■黒い瞳




 女は、膝の上に頭を置いて舌足らずに話す大男の金髪を、白い指で優しく梳いていた。優しい感触に許されていると感じ、男は気持ちよさそうに目を細める。すっかり大きくなったのに、中身はいつまでたっても子供のよう。守って、育てていかなければ。もっと大きく。誰に攻められても倒れることのないように。夫との不幸な結婚生活を埋め合わせるかのように女は男を育てることに全精力を注いでいたから、懐かれるのも道理かもしれなかった。
 男は自分を導いてくれる者を求めていたけれど、それと同じくらい、管理されることを嫌っていて、しょっちゅう南へ旅していた。この地の冬は長く厳しい。暖かな太陽や、凍らない海は彼らの共通の憧れだった。高い地位にあって自由にさすらうことができない女は、男の口からどこへ行き何を見たのかという話を聞くのが好きだった。
 このたび男はラッコを追って凍土を東進し、帰ってきたところだった。果てしなく続く凍土の向こうには凍らない海があると聞いて、海を愛する女は心躍らせていた。
 「僕、気になる国があるんだ」
 男がぽつりと言った。
 「凍らない海の向こう側か?」
 「うん、陸地の縁まで辿りついて、東に行くと新大陸があるんだけど、南に行くと帯みたいに島が続いててね、でね、その向こうには日本があるっていうんだ」
 「日本…黄金の国か」
 「だけど、だけどね、島には靄がかかっていて、その向こうはちらちらとしか見えないんだ」
 「そうか…黄金が欲しいのか?」
 女の問いに、男は頭をゆるく左右に振った。
 女は男の淡い金髪に指を絡ませた。さらさらとした感触は猫を撫でているよう…いや、膝にかかる重みを加味すると、もっと巨大で獰猛なライオンを飼いならしているようだった。彼女の前任者や彼女が育ててきた証明がこの重みならば、ずっしりとした重みも愛しい。黄金よりも、この髪色のほうが魅力的だと思った。綺麗な髪だ。彼が愛する太陽よりは淡い…月の光のように輝いている。
 「霧の向こう側にいたんだ。真っ黒い瞳で僕を見てた。とっても小さくってね、可愛らしくて…中国君にちょっと似てたから、親戚なのかも」
 膝の上に乗せた頭の向きを変えて、男は女を見上げた。夢見るような湖色の瞳が、奇妙に揺らめいている。
 「だけどね、捕まえようとすると、いつも蜃気楼みたいに消えてしまうんだよ」
 本当に僕と同じ国なのかな、まぼろしなんじゃないかな…と呟いている。
 男が国を“欲しい”ではなく“気になる”と表現するのは初めてだった。
 寒さから逃げるように男はたくさんの土地を旅して勢力圏を広げてきた。男が欲しがるままに女はあるときには戦争までして土地を獲得した。けれど彼女の敵はいつも陸地の上にはっきりと姿を現していて、男は目の前に見えている土地を国を無邪気に欲しがるだけだった。
 白い霧の中に、ぬばたまの髪が浮かび上がっていたのだという、黒い瞳の中には消えない炎が燃えているのだという…太陽への憧れを歌うときみたいにうっとりと日本を詠っている。
 「ねえカチューシャ、軍隊を貸してよ」
 「…ロシアはその国を征服したいのか?」
 違うのだろう?そう思って問うと、男は戸惑ったようだった。男は国に対して征服する以外にどうしたらいいのか知らないようだった。
 「…分かんない…だって、まだ話したこともないんだよ?」
 「ロシアはその国と仲良くなりたいのだよ」
 教えてやると、そうなの?と目をぱちくりさせた。
 「仲良くなりたいのなら、優しく接するがよい。乱暴にことを進めたら、逃げられてしまうよ」
 自分で思っている以上に大きくなり、力も強くなった男は、南に少し進んだだけでも周囲の国から恐れられた。中身は無邪気な子供のままなのに。不器用な子供が可哀想で愛しくてならない。男は女よりずーっと長く生きているから、子供という言葉はふさわしくないかもしれない。にもかかわらず子供のようだった。女は男に比べるとあっという間に年を取ってしまう。いつまでも寄り添っていることはできない。男を支配する帝たちは、いつもよき伴侶であるとは限らない。周囲の国から恐れられ、帝に恵まれなければ、国は孤独だ。
 仲良くなれるといいな、と言い聞かせると、男は素直にうなづいた。

