わりと長いです…(汗)





■1949







 日本は豪奢な建物を前に途方にくれて立っていた。
 (うう…この国はやっぱり苦手です)
 ロシアの屋敷はキンキラキンと輝き、“紙と木で出来た”と称される日本の家とはまるで違う。こんなところに住んでいたら目がつぶれてしまいそうだ。しかしひるんでいる訳にはいかない。全ては国民のために。そのためにアメリカ占領下の自国から無理をして北の地までやってきたのだ。

   ■   ■   ■

 対ロシアで日本にとっての気がかりは、踏みにじられた約束よりも、奪われた北の地よりも、国民のことだった。ロシアによって連れ去られた国民を取り戻すために、日本はまず現在の実質的な上司であるアメリカに頼んだ。珍しい日本からの頼みごとにアメリカは喜び、任せてくれよ!と力強く請け負った。しかし―――
 『全然話にならないよ!俺は精一杯説明してきたんだよ、君のしたことは犯罪だって!日本はとても悲しんでるって!そしたら何て言ったと思う!?何でそれを日本君が言いに来ないのって!日本は占領下で勝手に動けないって知ってるくせに無理難題言って…』
 というアメリカの言い訳を聞きながら恥ずかしくてカッと頭に血が上った。国は国民のために動くものなのに、何で君はそうしないのかとロシアに指摘されたように思う。敗戦してから、何もかもアメリカに任せきりにして、どうやら心まで鈍っていたようだ。ロシアからの宣戦布告か?いいだろう、まだ私の戦いは終わっていなかったようだ。
 『アメリカさん』
 顔を上げた日本は瞳に強い光を宿していて、アメリカは嫌だな、と反射的に思った。
 『私が参ります』
 ロシアの方から日本の国民を返しに日本に赴くことなどありえない。また自国内にアメリカを立ち入らせることもないだろう。では、日本が一人で乗り込むしかないということだ。
 アメリカは危ないよ!と眉根を寄せた。
 『でも日本、相手はロシアだよ?怪我だって治っていないのに…』
 『私が行かねばならないのです』
 アメリカは日本を重篤な病人のように扱って(実際まだ怪我は完治していないのだけど)外に出したがらない。アメリカはロシアを警戒していた。日本は知らなかったが、日本が意識を失っている間、彼らは水面下ですさまじい争奪戦を繰り広げていた。ロシアは日本を迎え入れたらそのまま帰さないかもしれない。けれど連れ去られた日本の国民を取り戻せなかった以上、強く反対することはできなかった。
 『国民の皆さんを守るのは私の責任です。それを止めるというのなら、いくらアメリカさんでも…』
 黒い瞳の照準をひたと合わせて日本はアメリカの目を真正面から見据えた。
 思う様蹂躙されて従順になった日本にも、譲れない線はある。それを尊重しなければ、今まで大した反抗もせずに従ってくれていた日本は折れた牙を向けてくるだろう。今度は殺してしまうかもしれない。アメリカはもう二度と日本と戦いたくなかった。
 日本がロシアへ行く許可を与えざるをえなかったアメリカは、何かあったらすぐに突入するからね!第三次世界大戦になっても君を助けに行くから!としがみつかんばかりの勢いで宣言した。

   ■   ■   ■

 ようこそ!とロシアはヒグマのように襲いかかってきた。いや違う、諸手をあげて歓迎しているのだろうが一瞬ひるむ。そのまま腕の中に閉じ込められて、帰してもらえなくなりそうで。足が勝手に逃げ出しそうになる。ロシアが目を細めて見ている、悟られるわけにはいかない。(信じられないことに)良き隣人だった時期もあったが、隙を見せれば喰われる、彼らはそういう関係だ。一度弱った姿を見せてしまったから、これ以上おかしな気を起こさせないようにしなければならない。
 ロシアが近づいてくる。抱きすくめられ、締め上げられたらと想像するだけで身が竦んだが、ここでひるんではいられない。シベリアで凍えている国民がいるのだ。その苦しさを思えば、私がこの男を怖がっていてはいけない。
 ロシアが握手の手を差し出した。これを受けると強制的にハグとキスがついてくる。それだけは無理だ。ハグなどされたら降伏直前にされたことを覚えている身体が反射的に竦む、こちらの怯えが暴かれてしまう。
 「申し訳ありませんが、我々はそういう仲ではありません。今は絶交中ですので」
 もっともらしい理由をつけて断れば、ロシアはしょんぼりと肩を落とした。約束破ったこと、怒ってるの…?と子供のように聞いてくる。怒っているに決まっているが、それは言わなかった。不毛な言い争いになって交渉が流れたら大変だ。まず国民を返してもらうこと、それが至上命題だった。

