HUSH LITTLE BABY
「忠犬ハチ公」
「もっと可愛いです。三蔵が甘やかすはずですよ」
「ほだされたんだろ?」
勝手なことを言いながら、しかし悟浄と八戒の口許に浮かんでいるのは苦笑だった。
二人の視線の先には話題の人物。
たやすく声が届く距離にもかかわらず会話の内容に反応を示さないのは、無視しているからではなく耳に入っていないからだ。
悟空は、一心不乱に窓の外を見続けていた。
「なーにが面白いンだか。嵐なんてよ」
悟浄がそんな軽口を叩くのも、これが初めてではない。夕刻から、もう何度も繰り返されてきたことだ。
八戒は、「違いますよ」などと分かりきった訂正を入れることはせず、窓に張り付いた少年の小さな背中に眼を眇めた。
「本当に……」
中途半端に途切れた言葉が、雨の音に消えていく。
八戒はその先を口にしなかった。――いや、できなかったのかもしれないと悟浄は思う。
言葉にならない感情が、そこにはあった。
* * *
三蔵が悟空を伴って悟浄宅を訪れたのは、五日前のことである。
応対に出た八戒は、玄関の扉を開けて軽く目を瞠った。というのも、悟空が一人で遊びに来ることはままあっても、三蔵がここへ足を運ぶのは稀だったからだ。
「どうぞ、上がって下さい」
八戒はすぐに二人を招き入れようとしたが、三蔵がそれを遮った。
「いや、今日はこいつを預けに来ただけだ」
そう言うと、くるりと踵を返してしまう。驚く暇もない。
「え、ちょっと待って下さい三蔵!」
当然のことながら、八戒は慌てて三蔵を引き留めた。
知り合ってまだ日は浅いが、相手の無愛想に慣らされてはいる。しかしこれでは、あまりに言葉が少ない。説明を求めて然るべきだ――八戒はそう思ったのだが、不意にその袖を引く者がいた。悟空だ。
「あのさ、三蔵急いでるから。仕事で遠くの街行くんだ。その間、俺にここに居ろって。ダメかな?」
言葉は拙いが、それで八戒にも事情が飲み込めた。
寺院という場所に悟空を独り残していくことは、さすがにあの三蔵でも気が咎めるのであろう。八戒もよく知っている。あの場所は妖怪を受け入れない。
それとも、悟空自身がここに来ることを望んだのか。
どちらにしても、避難場所に選ばれたというのは、八戒にとって少しばかり嬉しいことだった――家主はまた別の意見かもしれないが。
「もちろん、好きなだけ居てくれて構いませんよ」
その家主には断ることなく、八戒は首を傾げた悟空に笑いかけ、了承の意を告げた。
そもそも家主は不在なのだが。もちろん、殊勝にも早起きしてどこぞへ出かけたわけではなく、昨夜からお帰りあそばしていない。
「ところで、三蔵の仕事ってどれくらいかかるんですか?」
八戒は悟空を家の中へと促しつつ問いかけた。
「んーと、五日くらい?」
何度も訪れている悟浄の家は、もはや悟空にとってテリトリー内である。勝手知ったる、で遠慮なく上がりこんで、悟空は定位置のソファをキープした。
「悟浄は? またアサガエリ?」
「ええ、まあ……」
曖昧に微笑んで、八戒は言葉を濁した。覚えたての言葉を使えて嬉しそうに笑う悟空は無邪気で、だからこそ軽率にあんな単語を教えてしまったことを少しばかり後悔する。
十五歳という年齢を考えると、悟空はかなりその方面に疎い。思わず罪悪感を覚えてしまうほどに。それが環境のせいか保護者のせいか、はたまた本人の資質のせいかは分からないが、どれにしても八戒はため息をつくのみだ。
しかも、これから五日間も寝食を共にすることになる。食糧の心配もだが、自分も同居人も何か余計なことを口走らなければいいが、と八戒は珍しく眉間に皺を刻んだ。
悟浄が帰ってきたのは、昼を過ぎてからだった。
五日間悟空が滞在する旨を知らされた悟浄は案の定嫌がったが、明らかにそれはポーズだけで、八戒にしてみればどう見ても楽しんでいるようにしか思えなかった。
それはすぐに証明された。
口では「ガキのお守りなんかやってられるか」と言いながらも、悟浄はむしろ喜々として悟空に付き合っていた。五日間で悟空と過ごした時間を計算すると、恐らく八戒よりも多いに違いない。
しかし何より驚くべきは、悟空の滞在期間中、一度も夜遊びに行かなかったことだ。それも、約束があったにもかかわらず、である。
ほとんど天変地異に近いことであったが、これにはちゃんと納得できる理由があった。悟空の遊び相手を務めるには、かなりの体力が必要なのだ。つまり、夜にはぐっすり夢の中である。
