14/01/28
リビドー



 雪がちらつきはじめたときから、いやな予感はしていた。
 それでも三蔵は黙々と足を動かしていたが、少し歩みを進めるあいだに地面は真っ白になり、やがて山にさしかかる頃には完全な吹雪になっていた。
「な、帰れんの?」
 さっきまでは、三蔵の少し後ろを歩きながら「雪だー」と能天気に喜んでいた悟空も、ようやく状況に気付いたのか、足を速め三蔵の隣に追いついて、問いかけてくる。
 この山を越えないと寺院には帰れない。
 太陽こそ見えないが、まだ日が沈むには早い時刻だ。普段なら、十分帰る時間はある。
 だが、この天気ではどうだろうか。
 ……うすうすは三蔵も気がついていた。
 だけど理性を押しやってここまで歩を進めてきたのは、どうしても今日中に帰ってしまいたかったからだ。――もう叶わないが。
「……引き返すぞ」
 少し前に宿があった。今なら戻るのにそう時間はかからない。
 悟空は「りょーかい」と軽快にUターンして三蔵の後に従った。


「いらっしゃい!」
 宿屋の扉を開くと、オレンジ色の明かりと人のざわめきがあらわれた。その奥から、男の威勢のいい声がかかる。
 建物の一階分と同じ広さにテーブルと椅子が並び、そのほとんどの席が客で埋まり、賑やかな雰囲気の中で食事をしていた。
「うまそぉ」
 運ばれていく料理を見て、悟空が物欲しそうな感想をもらす。
 どうやらここは、食堂を兼ねた宿屋のようだった。夕食をとる店を探す手間が省けて好都合だ。
 扉の外で外套についた雪を払い、中に入る。
 三蔵が目深に被った外套のフードを落とすと、一瞬、客の視線が集まりざわめきが消えた。
 街中においてでさえ目立つ金髪は、この辺りのような田舎ではなおさらだ。いつものことなので三蔵は気にもせず、宿屋の主人に近づいて尋ねた。
「二人だが泊まれるか?」
 主人もまた三蔵の金髪に目を瞠っていたが、慌てて台帳をめくり、困った顔をして三蔵に答えた。
「すみません、今夜は突然の雪でお客さんがいっぱいで、空いてるのはあと一人部屋が一つだけなんですよ」
 三蔵は形のよい眉をひそめた。
 道中見た限りでは、この近くに他に宿屋はなかった。もしどうしても探すなら、三蔵が用を済ませた街にまで戻る必要があるかもしれない。
 主人もそれを察したようで、よろしければ、と三蔵に申し出た。
「この辺は他に宿屋はありませんから、一人部屋に二人で泊まっていただいて結構ですよ。狭くて申し訳ないですが、その代わり代金は一人分しか頂戴しませんので」
 考えるほどの選択肢はなかった。三蔵はありがたく宿屋の主人の申し出を受けて、この宿に泊まることにした。