 いそいそとお茶の支度を始めるロシアに対し、一刻も早く帰りたい日本は早速本題に入ろうとする。それはロシアにさえぎられた。
 「アメリカ君にひざを折った君なんか、まともに相手にする気はなかったんだけどね。来てくれて嬉しいよ。砂糖は何杯?それともジャムがいい?」
 「…私はお茶を飲みに来たわけではありません」
 「え?違うの?」
 どこか楽しそうにロシアは日本の反応をうかがっている。事前にきちんと連絡を入れてあるので、こちらの用件は分かっているはずなのに、ぬけぬけと…。
 しかし日本の口から漏れたのは、どこまでも静かな声だった。
 「満州から連れ去った私の国民を返していただきたいのです」
 「何のこと?」
 「忘れたとは言わせません。もう降伏した後だというのに、連れて行ったでしょう」
 「んーと忘れた」
 「なっ…!」
 絶句した日本をロシアは楽しそうに眺めた。まともに相手にされなくて、くっと唇を噛みしめていることを知っている。君が悪いんだよ?もっと強いと思っていたのに。
 「なんてね、覚えてるよ」
 どうして、あんなことを…、と小さく日本が呟いた。もう戦闘は終結していて、武装解除された日本兵は祖国に帰れると思っていた。それをまとめて列車に乗せて、連れ去ったのは日本とは逆方向の北の地。当然不法行為だがロシアは気にしない。
 「んーとね、仕返し?」
 日本が目を見開いた。
 「これでおあいこだよね。僕が寝込んでるとこに、アメリカ君と一緒になってズカズカ土足で踏み込んで来るんだもん」
 ああ…と絶望を形にしたような表情が広がった。唇を噛みしめ、眉根を寄せて、相手を責めることもできずに日本はうつむいた。昔の失策が今頃になって国民を苦しめていることを知り、さぞかし自分を責めていることだろう。相手をなじるよりまず自分を責める、日本はそういう性格だ。
 「連れて行ってよかったよ。君の国民は優秀でよく働いてくれるし、作ったものは丈夫で地震が来ても壊れないって評判だよ」
 (それに、おかげで君は僕の懐に飛び込んできてくれた)
 意識を失った日本をアメリカに掻っ攫われたときははらわたが煮えくり返るかと思ったが、こうして戻ってきてくれて、こんな嬉しいことはない。思わずニコニコ笑顔になる。
 「ねえつらい?ねえ悲しい?」
 「…っ…」
 さすがに怒るかな?と思ったけど日本は怒らなかった。
 紫色になるほど噛みしめた唇をほどいて憂鬱な顔で呟いた。
 「返していただかないと困ります…」
 これがあの日本かと驚いた。昔の彼なら激昂していたことだろう。そういえば、彼の誇りとも言える刀をアメリカ君が取り上げたと聞いている。日本が僕にびくつくなんて信じられない…。
 (確かに満州や北海道ではちょっと僕もやりすぎたかもしれないけど)
 何故だか寂しい気持ちになった。かつて、小さな身体でロシアと殴り合って倒れなかった国が牙を折られ、アメリカに飼いならされようとしている。
 牙を折られたのなら敵じゃない。従順でいるなら優しくしてあげる。これからロシアになる仲間を悲しませるつもりはない。
 「気がすんだから、返してあげる」
 「本当ですかっ…!?」
 何故いきなり気が変わったのか分からず半信半疑の日本は、すがるような目を向けてきた。

   ■   ■   ■

 日本のすがるような瞳に急かされるように、ロシアは資料室への廊下を辿っていた。
 ロシアとしては帰還が決まったなら、そこら辺にいる日本の国民をまとめて連れて帰れば終わりだと思っていたのだが、日本は当然のように抑留者リストを要求してきた。え、作ってないよ?と返すと絶望的な表情が返ってきたが、そんなにおかしなことだろうか。
 ロシアの少し後ろをえっちらおっちらと歩く日本は、紙の束が詰まった重そうな鞄を抱えている。聞くと、来る前に作ってきた満州・朝鮮・樺太・北海道での行方不明者リストだという。つくづくマメだ。

