■夜のダーチャの過ごし方
二人の目前には黒々とした湖水がとぐろを巻いていた。 夜の湖は日本とは比べ物にならない静けさで静まり返っている。時折魚が水面を跳ねる水音と、どこかでホウホウと生き物の音が鳴る。 対岸の24時間稼動の施設の灯りが湖面ににじんでとてもきれい。 「ここはね、排水の熱で大きな魚が獲れるんだよ」 穴場なんだ、と肩から担いできた折りたたみ椅子2つを下ろして組み立てながら、ロシアがのんびり言った。 「入っていいんですか?」 「大丈夫大丈夫、ここの警備員とは顔見知りだから、ウォッカ一杯で見逃してくれるよ」 施設管理がそんなことでいいんだろうか。そういえば、先ほど倒れた柵を踏み越えたような気がする。犯罪の片棒は担ぎたくないのだが。ポチャン、ロシアはさっさと釣竿を振って座り込んでしまった。日本はため息をついて肩から提げた箱を地面に下ろした。ここはロシアのホームグラウンドなのだから、ロシアの流儀に従ってしまえ、なるようになれ、だ。 ぱたん、ぱたぱた。テキパキと支度をする日本の手元を覗き込んで、ロシアは目を丸くした。 「日本君の道具って意外と普通なんだね」 「あなたは何を期待してたんですか…」 「電動リールとか、魚群探知機とか、ハイテクなのかと思ってた」 「漁に来たわけではありませんから、これで十分ですよ」 日本の得物は竹を接いだ一般的な和竿だ。植物性の竿はいかにも頼りなげだが、これで鯛を釣ったこともあるなかなかの業物なのだ。しかしつまらなそうにしているロシアに日本は苦笑した。 「ハイテクなら、こんなのがありますよ」 「何これ?」 「超音波蚊遣り機です。超音波を出して蚊を追っ払うんです」 寒いロシアに蚊はいないかと思いきや、短い夏には大量発生する。日本はロシアとは比べ物にならないほど長く(最近は温暖化の影響もあって)蚊の季節が続くから、こんなものまでハイテク化してしまうのか。小さなプラスチックの箱をロシアは興味深そうに眺めた。 「ロシアさん、ちょっと腕を出してください」 「?」 きょとんとしつつもロシアは素直に両腕をまくって出した。そこに日本はいきなりシュッ、とツンと臭う液体を吹き付けた。 「わっ!何々っ!?」 「虫除けスプレーです。どうせロシアさんは何もしちゃいないんでしょう、蚊に刺されたら後でかゆくてつらいですよ」 何しろロシアには予防という概念がろくにないのだから。不意をつかれてひっくり返りそうになったロシアは、日本に驚かされたことで微妙な表情になった。一瞬毒物かと思った…。 日本はロシアと2つ並んだ椅子に腰掛けて、黒々とした水面に釣り糸の先を投げ入れた。何度か上げておもりとウキの調整をする。傍らでは、ロシアがさっさとスキットルの蓋をひねっている。 「ああもうあなたは早速それですか…」 呆れた声を出して、日本は己の釣竿の先を見つめた。ロシアは身体に酒を流し入れながら日本を盗み見た。日本は水面を見つめながら、まるでライフルでも構えているような表情をする。木の枝の先に糸をくくりつけただけみたいな単純な道具と雑念を捨てて研ぎ澄まされた求道者の表情。凝りだすと日本は何事も“道”にしてしまう。日本君らしいな、とロシアはこっそり笑った。 まさか来てくれるとは思わなかった。 ■ 数日前、会議場で日本とカナダが立ち話をしていた。派手なG8の面々の中ではぼやけ気味のカナダは懸命のオーバーアクションで日本の関心を引こうとしている。日本は穏やかに微笑んでカナダの話に楽しそうに相槌を打っている。カナダは縦に2つ揃えた握りこぶしを肩の上に掲げて、何かを吊り上げるようなポーズをとった。釣りの話をしているらしい。日本が釣り好きなんて知らなかった。ロシアは早速二人の間に割って入った。カナダがのけぞってびびっていたけどどうでもいいや。眉をひそめる日本をいい釣り場があるのだと別荘に誘った。 ■ いつでもだめもとで誘っているけれど、いつだってロシアは本気だ。あなたの発言はどこまで本気なのか分からないと日本は言うけど、断られたロシアが笑顔なのは、拒否されることに慣れてしまった悲しい防御反応にすぎない。でも今回は思いがけず日本は誘いに乗ってくれた。エサがよかったんだろうか。ロシアは嬉しくて、隣の小柄な男をちらちらと盗み見ていた。 黙って水面を見つめていた日本が息を呑んだ。 「…っ」 足元にぐ、、と力が入る。水面が突如として騒がしくなった。釣り糸がピンと張り、激しく動く。日本は慎重な手つきで竿を調整しながら糸の先から目を離さない。正しくライフルを構える射撃手の表情に、見守るロシアまで手にぐっと力を込めた。 バシャバシャバシャッ、静かな夜の静かな湖畔で魚との静かな戦いが始まった。 「ロシアさん、タモ、タモ取ってください!」 抑えているけれど興奮した声で日本が指示を出す。魚は抵抗しながら少しずつ水際に近づいている。限界までしなり折れるかと思った釣竿はなかなか折れない。やがて釣り上げられた魚は30cmオーバーの大物だった。ぱちぱちと思わず拍手を送ると、日本は心底楽しそうに笑って、獲物をクーラーボックスに納めた。 「ふふ、明日のおかずは確保できましたね。帰ったら三枚に下ろして差し上げます」 「日本君は何でもできてすごいねぇ。魚をさばけるなんて、シェフみたいだ」 「うちでは普通なんですけどね…」 という日本はまんざらでもなさそう。楽しんでくれてるようで何よりだ。 「ロシアさん」 日本がふいにロシアの方を向いた。 「私は今機嫌がいいんです。何か話したいことがあるならどうぞ?聞いて差し上げますよ」 その言葉に嘘はないようで日本はニコニコしている。ロシアの釣り糸の先に針がついてないってこと、日本にはばれてしまっているみたいだ。ここに陣取ってから一度もウキの調整も、エサの確認もしていないのだから、それはばれるかもしれないが。 ロシアは黙ってぐいとスキットルを煽り、口の中に何も入ってこないことにガッカリした。酒がなくなってしまったのなら、釣りはおしまい。もう帰ろうと促すと、明日のおかずを確保して満足したらしい日本も了承した。 釣り糸をたらしてから二人はほとんど話さなかった。釣りの楽しみはうるさい日常を離れての自然との対話、お酒のおいしさ。魚を釣ることが目的じゃないってことを分かっている仲間はなかなかいないんだ。 「付き合ってくれてありがとう」 「ロシアさんは釣れませんでしたねえ」 残念でしたねえ、くすくす笑いながら日本は手際よく道具を片付けてロシアに並んだ。楽しそうな表情を見て、肩に椅子を担ぎ上げたロシアも笑った。 僕が釣り上げたかったのは、君なんだけどね。 |
もたもたしながらチャックを下ろそうとするんだけど酔ってるから手が震えてもういいやこのまましちゃえって言う露様にあわてて日本君がチャックを下ろしてくれるんだけど、目の下でごそごそズボンをずり下ろす日本君に不埒な気分を掻き立てられた露様。何とか不埒な行動に及ぼうとして「(ばっちーん☆)ああ失礼、蚊がいたもので」<ぶん殴られました(笑) |