 女が書いてやった手紙を携えて男は再び東へ向かった。
 そして思ったより早く、男は帰ってきた。
 帰ってきたと思ったら、女の胸にうわああんと飛び込んできた。
 「カチューシャ〜!」
 ああ、これはうまくいかなかったのだな、人間の男女と同じで、そうそうすぐに誠意が通じるものでもないか…女はやれやれと眉を下げた。
 中国から聞いた話によると、日本は鎖国していてごく限られた国とだけ国交を結んでいるのだそうだ。中国は韓国や日本の保護者を自任していて、日本のことを聞いたとき、えらく警戒していた。眠れる獅子に大事に守られた箱入り娘というところか。男が乱暴なところを見せなければ、よいところをきっと分かってくれると思うのだが、会話するまでが難関だろう。
 男によると、靄をかいくぐってクナシリまで行き手紙だけはどうにか言付けたものの、にべもなく追い返されたのだそうだ。
 ひとしきり嘆いたあと、男は子供のように頬をふくらませた。
 「フラレた…やっぱりぐんたい…」
 言うに事欠いてそんな解決方法を求めるから、女は思わずどやしつけた。
 「一回フラレたぐらいで何だ、情けない!男なら何度もしつこく食い下がるものだ!」
 「は、はぁい…」
 夫との結婚生活に早々に見切りをつけた後、女は数々の恋愛遍歴に生きている。難攻不落の相手を落としてこそ男だろう!という女の勢いに、男は目を丸くしてただコクコクとうなづいた。

 その後も男は何度か日本に向かった。今までから見ると驚くべき辛抱強さで、乱暴にことを進める事をしなかった。日本も少しずつ、近づいてくれていたようだった。しかし濃霧に阻まれて会うことはかなわなかった。結局はかばかしい成果を上げることはできないままに、そのうち彼らはアラスカやヨーロッパの方で忙しくなり、しばらく日本に関わることができなくなった。



   ■   ■   ■


 
 男が再び東に目を向けたとき、不愉快な事実を知ることになる。イギリスやアメリカが、クジラを追って日本に近づいていたのだ。
 北太平洋はいわばロシアのシマだ。男はあわてて独占権を主張しようとした。もう一度あの黒い瞳と会うために、靄を避け、迂回して南から日本に辿りついた。何度突っぱねられても怒らず、恐るべき辛抱強さで食い下がり、長い時間をかけて解きほぐしてきたのだ。それを横からさらわれてはたまらない。だが男は思わぬ出迎えを受けることとなった。
 港に降り立つとすぐに奉行所に連れて行かれたのだ。
 男は目の前にある大きな格子をぽかんと見つめた。何で閉じ込められているのか分からない。わが国は外国との通商を受け入れない、の一点張りで、日本と会わせてもらうこともできない。最近外国の連中が日本に近づいてくるから、警戒して都にかくまわれているんだそうだ。手に入れられる日本の土地は目の前にあるのに(思ったとおりの暖かい土地だった!)、会いたい日本はいない。ひどいよ、ひどいじゃないか、こんなの。今は亡き女帝には、仲良くなりたければ優しく振舞いなさいと教えられた。でも相手にその気がないときはどうしたらいい?
 牢から出されて港から追い出された男は、その足で北に向かった。腹立ち紛れに北の番所をめちゃくちゃにしてやった。