 ほこりくさい資料室の中で日本はすさまじい量の書類と格闘を始めた。ロシアは廊下に続く扉を開け、ほこりを少しでも逃がそうとする。積まれるばかりで長年触っていない資料が詰まっているから、少し触っただけでもうもうとほこりが舞い上がった。こんな部屋に長居することになるなんて思ってなかったから、居心地は決してよくない。日本は部屋の真ん中の大きな机に書類を山積みにして埋もれている。見ようによってはバリケードのようだ。
 やることもなく手持ち無沙汰でロシアは日本を眺めた。ロシアがここにいるのは監視のためだった(本来ロシアが済ましておくべき仕事なのに、何で手伝わないのかって?ロシアにそんなサービスないよ!)機密書類もある部屋だ、いくらロシアの仲間になる予定の日本でも一人で置いておくわけには行かない。
 薄暗い部屋の中、天窓から差し込む光の帯の中でほこりが乱反射して、さながら天使のはしごのようだ。天から伸びる光が溜まった底では、日本が黙々と作業に没頭している。時が止まったかのような静謐な空間に、静かな日本を配置すると、天界の記録室のような神学的雰囲気をかもし出した。
 天使みたい…というには黒髪黒目の日本はそぐわないけど。煉獄でたった一人、天上への扉を守っているという孤独な天使は、黒髪黒目だったか(大昔に読んだ記憶を呼び起こす、現在の教官はキリストを嫌って、ロシアがそれのことを考えるのを禁じているが、ロシアは天使のお話が好きだった)仲間が総崩れする中、一人で最後まで踏みとどまった日本にふさわしい。
 あらためて見れば、黒髪黒目の地味な外見が荘厳なものに思えてきた。外見だけなら天使のようなラトビアと並べたら、天使を飼ってるようで可愛いんじゃないだろうか。神を捨てたというのに天使を飼うなんて、面白いな。
 と自分の思いつきに上機嫌になって部屋の真ん中を見ると、いつの間にか日本は書類に埋もれて舟を漕いでいた。
 いつも真面目できっちりしている日本の珍しい姿に、儲けた、と嬉しくなった。この国に足を踏み入れてからずっと痛いくらいに警戒を緩めなかったのに、本当に珍しい。出迎えたときから日本はあまり顔色がよくなかった。何と言っても病み上がりの怪我人なわけだし。そういえば戦前の日本は何度も寝込んでいたっけ。あまり身体は丈夫じゃないんだろう。何度かここに通うのなら、暖房ぐらい入れてあげたほうがいいかもしれない。ラトビアに言ってほこりも掃除させようか。

 起こさないようにそっと背後に回った。小さな背中の向こうに黒い頭が力なく沈んでいる。背後から抱えあげたら無抵抗にくたりと身体を預けてきた従順な日本の姿を思い出す。あの時と同じ、甘い衝動が湧き上がってきた。あの時は、アメリカにさらわれてしまってかなわなかった。その君が今、目の前にいる…!
 にょきっと背後に生えたロシアの気配に日本がぴくりと動いた。
 「うわっ!?近…!」
 飛び起きて、不意をつかれて驚きを隠しもせずに飛びずさった。はずみで積み上げた書類の壁がどさどさっと崩れる。あからさまに拒否されてもにこにことした笑顔でロシアは言った。
 「ねえ、長くなるならお風呂の支度しよっか?」
 「…遠慮します」
 「背広は脱いで寛いだら?苦しいでしょ」
 「…お気遣いなく、平気ですよ」
 「ご飯用意しようか?」
 「持参しましたのでおかまいなく」
 どうにか泊める方向に持っていこうとするロシアと、決して泊まるまいという日本の攻防はしばらく続いた。けんもほろろ。という言葉そのままの対応ではあるがロシアはさして気にした風でもなく、二人はひとまず食事を取るために部屋を後にした。

   ■   ■   ■

 日本が持参した食事はみすぼらしいものだった。半世紀も前に満州で戦ったときは、もっといいものを食べていたような気がするんだけど。単純な握り飯だが白米はほとんどなく雑穀で黒っぽい。対してロシアは遠慮も気遣いもなく豪華な食事を楽しんだ。一応勧めたが固辞された。日本はロシアで出されるものは一口たりとも口にすまいと思っているようだった。実はもてなすことが嫌いではないロシアとしては残念だが仕方がない。睡眠薬でも仕込まれたらとの警戒心はあながち間違いでもないから。欲しいものを手に入れるために手段を選ばないロシアは、もし日本が警戒を緩めていたらやっていたかもしれない。