 先に食堂で腹を満たしてから、二人は二階にある部屋に行った。
 部屋は一人で過ごすのであれば文句のない広さだったが、やはり二人では狭苦しく感じられた。もちろん文句は言えないが。
 そして当たり前だがベッドは一つで、シングルだった。予備のベッドもあるにはあるらしいのだが、この部屋には入らないとのことなので、二人でシングル一つという割り当てになる。
「ベッドはお前が使え」
 三蔵が告げると、悟空は驚いた顔をした。二人でベッドを使うと思っていたのだろう。
「三蔵はどうするんだよ」
「たった一晩だ。下で飲んでる」
 一階の食堂は酒場も兼ねていて、三蔵はそこで夜明かしするつもりだった。主人もこちらの状況を知っているのだから、駄目とは言うまい。
「そんなことしなくても、ちょっと狭いけど二人でも寝れるって」
 三蔵は細身だし悟空は小柄だ。だから大丈夫、と悟空は言うのだろうが、三蔵が問題に思っているのはそんなことではなかった。
「一人で寝ろ」
 そっけなく言って、これで会話を終わらせようとした三蔵に対して、悟空はそうさせまいと法衣の袖をつかんだ。
 しかたなく振り返る三蔵を、悟空がどこか思い詰めた目をして見上げる。
「…………俺の寝相が悪いから?」
 三蔵はあっけにとられた。真剣な顔をして何を言うかと思えば、だ。
 思わず脱力する三蔵に、悟空は重ねて言った。
「――じゃあ、怒ってるから?」
 三蔵は思わず悟空を凝視する。
「俺が無理やりついてきたから、三蔵、ほんとは怒ってるんだろ」
 もはや疑問形ではなく、悟空は断定した。
 悟空の言葉の前半は正しい。そもそも昼間訪れた街へは、三蔵一人で行くはずだった。行き先は寺院で、三蔵法師としての仕事だったのだ。常であれば悟空は留守番だ。
 だが、今回に限って悟空は常にない我が儘を言い、三蔵についてきた。その懇願を退けられなかったのは三蔵だ。
「……怒ってねぇ」
 それらしく聞こえるように、三蔵は努めて平静な声を出した。だが悟空は。
「ウソだ」
「嘘じゃねぇ」
 その言葉に偽りはない。三蔵は怒っているわけではない。悟空にはそう見える態度だったかもしれないが。
 すると悟空は一度きゅっと口をつぐみ、三蔵をじっと見て、再び口を開いた。
「…………じゃあ、キスして」
 思わず三蔵は息を飲む。
 悟空は自分が何を言っているのかわかっているのだろうか、と思った。
 ――いや、わかっているはずがない。その欲求をもてあましているのはむしろ三蔵の方だ、などとは。
 本人は言い慣れない言葉を口にしたことが落ち着かないのか、ふいっと三蔵から視線をそらした。
 その行動に、助かった、と三蔵は思う。あの金の目でじっと見つめられ、懇願されたら、すべて台無しにしてしまいそうだった。
 三蔵の沈黙をどうとったのか、悟空は注意を引くようにつかんだままの法衣を引き寄せる。
「してくれたら一人でおとなしく寝る」
 再びじっと見上げられ、今度は堪らず三蔵は悟空の手を振りほどいた。
「いいからさっさと寝ろ」
 そしてこのままうやむやにして部屋出て行こうと扉に向かう。
 だがその横を、三蔵を押しのけるようにして、荷物を持った悟空が追い越していく。
「もういい! 俺、一人で寺に戻るから、三蔵がベッド使えよ!」
「待て」
 今度は三蔵が悟空を引き止める番だった。つかんだ腕を払いのけられそうになり、力まかせに引き寄せる。
 三蔵より一回り小さな体を腕の中におさめ、「放せよ」「落ち着け」と何度か押し問答を繰り返すうち、悟空はあきらめてようやくおとなしくなった。
 悟空が逃げる気配はもうない。それでも三蔵は、悟空を閉じこめた腕を解くことをしなかった。ほんのりと熱いこの体温が、ひさしぶりの感触が、離しがたくて。
「三蔵…………俺、なんかした?」
 どこか哀願するような響きで悟空がつぶやいた。こちらに背を向けているため表情は見えない。
 三蔵は答えられない。否定するのはたやすいが、――それは真実なのだが、その答えを悟空が納得するとは思えなかった。
 案の定、悟空は三蔵の答えを先回りをする。
「気のせいとか言ってごまかすなよ。今日俺がついてくって言った時も嫌そうな顔してたし、同じベッドで寝るのもダメって言うし、……キスもしたくないって言うし」
 そしていっそうか細い声で三蔵に問いかけた。
「…………俺のことイヤになった?」
 思わず長い溜息をこぼしてしまうのを三蔵は止められなかった。
 びくん、と腕の中で悟空が震えたのが、いったい何を想像したためかわかったので拘束をきつくする。
「なってねぇ」
「……ほんとに?」
「ああ」
「ほんとのほんとに?」
「本当だ」
 二度念押しして、ようやく悟空も三蔵が嘘を言っていないと認めたのか、強ばっていた体から少し力が抜ける。しかし続く言葉には、まだわずかに不審の響きが残っていた。
「じゃあ……なんで?」
 結局は、悟空の疑問はそこに行き着くのだ。
 もうこれ以上ごまかすことはできそうになかった。それに、もう……この腕を解くこともできそうにない。
 三蔵はしかたなく覚悟を決める。
「……テメェ、簡単に二人で寝るとか言うな」
「え、なんで?」
 これだから。
 首を回してこちらを振り返り、きょとんとした様子で問い返す悟空に、三蔵は今度も溜息を抑えきれない。
 これが寺院であれば、三蔵とてここまで神経質にはならなかっただろう。
 寺院は基本的に集団生活だから、プライバシーが緩い。三蔵は個室を持っていたとはいえ、いつ人が出入りしてもおかしくはなく、それゆえ端的に言えば自制がきいた。
 でもこの場所は。
 三蔵と悟空を知る者のいない宿。二人が何をしようと他人には知られない空間。
 そんな場所でまで衝動を抑えられるほど、三蔵はできた人間ではないのだ。
「ただ寝るだけで済むと思ってるのか? ――何されるかなんて、どうせテメェは何もわかってねぇんだろう」
 すぐには悟空は答えなかった。三蔵の目をじっと見て、それから口を開く。
「わかんねーよ。……だから三蔵が、教えて」
 ――ああ、なんという殺し文句だ。
 三蔵は天を仰ぎたくなる。
 何もわかってないくせに。なのに悟空は迷わず、三蔵にゆだねてみせるのだ。
「……悟空」
 顔を近づけると従順に閉じられる目蓋。
 長い夜のはじまりに、三蔵はまずは長い、長いキスを贈った。



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