そんなわけで、夜型の生活は早くも二日目にして健康的なものに様変わりした。早起きに慣れない悟浄が惰眠を貪ろうにも、耳元で爆竹を鳴らされるなど、とんでもない方法で叩き起こされるのだから堪らない。
実行者の悟空を一発殴り首謀者を振り返ると、八戒は悪びれず、逆に生真面目な顔を作ってお説教までしてみせた。
「早寝早起きは人として基本です。貴方は大人なんですから、悟空の手本にならないと駄目じゃないですか」
普段の悟浄と八戒の生活は、互いに干渉せず、が原則だ。それでうまくやっていた。
だが、そこに悟空が一人入ってきただけで、見事に秩序が崩れ去った。それは悪いものではなかったが、まるで初めて子供を授かった夫婦みたいだな、と悟浄は思い、一瞬後に自分の思考を激しく後悔した。
八戒が聞いたなら、言い得て妙だと感心したかもしれない。
三人での生活は、実際疑似家族のようでもあった。
悟浄にしても八戒にしても、家庭というものとは縁が薄かった。それを取り戻したいなどという感傷は持っていないが、ついつい悟空のペースにつられて子供のようにむきになったりしている自分に気付くと、思わず苦笑が込み上げるのは確かだ。
難しいことを考えず単純に言ってしまうと、三人共がこの五日間を楽しんだ。
時間はたくさんあって、遊びは尽きることがなかった。
外へ出れば、ただ向こうの木まで競走するというだけで、負けず嫌いな二人が夢中になっていた。
家の中では、よくゲームをした。「百回勝負!」と誰かが言い出して三人で延々とババ抜きをしたり、悟空は新しいゲームを幾つも覚えたりした。悟浄がイカサマの教授をするという出来事もあった。
「貴方こそ甘やかしていますよね」
気持ちのいい昼下がり、うたた寝を始めてしまった悟空の傍らで、服の裾を握られ動くに動けず火の点いていない煙草をもてあそんでいた悟浄を見つけた八戒は、少し人の悪い笑みを浮かべたものだ。常日頃、遊びに来る悟空のため大量のお菓子を用意する度に告げられる嫌味を、ここぞとばかりそっくりそのまま悟浄に返した。
「それを言うならどっかの最高僧だろ? 送り迎えまでしてやって」
確かにその通りだ。二人は同時に吹き出した。
あんな場所で、あんな人間に育てられたにしては、悟空は無邪気すぎるのではないかと常々二人は考えていたのだが、答えはそういうことだったわけだ。――三蔵の愛情をたっぷりと注がれていたから。
笑い声に目を覚ました悟空は、首を傾げて理由を尋ねたのだが、「それより次は何する?」とあっさり誤魔化された。
また、もちろん遊ぶことだけがすべてではなかった。
食事の用意や、買い物、掃除、洗濯といったことを、三人は八戒主導の元で手分けして行った。
寺院の生活では、むしろそのようなことに関わる余地がないためか、悟空は自分が手伝えることを喜んだものだ。
「悟空は悟浄よりずっと役に立ちます」
悟空への褒め言葉に見せかけた自分への嫌味に、悟浄はさりげなく八戒から目を逸らして肩をすくめた。
……実は八戒は、三蔵がいないことで悟空が寂しがるのではないかと考えたりもしたのだが、それは全くの杞憂だった。
よく寝てよく食べてよく遊んで、八戒と悟浄を呆れさせるくらい、悟空ははつらつと過ごしていた。
悟空の様子がおかしくなったのは、五日目の夕方からである。
三蔵が帰ってくるはずの日だった。
正確な時刻は知らされなかったため、朝からそわそわしてはその様子を悟浄にからかわれていたのだが、それでも日が暮れるまでは元気に言い返していたのだ。それが、ついに外が闇色に染まってしまうと、窓から離れなくなった。話しかけても終始無言で、反応しない。
悟浄と八戒は、互いに視線を送り、自分と同じ困った顔を見つけた。
その日は生憎の天候で、朝から降り続けた雨が、昼過ぎには外を歩くのが難しいほどの嵐になった。だからきっと、三蔵はどこかで足止めされているのだろう。
何度かそういう話をしたので、悟空にもそれはわかっているはずなのだ。しかし、頑として窓際から動こうとしない。
悟空は聞き分けのない子供ではない。だからこそ、悟浄も八戒もこの状況に対して取る手が浮かばずにいる。
「だって、三蔵、約束したから――」
不意に洩れた呟きは、我が侭と言うには痛々しい響きだった。
調子が狂うことこの上ない。
