ロシアは視線の先で、小さな背中が歩いているのを見つけた。
 「日本くーん」
 動いているものに飛びつく猫のように反射的にロシアは動いていた。背後から、がばっとヒグマのように襲い掛かった。太い腕と胸板で挟まれて小さな身体がキュウと鳴る。こうして背後から抱き締められるのは一番無防備な背中を見せるということで大変な恐怖を感じるらしく、日本はものすごく嫌がる。必死で振り払う。嫌がられると分かっていても(むしろ嫌がる反応が面白くて?)ロシアはついつい背後から抱き締めたがった。

 ところが。

 「なあんだ、ロシアさんですかぁ」
 今日の日本は柔らかく微笑んで振り返った。
 「ロシアさんは大っきくていいですねぇ、うらやましいです」
 ほにゃ。周囲で花でも散ってそうな気の抜けた笑顔を浮かべている。

 何?
 何かの罠なわけ?

 思わず固まったロシアを上目づかいで見上げて日本は可愛らしく首をかしげた。
 「どうしました?」
 「君こそどうしたの…?」
 刀を向けられたときよりも警戒して日本を観察する。
 「えー?どうもしませんよぅ」
 にこぉー。
 万事に控えめで感情をあまり表に出すことをしない日本が笑っている。ましてやロシアには決して向けられることのない笑顔が目の前で輝いている。さらさらの黒髪からは珍しくも寝癖までが楽しそうにぴょこんと飛び出している。
 落ち着かない。日本にそんな気分にさせられることが腹立たしくて。
 「何なのさ、こんなものまでつけちゃって」
 手持ち無沙汰にくるんとした寝癖の髪を引っ張ると日本はびくっと身をよじった。
 「ふぁっ…」
 「え?」
 「あ…やっ…やめてくださっ…」
 くるくると黒髪を巻きつけた人差し指の先で小さな身体が震えている。頬は上気し小さな唇からは熱い息、黒い瞳は潤み、胡乱な色を帯びて見える。この様子はまるで―――
 (…面白い!)
 あ、やぁん…とけしからん具合に身をよじる日本を眺めながら、ロシアは好奇心という名の知的興奮に目を輝かせた。

 「ねー日本君、僕んちに遊びにおいでよ」
 普段の日本なら絶対に首を縦に振らないだろう。こちらをまっすぐにらみつけて、何をたくらんでいるのですか?と低い声でうなる。最悪、刀との銃撃戦に至ることもある。
 しかしこの、彼の同盟国である某国を思い出させる状態の日本は、ロシアを威嚇することなく、ただ困ったように眉尻を下げた。
 「えっでもぉ…ドイツさんに怒られちゃいます…」
 某国みたいにドイツの影が射している。そこに引っ掛かりを覚えながら、某国ならば有効な対処法を提示してみた。
 「おいしーピロシキがあるんだよ」
 「えーピロシキー」
 食べ物で釣ってみると、日本は目を輝かせた。

 (本当に、どうしちゃったの、日本君…)

 太い腕に腕を絡ませてぶら下がりながら、ぴろしきー、ぴろしきーと喜びの声を上げている日本。日本は小柄だから腕がしびれて重いということはないけれど、不思議な気持ちになる。戸惑った気持ちをぶら下げたまま屋敷に戻り、扉を開けると、中で揃って立っていた三国がぴし、と固まっていた。
 「お客さんだから、お茶とピロシキ出して」
 え?あ?え?にほんさん…!?と騒ぐ部下が煩わしい。説明する気もなくさっさと通り過ぎ、寝室と続きのごく私的な客を招く部屋に日本を連れ込んだ。

 じきにリトアニアが紅茶と山盛りのピロシキをもって入ってきた。おそるおそる…という感じでお茶の支度をし、日本にちらりと目を走らせ、ロシアの表情を伺って、あわてて扉のそばに控えた。聞きたくてたまらない、が、怖くて聞けない、という表情を浮かべている。
 いいから出てって、と部下を下がらせ(別にいたっていいんだけどね)ピロシキを与えて日本の観察を再開した。
 日本の手には余る大きな茶色い塊にかぶりつきながら、幸せそうな笑顔を浮かべている。もぐもぐもぐ、ごくん。小さな口で少しずつかじり律儀に咀嚼して飲み込んでいく。リスみたいだな。
 「おいしい?」
 「はい!」
 さっきまでドイツさんに怒られます、といってシュンとしていたとは思えないすごくいい笑顔。あまりにいい笑顔を見ていると、ワサビ入りとか用意しておけばよかったかなとちらりと頭をかすめた。
 ロシアはピロシキに手をつけず、紅茶を舐めた。カップ越しに眺めると、日本の口元が汚れていることに気付いた。
 「あーあ、口にカスがついてるよ」
 「あ…」
 反射的に(弟妹がいたわけでもないし、子供なんか嫌いなのに)手を伸ばしてカスを取ってやると、日本はポッと顔を赤くして、えへへ、と笑った。
 「ありがとうございます」

 その瞬間、

 (あれ?)
 ロシアは自分の中に生まれた感情に戸惑った。

 欲しくてたまらなかった国が、こんなスキだらけで転がってるのに、妙にイライラするのは何でだろう。

 ボーン、ボーン、ボーン…

 柱時計が三時を知らせて鳴いた。

 「あっ」
 今までぽややんとしていた日本が突然俊敏な動きで立ち上がった。
 「大変、シェスタの時間です!」
 「えっまさか…」
 ロシアの前で日本は着衣を脱ぎ捨てた。見たこともない日本の裸がぺたぺたと目の前を横切る。何の遠慮もなく寝室のドアを開け、それから気がついたようにロシアを振り返った。
 「ロシアさんも一緒にシェスタしましょうよー」
 人懐こくロシアの腕に手を添えて、誘いをかけてくる。ロシアの白皙の肌とは色味の違う、黄色みを帯びた肌色が腕にしなだれかかると、別の誘いをかけられているような錯覚を覚える。
 真面目一徹で堅苦しい日本のあまりの変わりように今更ながらめまいを感じた。
 「…僕、眠くないから」
 やっとのことで言ったのに、日本はめげずに尚いい笑顔になった。
 「そんなこと言わないで、気持ちいいですよぉシェスタ!」
 裸の小さな身体に絡みつかれて寝室に引っ張り込まれた。

 何?
 何なのこれ?