 小休止を挟んで日本は再び面倒くさい書類の突合せ作業に戻った。数量をリストアップして、記録し、計画をたて正確に実行する。「日本君は面倒なことが好きだね」とほとほと感心して言うと、なぜかものすごく嫌そうな表情を返された。せっかくほめたのに。
 順調に作業をこなしていた日本のペンの動きが止まった。
 「ロシアさん」
 やっと僕の出番が来たと、すすと日本の近くに寄って手元を覗き込む。
 「ロシアさんの資料とうちの資料に30万人ほどの誤差があるのですが」
 ロシアさんの資料は大雑把過ぎて使えません、と苦りきった顔。この膨大な量の資料室を洗いなおせば合うかもしれないけど、はっきり言って面倒くさい。大体、日本の国民を送り返さなくたって、困るのは日本であってロシアは全然困らないんだから、日本が国民のために頑張るなら邪魔はしないけど、ロシアまで手伝う義理はないよね?
 「戦後の混乱で書類が散逸しちゃってるから、現地調査しないと分かんないなあ」
 付き合うのが面倒になってきたロシアはいい加減あきらめてくれないかな、と期待を込めて言ったが、日本は引き下がらなかった。
 「では私が参ります」
 「待ってそうはいかないよ。軍事機密とかあるし、勝手に歩き回られちゃ困るよ」
 「では一緒に来ていただくしかありませんね」
 (めっめんどくさい…)
 日本はびくついていたくせに、この件で折れるつもりはないらしく、当たり前のようにしれっと言った。

