GO WEST ... cf.R40-2
「おはよ!」
ぽん、と肩をたたくと、振り向いた悟空はちょうどあくびをしていたところだった。
「……ハヨ」
「寝不足?」
「んー……」
「何? 緊張して眠れなかったとか?」
笑いながらからかうように言ってみる。
今日はキスシーンの撮影がある。このドラマシリーズがデビュー作と言っていい悟空は、キスシーンなんて初めてのはずだ。
「そんなんじゃねーけど……」
てっきり怒り出すかと思ったのに、悟空はけだるげに返事をする。いつもと様子が違って、――ほんのりと色気のようなものを感じて、不覚にもどきりとしてしまった。
いけない。緊張しているのは自分の方かもしれない。
「ま、とにかく今日はよろしくね」
取り繕うように言って、はい、とガムを渡す。
「ん?」
「エチケット。食べておいて」
「あ、うん。わかった」
少し頬を染めてガムを受け取る悟空を見て、何だかほっとした。いつもの悟空だ。
今なら、からかったら怒るだろう。からかわないけど。それは、怒らせたくないからではなくて、照れた顔が可愛くてまだ見ていたいから。
だけど、ひそかな楽しみはすぐに遮られた。――こちらに向けられる、鋭い視線によって。
「……ねえ。あの人、今日、こっちで撮影なかったよね。……見学?」
悟空の背後にちらりと視線をやって、こっそりと尋ねる。
「……たぶん」
そこに誰がいるのか、見なくてもわかったのだろう。悟空は振り返りもせず、なぜか溜息をつく。
――玄奘三蔵。
会うのはこれが初めてだ。役者として、一度は共演してみたいと思っていた。だからこのドラマのオファーがあった時、一も二もなく引き受けたのだが、脚本を見たら一度も絡みがなくて残念に思っていた。
それにしても、噂通りの人物らしい。無造作に見える立ち姿がどこにも隙がなく、ただそこにいるだけで周囲を圧倒するオーラを放っている。スタッフもがちがちに緊張しているのがこちらまで伝わってくる。
「向こうの撮影、早く済んだのかな?」
「……今日は中止になったって聞いた」
「ふーん。どうして見学なんて来たんだろ」
「……さあ」
悟空らしくない歯切れの悪い返事だった。なぜだろう。そういえば、悟空は一度も三蔵の方を見ていない。シリーズ前作から共演しているのだから、二人は親しいはずなのに。
疑問を口にする前にスタッフに呼ばれたので、結局、理由を聞くことはできなかった。
――というか、結果として、聞く必要がなくなった。
一発撮りで、と悟空がなぜか必死で監督に訴えた例のシーンの撮影が無事「カット! オーケーです」の声で終わった瞬間、その悟空が凄い形相で駆け寄ってきて有無を言わさず馬車の陰に引っ張り込まれた。
そして、真っ赤な顔で怒鳴られる。
「…っ! オマエ! 舌入れんなよ!」
わー、すごい剣幕、と他人事のように思う。
うぶな反応をもうからかう気にもなれなかった。たぶん今、自分はちょっとやさぐれている。
「だって」
きつく編んだ三つ編みをほどいて、手櫛で髪を梳きながら答える。
「アンタが口開けてたから」
キスをした瞬間、悟空は誘うように唇を開いた。だから、つい。
もし無意識だというなら、悟空はよほどそういうキスをされ慣れているのだろう。どこかの誰かに。
そんなキスのやり方をいったい誰に教え込まれたの、なんて意地悪な質問は、可哀想だからしないであげるけれど。
「それより、ガム食べなかったでしょ。煙草臭かった」
「言いがかりつけんなよ。俺、煙草なんか吸わな……」
それまで絶句していた悟空は、反論しかけて、再び絶句した。自分が言ったことの意味に気付いたのだろう。
悟空が煙草を吸わないことくらい、本人に言われなくても知っている。
――そして、誰が煙草を吸うかも。
くるりと悟空に背を向けて、歩き出しながら「あーあ!」と空に向かって大きな溜息を吐き出した。
ちぇっ、と思う。
悟空はいかにも男の子という感じで、素直で単純で少し子供っぽくて、くるくる変わる表情は目を惹かれずにいられなくて、イロコイ的な意味で女慣れしてないところは可愛いし、着替えを見られるシーンでは演技じゃなくて本気で赤面していたのも微笑ましくて。
要するに、カレシ候補としてお買い得だと思っていたのに。
……もう売約済みだったわけだ。
視線の先に三蔵の姿が見える。
さっきの悟空の言葉は彼に聞こえていただろうか。……まあ、どちらでもいい。演技とはいえ悟空の唇を奪った女を、彼は許してくれそうにはないから。舌を入れたか入れないかなんて問題ではない。
「お疲れ様でーす」
にっこり笑いながら、睨め付けるような視線の三蔵の横を通り過ぎた。
あー怖い。でも見逃してよ一度くらい。アナタはこれからも何度だって悟空にキスできるんだから。ねえ?