 天蓋つきの大きなベッドで真っ白いシーツに包まれて眠る日本。の隣で何とか脱ぐことを回避したロシアは、幸せそうな寝顔を見下ろしながら、かつてない敗北感を味わっていた。
 別に日本は勝ったなんて思ってないだろうけど。
 (負けっぱなしなんて癪に障る)
 少し考えて、枕元の電話を手に取り、ダイヤルを回した。







 ドタドタドタ…!
 凄まじい足音を立てながら何かが寝室に近づいてくる。たぶん電話をかけた相手だろう。部下達では本気を出したあの男を足止めすることは不可能だが、別に足止めすることは期待していないからかまわない。ロシアは寝室の扉が開くのを待った。

 「にほーん!!!」

 バターン!!

 ドアを蹴破って人型をした嵐が飛び込んできた。美しい装飾を施された扉が無残に砕ける。闖入者はドアを蹴破った形のままベッドの上を見て固まった。
 「やあ」
 無礼な闖入者に向かって、ご丁寧に手をあげて挨拶をしてやると。
 闖入者―――ドイツは石化から立ち戻って、ロシアにつかみかかってきた。

 「ロシア貴様ァァ日本に何をしたッ!?」
 いつも冷静なドイツが青褪め、涙目になっている。

 無理もない。
 ベッドの上には裸で幸せそうに眠る日本と裸のロシア。

 「さあね?こんな無防備な状態で置いとくのが悪いんだよ」
 「ろっ…」
 絶句するドイツ。
 (箱入り娘のパパも大変だなあ)
 ドイツの狼狽ぶりにロシアは大いに溜飲を下げた。

 「もう用はないからさっさと持って帰ってよ。このまま置いてってくれるなら、それでもいいけど」
 「…ッ…」
 ドイツはあわてて日本の周囲のシーツをかき集め、日本をくるんで抱き上げた。もう一刻もこの男のそばには置いておけないと、ロシアをにらみつけてくる。それこそ娘をあやす父親みたいに、大事そうに抱き上げられる間も日本は眠り込んだままだ。
 「失礼する!」
 日本をかばうように背中を丸め、蹴破ったドアをまたいで出て行くドイツの背中に言葉を投げつけた。
 「さっさと元の攻略し甲斐のある日本君に戻してよねー迷惑なんだから」
 「何故俺の責任になってるんだ…」
 「どうせ君らの暢気な同盟国のせいなんでしょう?連帯責任ってやつだよ」
 ドイツはぐ…とうなり、背中を丸めて出て行った。







 この騒ぎにも目を覚ますことなく、腕の中で幸せそうに眠る日本を見下ろして、ドイツはちょっと泣きそうだった。

 やはりイタリアのせいだよな?イタリアのせいなんだよな!?この事態は、同盟国としてイタリアを紹介した俺の責任で…、つまり俺のせいで…にっ…にほんのていそうがっ…!

 自国内に保護しておいたはずなのに、目を離したスキにいなくなった日本がまさかロシアにいるとは思わなかった。ロシアから連絡を受けたときには肝がつぶれた。裸で寄り添っているのを見たときには、純粋な日本が取り返しのつかないことになってしまったとその場にくず折れそうに…、

 …いや待て。よく分からないが、そういう事態に陥った奴がこんなに穏やかな顔をして眠れるものなのか?

 腕の中のぬくもりをよいしょと抱えなおすと。日本は何事かむにゃむにゃと呟き、ドイツの肩に頬をすり寄せてきた。幸せそうな寝顔を見ているだけで、こちらの胸まで温かくなる。
 何を考えているかよく分からない国。それが初めの印象だった。尊敬の念を向けられくすぐったさを感じ、イギリスの同盟国として敵対したときには刀の一閃で潜水艦を沈める強さに畏怖し、自国の捕虜への取り扱いに感謝し、これが味方ならばどんなに頼もしく心強いことだろうと思い、それがかなって同盟を組んだときの喜び!安心して背中を任せられる同盟国というのはいいものだと思っていたら、思いがけない世間知らずの純真ぶりにあわてさせられたり。
 今度のイタリア化だってそうだ。しっかりしているかと思えば、イタリアなどに染まって…、ドイツは再びがっくりと肩をうなだれた。
 そ、それが、よりによってロシアに…てってててていそうを…!
 思考は結局そこに戻る。
 疑惑があるならば確かめればよいのだ。日本を覆っているシーツをはいでひっくり返して見れば分かることだ。しかしそんな簡単なことがさっきからどうしてもできなかった。

 確かめるべきか?
 その結果大変なことになっていても、なっていなくても、何か大切なものを失ってしまう気がする。
 ならばそっとしておくべきなのか?
 しかし日本がこうなったことの責任の一端を持つ者として、それは無責任なのではないだろうかっ…!?

 ドイツの苦悩は続く。






おロシア様はきっと簡単に攻略できる日本には興味ないと思うので、たぶん大丈夫…?(汗)



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