 ロシアはあっと声を上げた。この面倒くさい事態を打開する、素晴らしい方策を思いついたのだ。
 「ねえねえいいこと思いついたんだけど」
 「は?」
 「君がロシアになっちゃえばいいんだよ!そしたら同じ国だもん、帰るも帰らないもないでしょ?」
 次の瞬間には日本は避ける間もなくロシアの腕の中に納まっていた。ロシアはご満悦といった様子で黒髪に頬ずりした。こんな事態は想定していたがとっさに反応できずに日本はびきっと固まった。
 「うちの子になったなら全力で守ってあげる。だって日本君は友達だもん、一等いいメイド服着せて、大事にするよ」
 まるでロシアじゃないみたいに熱っぽい声で言い募る。日本の心臓は早鐘のように打っている。ロシアはいつでも薄ら寒い笑みの下に熱い執着心を隠し持っていた。大事にする、という言葉はたぶん嘘じゃない。コートの下に入ってきた小動物には優しいのだろう。だがそんな優しさは願い下げだった。
 どうしたらこの頑丈な腕から逃れられるのかと必死に考える。反射的に腰の辺りに伸びた左手をくっと握り締めた。頼りとしてきたものはもはやない。落ち着いて、冷静に。
 「…私が戻らなければアメリカさんが不審に思いますよ」
 アメリカの名を出すと、今度はロシアが固まった。たいそう不満なようで口を尖らせた。
 「君の国民をたくさん殺したアメリカ君に頼るの?刀を取り上げられて、守ってもらうなんて君らしくもない!それなら僕だっていいじゃない、そんなにアメリカ君がいいの?」
 「…助けてくれるのはアメリカさんだけじゃありません」
 違う、そうじゃないと地団駄を踏みたかった。大体アメリカもロシアも間違っているのだ。
 「勘違いなさっているようですが、私は武力を手放したといっても属国化したわけでも植民地化したわけでもありません、主権を持った一つの国家です。…今は占領されていますが」
 日本の力ではずそうとしてもロシアの腕はぴくりとも動かない。無駄な努力で非力を知らせるより、ロシアがこの腕をほどく気になるように納得させなければ。
 「あなたも」
 腕に手を添え振り向いて眼光鋭くロシアの目を射抜く。見返してくるとは思っていなかったらしく、ロシアは驚いたように目を瞬いた。
 「私をいい加減な裁判で弾劾した以上、武力を持たない私の国体を維持する責任があるのですよ?一国が武力で他国に侵攻することは許されないと判決を下したのですから、連合の幹部であるあなたが力で私を閉じ込めれば非難されます。―――そうでなければ、あんな不当判決を受け入れた意味がありません」
 「そうかな?」
 ん、と今度は日本が目を瞬いた。
 「君が負けたのが悪いんだよ。同じことをやっても僕やアメリカ君は悪くなくて、君は家を焼かれた上に罪にまみれた。それは結局、君が弱かったからじゃない?」
 「…そうですか」
 「僕は強いんだもん、文句なんて言わせないよ」
 「離してください!」
 もう我慢ならなかった。怒らせてもかまわない、日本は力いっぱい腕を引き剥がした。これから言うことは、宣戦布告なのだから。
 「確かに、戦う力もなく、吹けば飛ぶような小国ならば、周囲も侵攻に目をつぶるでしょう」
 残念ながら世界は正義ではできていない。そんなことは日本も分かっている。
 「だから私は力をつけることにしたのです。ですが、力とは武力に限りませんよ?」
 世界は少しのきれいごとと大多数の打算で動くもの…ならば。
 「あなたが自分の経済圏に閉じこもって満足している間に、私は貿易収支を増やしてきました。私が潰れれば世界に影響を及ぼすような大国になれば、攻め込まれたときに周囲も無視できない。刀を奪われたのなら、別の方法で身を守るまでです」
 私に手を出したら今度はあなたが世界中から攻められることになりますよ、と言外にロシアを脅して、日本は微笑んだ。何を考えているのかうかがい知れない黒い瞳の奥に、剣呑な光を浮かべて。
 「いずれあなたも私をないがしろにすることは出来なくなります」
 堂々と言い切った。アメリカの庇護の下で傷を癒している敗戦国とは思えない傲慢さで。ぼろぼろの身体でそんなこと、大言壮語のようだけど、妄言だと言わせないだけの実績を日本は持っていた。
 「ロシアさんも、いつまでも武力だけを恃んでいては立ち行きませんよ」
 いつの間にか日本はロシアの腕の中から脱出していた。立ち上がり、対等の立場で向かい合ってしゃべっている。文明開化したてのアジアの小国のくせに宣戦布告してきた在りし日の彼のように。あの時は誰もが日本は負けると思っていたのに、気がつくと日本はロシアと肩を並べる世界の大国になっていた。小さくまとまっていて、暖かくて緑豊かな国。一口に呑み込めてしまえそうなのに、いつだってロシアの思い通りにはならない国。
 「…やっぱり君は従順で可愛らしい子ではいてくれないんだね、残念だよ」
 細長くて緑豊かな暖かい土地で、僕だけのためにヒマワリを育てて欲しいって思ってたんだけどな。そうしたら僕は君が望むものをあげる。君に無体を強いるアメリカからきっと君を守ってあげたのに。
 心底残念なのに、何だか笑いがこみ上げてきた。ここしばらく、何だか世界がつまらなかった。けれどまだまだつまらなくなるには早いみたいだ。
 昔の君に戻ったみたいだね。そういうと、日本はすっと目を細めて笑った。

   ■   ■   ■

 日本に向かう船のデッキで、日本は海原を見ていた。日本を取り巻く海には、アメリカや、日本が国土を守るためにばらまいた機雷が撤去されずに残っており、ロシアの領海を出ても、陸に上がるまではやっぱり安心はできなかった。しかし有難いことに機雷に触れることもなく目指す港はもうすぐそこだ。短い滞在でリストを作り、船に乗せられるだけ人は乗せたし、日本自身も無事だ。まずは満足すべき成果だった。これから先のことは分からないが。
 彼の地を離れるまで日本は一睡もしなかった(うたた寝はしたが)できるわけがない。ロシアの家にいる間はライオンの巣穴にもぐりこんだ羊のような心地だった。怒らせず、舐められないように、最大の成果を引き出す。帰還が完全に終わるまで、困難な戦いは続くだろう。
 まだアメリカのほうが扱いやすい。彼の相手は疲れるけれど、弱いところを見せていれば満足するのだから。満足させておけば、ロシアと対するときのように生命の危険まで感じることはない。
 連れてきた国民の皆さんは、自分たちも疲れているだろうに、日本さん寝てくださいと気遣ってくれたが、結局眠れそうになくてデッキに上がってきていた。皆さんに日本の土を踏ませるまで休むわけにはいきませんよと強がって。
 膝がガクガクいっている。よほど全身に力が入っていたようだ。気を抜くとへたり込みそうになる。情けない、恃みとする刀を携えていればここまで緊張することはなかったはずだ。が、仕方がない。刀を捨てて生きると決めたのだ。これからは、どこにだって丸腰で乗り込んでいかなければ。自分で自分の身を守ることもできずに。
 思い至ってゾッとした。アメリカの下で傷を癒している間は、傷を癒すこと死なないことで精一杯で、刀がそんなに大事だとは思わなかったのに。一歩外洋に出れば、一人では身を守ることができないことの恐ろしさを実感する。アメリカの保護なしには交渉も貿易も何もできないかたわにされてしまったのか。

