08/04/29
落ちる月



「なあ、何でお前、外にオンナ作んねぇワケ?」
 酒の席での、それはほんの小さな戯れだった。


 ――お月見をしませんか、と言ったのは八戒だ。
 その風流な趣味に、酒好きの悟浄と、大食漢の悟空はすぐさま乗り気になり、三蔵もまた、窮屈な寺院にいるよりはマシだと思ったのか、二つ返事で了承した。
 天気の都合で、満月より一日だけ遅く、その宴は催された。
 もっとも、一日の違いは、それほど月を欠けさせず、さらに言えば、八戒以外の三人は酒とか食事とか、月以外のものに重きを置いていたので、特に問題はなかった。
 悟浄の家の、庭と呼ぶには殺風景なスペースにテーブルと椅子を出して、買い込んだ料理やら酒やらを並べていく。
 その時点で悟空と悟浄は大騒ぎで、改めて仕切り直すこともせず、八戒と三蔵が加わって宴になだれ込んだ。
 始まってしまえば、いつも通りの騒がしい夕食会で、これが月見というイベントだと覚えていたのはきっと八戒だけだっただろう。
 楽しい時間はあっという間に過ぎて、やがて月に雲がかかりはじめた頃、最初にリタイアしたのはやはり悟空だった。
 テーブルに突っ伏していて見えないその顔は、伏せる前は飲み慣れぬアルコールで真っ赤になっていた。
「風邪をひいてしまいますね」
 八戒が悟空を家の中に運び込んで、それからは、三人で飲み直しとなった。
 酒が一番強いのは八戒だが、三蔵や悟浄も弱くはない。他愛のない話をしながら、酒は進み、そして。
 どんな話の流れだったのか、悟浄が三蔵に言ったのだ。
「なあ、何でお前、外にオンナ作んねぇワケ?」
 普段の三蔵だったら、その問いを瞬殺していただろう。
 だが、三蔵は多分酔っていた。三蔵だけでなく、他の二人も酔っていた。
 理由といえば、それくらいしか考えられない。
 それとも、夜の闇のせいだろうか。月のせいだろうか。
「…………ほっとけねぇだろ」
 沈黙の後、三蔵は、そんなふうに答えた。
 違う答えなど、いくつでも選べた。三蔵法師という身分。僧侶という立場。あるいは単に、くだらないとでも。
 だが、三蔵が選んだのは。
 その答えが誰を指すのか、悟浄も八戒も、わざわざ尋ねたりはしない。
 ――ガタン、と大きな物音がしたのは、その時だった。
 音を振り返ると、そこには起きてきたらしい悟空が、家の扉に半分隠れるようにして立っていた。
「そんなこと、俺、頼んでない!」
 悟空は聞いていたのだ。
 そして、悟浄や八戒が理解したのとは違う意味で三蔵の言葉を受け止めたのは、その反応から明らかだった。
 叫んだ悟空は家から飛び出し、そして、三人のいる方向とは反対の、森に向かって走り去る。
「――悟空!」
 声を上げたのは三蔵だった。考えるより先に体が動いたと思わせる動作で立ち上がり、悟空を追う。
 置いていかれた悟浄と八戒は顔を見合わせて、――それから、無言で酒を酌み交わした。三蔵が引き受けたなら、自分たちの出番はないだろうと。
 杯を傾けながら、八戒は誰にともなく呟く。
「……『ほっとけない』のは、どうしてなんでしょうねぇ?」


 アルコールでいつもの調子でない悟空に追いつくのは、難しくなかった。三蔵はほどなくして、悟空を捕らえた。
 腕を掴むと、諦めたのか、悟空は足を止める。だが、顔を背けたままで、三蔵は強引に悟空を振り向かせた。
 三蔵の方を向いた悟空は、ひどく不満げな顔をしていた。
「――ったく、手間取らせやがって」
「別に、追いかけてほしいなんて頼んでねーだろ!」
 ただの反抗、よりも、その言葉には重い意味が込められている。
 三蔵は長く息を吐いた。
 あの時、三蔵が言った言葉の意味を、悟空は深く捉え過ぎている。
 あれは、そんなものではなかった。悟空が気に留めるほどのことではない。単なる戯れ言だ。
「おい、あの話は……」
 言いかけた三蔵を、悟空が遮る。
「――三蔵、俺のこと邪魔?」
 見上げる悟空の表情があまりに真剣で、三蔵は絶句した。
 そんなことを真剣に訊くなんて、どうかしているとしか思えない。
 邪魔か、などと――悟空が自分の普段の行いを振り返ってみれば、答えなど決まっているではないか。
 それなのに悟空がここにいることの意味を考えれば、そんな問いが的外れであるのは明らかだ。
 けれど悟空は、そのことに気付かない。
 三蔵の沈黙に勝手に答えを見出して、ぐっと歯を食いしばる。
「邪魔なら邪魔って言ってくれれば、俺――」
「――どうするつもりだ?」
 冷たい声だと、自覚していた。だが三蔵も、悟空に腹が立っていた。
「っ、寺から出てくし!」
 悟空の返事は、考えたものではないだろう。かっとなって、思わず言ってしまった。そんな言葉だった。
 それをわかっていてなお、三蔵は意地悪く悟空を追い詰める。
「どうやって生活していく気だ」
「働く」
「無理に決まってるだろ」
「できる!」
「無理だ」
「無理でもやる」
「できねぇ」
「何でそんなこと三蔵にわかるんだよ!」
「だから――――ここにいればいいだろうが!」
 ……嘘のように沈黙が落ちた。
 悟空はぽかんと三蔵を見上げる。
 三蔵もまた、自分の口からこぼれ落ちた言葉に、愕然とした。
 無意識に口をついて出たそれは、……気付かないふりをしていた、三蔵自身の本音だった。悟空があまりに馬鹿だから、蓋を開けるはめになってしまった。
 邪魔でも何でも。
 ほっとけないのは……悟空の幼さや、過去や、交わした約束のせいだけではない。
 そんなものがなくても。
 悟空自身が、他の誰かが、それらを引き受けたとしても。
 ……どうしたって、三蔵は悟空をほっとけない。
 それは、つまり――
「……だから」
 三蔵は静かに言い直す。
「お前は、ここにいればいい」
 悟空は大きく瞬きをして。
「――――……うん」
 こどもみたいに、頷いた。



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