 それからしばらくの間、男と日本の間には静かな火花が散っていた。女のいうとおりだった。乱暴にことを進めてしまったせいで、いったん近づきかけた日本との間はまた遠のいてしまった。男は悲しかった。別にみんなに開国しろなんていわない、ただ僕と仲良くして欲しかっただけなのに。
 せめて、日本が他の国にも同じように冷たく突っぱねていることに、慰めを見出すしかなかった。小さな身体で気の強い日本は、イギリスにまでケンカを売ったらしい。大丈夫かな、とハラハラしながら彼の動向から目が離せなかった。
 そのうち、アメリカが本気で日本に開国を求めるため軍艦を率いて日本に向かうつもりだという話が聞こえてきた。
 なんてこったい!
 男は天を仰いだ。長い時間をかけて解きほぐしてきた仲は、男の不用意な行動で遠のいてしまったけれど、あの若造に先を越されるのは我慢ならなかった。自由と資本主義の使者として日本に恩寵をもたらすのだと言いながら、不遜な若者は、軍艦で威して日本の意思など無視するんだろう。
 初めに彼に目をつけたのは僕なんだよ!男はいてもたってもいられず、日本に向けて旅立った。

 今度は都のすぐそばの港に寄港した。ここは開いてないと知っていたが無理やり乗りつけた。どうしてもあの黒い瞳に会いたかったから。ここなら都から出てきてくれるかもしれない。
 男の思惑通り、日本はやってきた。周囲は靄がかっていずはっきりした視界で、部下や国民を介してでなく、直接会うのは初めてだった。霧のヴェールを取り払うと、日本はただ小さかった。それが申し訳なさそうにちょこんと座って、国交を結ぶことはできないんです、と恐縮しきりに謝った。他の国の方には出て行ってもらうんですけど、ロシアさんとはずいぶん行き違いがあったようなので、一度きちんとお目にかかりたかったんです、ポツリポツリと話す日本は思ったより怒っていなかった。国交の話を持ち出すと、お茶でもいかがですかとはぐらかされるのには閉口したけれど。
 競争相手がいることで急ぐ話だったが、こうして彼と穏やかにお茶できるのは嬉しい。仲良くなりたければ二度と乱暴な手段で言うことを聞かせようとしてはいけない。そう思って男は出されるお茶に律儀に付き合った。ここまでじっくり解きほぐしてきたんだから、最後まで付き合おう、まさか僕が来てるのに、アメリカと先に国交を結ぶことなんてないだろうと安心していたこともある。

 ところが。
 そのまさかが起きたのだ。

 うそつき、と呟く男から日本は目を逸らした。
 だが男は日本のことをそしったわけではなかった。僕は言うことを聞いて優しく接していたのに、結局日本は乱暴にことを進めたアメリカと友達になったじゃないか!と今は亡き女帝を罵りたかった。
 ロシアに対して日本は恐縮しきりだったが、開国自体は大変不本意なことが見て取れた。静かな生活が乱されることにも、それが脅迫まがいの(というより脅迫そのもの)やり方で行われたことにも内心腹を立てていた。
 「こうなった以上、僕とも国交を結んでくれるよね?」
 男は不遜な若者のように脅迫まがいのやり方をする気はなかったが、これ以上焦らされるなら考えを改めなければならなかった。日本は案外さっぱりした顔でうなづいた。
 「そうですね…あなたとは、いいお友達になれたらいいと思ってるんです」
 日本はアメリカと通商を結び、親切にせざるをえないだろう。だがそこに好意はない。そう思えば、順番が狂ったことも許せるだろう。そう思いなおして、男は日本と握手を交わした。まぼろしでない日本は小さく頼りなく、黒い瞳は鈍く光を吸収するだけだった。