 ゴウゥゥン…

 重々しい接岸の音が響いた。いつの間にかデッキに鈴なりになっていた国民の皆さんが低くどよめいた。岸には旗を振る皆さんの姿が見える。狭い鉄の階段を下りていく国民一人一人に手を硬く握り締められ、涙を流して喜びを分かち合う。日本自身には、回収しきれずシベリアに残してきた国民のことも含めて、まだまだ頭の痛いことが山積みで、手放しで喜ぶことはできないのが申し訳ない。
 港に降り立つと、はあ、と全身から息を吐いた。肺に凝り固まっていた空気を吐き出す。彼の地では、陸に打ち上げられた魚のようにうまく呼吸することができなかった。

 ああ、やっと我が家に帰ってきたんだ。

 周囲は迎えに来た人と抱き合って再会を喜んだり、そうでなければ家に向かうために汽車の切符を買い求めたり、様々な喜びの感情であふれていた。日本は喜び合う人々の間に呆然と突っ立っていた。日本は一人暮らしで迎えに来る者はいない。ここから東京まで、切符を買って汽車にすし詰めになって戻るのはいかにも大儀だった。
 「日本!」
 まさか自分に声がかかるとは思わなくて驚いた。日本はそちらを振り返ろうとして、身体のバランスを崩してよろめいた。
 「大丈夫かい!?」
 「…ああアメリカさん、どうしてここに…?」
 「迎えに来たんだ!すごく心配してたんだぞ!」
 アメリカは倒れこんだ日本の身体を軽々と支えた。本当に心配してくれたのだろうが、今は彼の顔は見たくなかった。しかし日本に拒否することはできない。
 「えーと、オカエリナサイ!」
 日本は目を見開いた。カタコトの日本語を告げて、アメリカは得意げに鼻の頭を擦った。
 「…ただいま戻りました。すごいですね、いつ覚えたんですか?」
 ほめてやるとアメリカは嬉しそうににっと笑った。子供みたいな笑顔。気持ちよくさせておけば、アメリカは日本に親切にしてくれる。
 日本を抱き上げて、座面の高い助手席に座らせると、アメリカは上機嫌でジープを走らせた。気ままに車を走らせながら、ぺらぺらと不在の間のことを報告してくる。本当に、留守番していた子供のようだ。日本は一方的に垂れ流されるたわいもない話を静かに聴いていた。
 …で、ロシアはどうだった?何かのついでのようにアメリカは聞いた。
 「占領したのが、ロシアさんでなくあなたでよかったなあと思ってたんですよ」
 と告げると満足そうな笑みを浮かべた。日本はそれがまぶしくて顔をゆがめた。

 当然のように日本を迎えに来て、オカエリナサイ、なんて日本語まで操って見せて。日本が帰る場所はアメリカだとでも言うのか。
 “そんなにアメリカ君がいいの?”
 ロシアに告げられた言葉を思い出して唇を噛みしめた。違う、そうじゃない、アメリカに占領されていようと、ここは日本の家だ。日本の家はここしかないのだ。

 もう少しだけ休んで、傷が癒えたら、武器を使わない戦いをはじめよう。戦う相手はロシアだけじゃない、隣の運転席に座る若者とも。いつまでもわが国で、我が物顔でのさばってもらうわけにはいかない。久しく忘れていた高揚感に日本はひそかに震えた。






ボロボロの戦後日本におロシア様は難題を色々吹っかけますよ。
直接交渉じゃないと何もしてくれないし常にせっついてないと進まないし
(帰還事業は何故かしょっちゅう断絶しました)
…弱みにつけこむ関係ですからね!(我が家の露日は)
(しかしアメリカの下で安穏としていることは許さないって意味なら愛はあるのかも?<愛はあるんですよ)