初めて目にする気弱な姿は、悟空にとっての三蔵という存在の大きさを知るのに十分すぎるほどだった。
同時に、できることはないのだとわかってしまう。
諦めは痛みをもたらした。
それでも、夕飯だけはしっかりと食べさせて、悟浄と八戒はそっと悟空を見守っていた。
この五日間ずっと騒がしかったことを思い出すと、外の風雨だけが耳を打つ沈黙は、奇妙な寂しさを感じさせる。あっという間に過ぎ去ってしまう時間に文句をつけていたのはほんの数日前の話なのに、今は時計の針の進み具合がもどかしかった。
気を紛らわすため、二人してグラスを傾け他愛ない話をした。
「女に振られた気分だな」
「しかも、尽くした女性に?」
アルコールに冗談を混ぜ飲み干して、同じ場所に揃って視線を投げる。二人を袖にした美女ならぬ少年は、飽きることなく窓の外を眺めている。
いつまで経っても三蔵が現れる気配はかった。
そして――遂に八戒は立ち上がり、悟空の肩に手を置く。カチリと、時計の短針と長針が真っ直ぐ上を向いて重なった。
「悟空、今夜はもう寝ましょう」
小さな震えが八戒に伝わった。次いで、これまでの頑なさが嘘のように、悟空が素直に振り返る。
上目遣いに見上げてくる金の眼の子供は、まるで迷子になったみたいに情けない顔をしていた。
「眠ってしまえば、時間なんてすぐに経っちゃいます。次に起きたときは、三蔵が迎えに来ていますよ」
「それに、お前を夜更かしさせると、俺らが三蔵様に叱られるからな」
八戒が微笑み、悟浄が茶目っ気たっぷりに言い聞かせると、悟空はようやく少しだけ笑みを覗かせ頷いた。
「……うん。ありがと」
真紅と深緑の眼が交差して、二人はやれやれとばかりに肩をすくめる。
「よーし! 寝るぞ!」
気分を切り替えるべく大きく伸びをした悟浄は、寝室に向かって一歩踏み出した足をふと止めると、意地の悪そうな顔で振り返った。
「寂しいなら添い寝してやろーか?」
「いらねーよ!」
間髪入れず答えが返る。いつも通りの態度を見せる悟空に安堵しながらも、「可愛くねーな」と少しむっとする悟浄は、日頃の行いを省みる気などさらさらない。
「遠慮するな」
それどころか、嫌がらせ精神に火が点いて、悟空の肩を抱いて無理やり部屋へと連れ込もうとする。
「八戒〜!」
「強引なナンパはうまくないですよ」
助けを求められた八戒は軽く悟浄をあしらうと、悟空に向き直りさも真剣な顔つきでのたまった。
「悟浄は仲間外れにされて拗ねてるんです」
悟空という宿泊者ができたことで唯一問題があったとしたら、それは寝る場所だった。大して広くもない悟浄の家は、客用の寝室など当然存在せず、選択肢は限られていた。すなわち、二つあるベッドの一つを二人で使うか、もしくは、一人がソファを使うか。
結論を出すのはそう難しいことではなかった。ヤロー同士で同衾するなどまっぴらだと主張する悟浄に対して、八戒と悟空は同性だから別に構わないと逆の見解で、問題は円満に解決した。
「ずっと僕と悟空とで一緒に寝てましたからね」
「……そうなのか?」
疑わしそうに、しかし八戒の言うことだからと半分は信じた様子で見上げてくる悟空に、もはや悟浄は真実を伝える気にはなれなかった。
脱力させた張本人は、更に追い打ちをかけてくる。
「ああ、今夜は三人で寝ましょうか?」
こうなると、毒を食らわば皿までの心境である。少し違うのかもしれないが、悟浄は顔を引きつらせつつも鷹揚に頷いてみせた。
一人用のベッドに三人――内一人はかろうじて子供サイズとは言え、無茶をしたものだった。
壁際の八戒はいいが、逆の端の悟浄は夜中に床と「こんにちは」するのは確実だろう。しかしそれより大変そうなのが二人の間に挟まれた悟空だが、窮屈なのがかえって楽しくて仕方ないようだ。その様子を見て、悟浄も八戒も素直に嬉しく思った。
「三蔵の代わりにはなれないけどな」
前置きして、悟浄は自分の腕に悟空の頭を乗せる。
「枕の代わりだ」
すると今度は八戒が、布団の上からあやすように悟空の身体を数度軽く叩く。
「じゃあ僕は、毛布の代わりです」
二人はそうして、悟空が寝付くまでずっと、静かに見守っていた。
眠りから覚める頃には、嵐は止んでいるだろう。
三蔵はきっと、いつものような仏頂面で迎えに来るに違いない。
Hush little baby―――しずかにおやすみ
如月たえ様へ献上