくと、菊は警戒する様子もなく、アーサーが差し出した指をペロペロと舐めました。
 ごろごろと甘えて喉を鳴らします。

 「菊、良かった、生きてたのか、ごめん、ごめんな、本当に良かった…!」

 アーサーの目からぼたぼたとまた涙が止まらなくなりました。
 伸び上がってアーサーの涙を舐め取ることができない菊はペロペロと指を舐め続けます。

 フシャーッ
 「え…?うわ…!」
 にゃー!

 猫の威嚇音、続いて肩に衝撃が。
 菊が怒りの声を上げました。
 菊よりさんまわりは大きい、不思議なぶち模様の毛足の長い猫が、アーサーに突進してきたのです。
 まるで菊と仔猫たちを守るかのように。
 それでアーサーにはこの巨猫が菊のつがいで仔猫たちの父親だということがわかりました。

 「え、ねこ、だよな…?」

 と思わずつぶやいてしまうほど巨大な猫ですが。
 この猫が、アーサーに代わって今まで菊を守ってくれたのでしょう。
 菊はアーサーにべったりと懐いていたので、恋人を取られたような喪失感は否めませんが、
 おかげでこうして再会できたのですから感謝しなければなりません。

 アーサーはじーっと巨猫を観察しました。
 人間を警戒して猛獣のように牙をむき出しています。正直いって怖い。
 そもそもアーサーは猫が嫌いです。
 菊は犬のように行儀がいいので例外ですが、猫なんて、庭の草花を荒らすばっかりで、乱暴だし、所構わず盛ってうるさいし…、
 …はっ!まさかこいつ、おとなしい菊を、てご、手篭めに…!?

 「だああー!やっぱり認めんー!」
 にゃあー!?
 フギャーッ!

 街外れのお屋敷の騒がしい春はいま始まったばかり。










猫パラレルでしたー!そして実は女体化でした。にょたといっていいのか迷ったので表記しなかったんですけど…けも化のうえににょた化…あいすみません。
猫らしく通常露日よりツンで高飛車で甘えっ子です(当社比)きくねこさんの態度がぞんざいですみません。意外とめろめろで貢ぎまくってるイヴァねこ…!(微笑)
あっと…どうでもいいことですがきくねこさんは黒い和猫(多分1歳)でイヴァねこさんは骨太で露様にピッタリだとご推薦があったのでサイベリアンの5年ものです。