   ■   ■   ■



 キン!
 金属がぶつかる硬質の音がした。
 目の前には真っ黒い瞳。

 男は目の前で繰り広げられた神技を、驚きの目でもって見た。
 男が構える銃の先では、刀を構えた日本が肩で息をしながら立っている。絶好の位置。だが銃にはもう弾が残っていない。
 先ほど、最後の一発を斬り伏せられたところだった。火薬の力を載せ猛スピードで飛んでくる小さな鉛玉を捉え薙ぎ斬る技量も凄いが、熱い弾丸を斬って刃こぼれ一つしない刀も凄い。先に手持ちの弾を撃ち尽くした日本は銃を捨て、刀を取った。もはや旧式の武器しか残っていず、もう彼にできる手立てはないのだと男は勝利を確信していた。ところが、日本は男が撃った弾丸を全て空中で斬り落としてみせたのだ。神がかった技量によってついに銃はただの金属の筒と化した。
 銃が発明されたとき、ヨーロッパでは剣は時代遅れの武器になったはずだった。だが、違う世界からやってきた日本は刀によって銃を無効化してみせた。すごいな…、男は感嘆のあまり呟いた。戦いの最中だというのに、日本には感心させられてばかりだ。目の前の銃身がぶれる。内側からくる震えは恐怖のためではない。
 真っ黒い瞳が正面から男を見据える。今このとき、他のどんなときよりも情熱的な目をしていた。白い霧のヴェールの向こう側から男を見ていた、黒い瞳の中に燃える炎はまぼろしではなかったのだ。
 ああ、ゾクゾクする。他の誰とも違う、日本が与えてくれるものは最上だ。殴られたわけでもないのに、鼻の奥にツンと鉄さびの匂いがして、男はさらに興奮した。
 銃身を握り締め、振り上げる。銃は無効化され、もっとも原始的な武器となった。もともと男も日本も銃をそれほど好まない。こちらの方が彼らが雌雄を決する勝負としてはふさわしい。
 一撃で馬の首を落とすほどの打撃にも日本はよく耐えた。棍棒のように振り下ろした銃は、日本刀の真ん中あたりで喰いこみ、留まった。日本刀は世界でもっとも硬い鉄なのだという。それを日本が扱うことによって最強の武器の一つとなっている。しかし互いの武器に力を込め相手をねじ伏せようとする単純な力比べでは、日本の分が悪い。押すことも引くこともかなわず、日本はついに刀を手放した。
 たたらを踏む男の視界の隅では、日本が受身をとってすばやく体勢を立て直していた。男は、銃と刀が噛み合ったまま解けなくなった物体を投げ捨て、拳を固めて向かい合った。
 男はすでに何発か撃たれていて決して無傷ではなかったが、不思議と痛みを感じなかった。ただうっとりと戦闘の興奮に酔いしれていた。頭の芯がしびれて日本以外何も見えない。この瞬間、男は彼らを縛るしがらみを全て忘れた。この世界にはに彼ら二人だけで、神代から永遠に戦い続けているような錯覚を覚える。彼を倒せと叫び全身の血が沸騰する。決して彼を滅ぼしたいからではなく。かなうことならば、いつまでも戦っていたい。

 君を僕の一部にしてしまいたいと思う、けれど、君が僕の一部でなくてよかった。こんな感情は知らない。生きていれば教えてくれたであろう女はとっくに天に召されている。
 力任せに僕の一部にしてしまっていたら、こんなふうに殴り合うことはなかったに違いない。男は今こそ女に感謝した。






日露の接点である千島列島は霧深い地だそうで
「ロシアにとって日本は霧のかなたにあって近づこうとすると蜃気楼のように消えてしまう国」
との文章があって大変萌えたので思わず書いてみました。
カチューシャというのはロシアのポピュラーな女性名エカチェリーナの愛称です。
乗馬姿の凛々しい肖像画が有名なあのお方です。
ロマノフ朝の系図には結構女帝が多いのですよ。おロシア様は女帝と相性がいいと思うのです。
というか、女帝に甘やかされてる露様は可愛いと思うのです…!(興奮)
そんな萌えもブチ込んでみたものの着地点を見失いました。
『黒い瞳』というロシア民謡があるのですが、日本君のことだよね!と思ってしまったので混ぜ込んでみました。
ところで、日本君との戦闘で興奮のあまり鼻血を出してしまう露様は子供みたいで可愛いと思うのですが…!(変)

―――現在の萌えを全てぶち込もうとすると収拾がつかなくなるといういい見本ですね…。