06/04/29〜06/05/07
GWの過ごし方


4月29日(土) 晴れ

 鳴りやまないピンポンラッシュに音を上げて悟浄が渋々開けた玄関の扉の前に立っていたのは予想に違わず悟空だった。
 朝の八時。
 家に帰ってきたのはその一時間前で、つまり、たった一時間の睡眠で悟浄は叩き起こされたのだ。これで不機嫌にならない方がおかしい。
 しかし訪問者も、悟浄に負けず劣らず不機嫌な顔をしていた。
 悟浄はため息をつく。
「……痴話喧嘩のたびにうちに来るのはやめろ」
「そんなんじゃねーよっ」
 悟空はむきになって否定するが、当事者は大抵認めないものなので、悟浄は取り合わない。
「俺、あいつに会うといつもすげぇ目で睨まれるんだけど?」
「それは単に悟浄が嫌いなだけじゃねぇ? 俺のことは関係ねーよ」
 なぜそこだけ冷静に分析してみせるのか。ああ、確かに悟浄は悟空の「お相手」とは反りが合わない。だが、あの視線の理由がそれだけとも思えなかった。
「おまえって……」
 なに? と瞬きする悟空を見て、悟浄はその先を言う気が失せる。
「いや、三蔵も意外に報われてねーのな」
「は?」
 同情するような悟浄の発言に、悟空は不快な顔をした。
 結局、いつものように家に上げることになった悟空は、いつものように一日中ゲームをして昼寝をして悟浄にかまわず気ままに過ごし、いつものように夕方にはけろりとした顔で自分の家に帰っていくのだろう。
 ――そして悟空の機嫌が直っていてもいなくても悟浄は三蔵の不興を買うのだ。



4月30日(日) 曇り一時雨

「たいくつ」
 悟空は憮然とつぶやく。
 もう一時間、同じことを思い続けている。
「三蔵、たいくつ」
 一時間、ずっと我慢していたのだ。優しくしてくれたっていいと思うのに、三蔵は悟空に冷たい視線を向けた。
「うるせえ」
 ――図書館なんて嫌いだ。
 三蔵はまたすぐ手元の本に視線を落とし、悟空を意識の外に切り離した。
 もしも今、地震が起きたら――なんて益体もないことを悟空はぼんやり考える。
 三蔵の背後に並ぶ高い本棚からは、本がバサバサ降ってくるだろう。三蔵なんて、本に埋もれてしまえばいい。
 でも、本の下から三蔵を掘り起こすのは大変だから、地震が起きる前に、図書館を出るべきなのだ。
「三蔵、帰ろう」
 無視。
 どうしてか悟空は、一人で帰るという選択肢が思い浮かばなかった。
「三蔵って」
「……うるせえ」
「なあ、帰ろう」
「静かにしろ」
「さんぞー」
「うるせえ! 一人で帰れ!」
「――そんな冷たいことを言ってはいけませんよ」
 悟空が言い返すより早く、涼しげな声が風のように吹き込んだ。
「あ、八戒」
「こんにちは。ご利用ありがとうございます」
 友人ではなく、「営業用」の顔で微笑みながら、八戒は玄関口を指さす。
「一人なんて言わず、ぜひお二人揃って、今すぐお帰りください」
 そのこころは――レッドカード、退場。



5月1日(月) 曇り

 ジリジリと鳴り響く目覚まし時計を手さぐりで止め、三蔵は同じベッドの中の悟空を蹴飛ばす。
「起きろ」
「……うう……眠い……」
 悟空はもぞもぞと身体を動かすものの、布団から出る気が起きない。
「なんでゴールデンウィークに講義があるんだよー」
 いったいどんな嫌がらせなのか。しかも、出欠が成績に大きく響くものだから、優等生ではない悟空は自主休講というわけにもいかない。
 ひとしきりうーうー唸って、あきらめて悟空は布団から這い出した。
「あーあ」
 ため息をつきつつ隣を見れば、悟空を起こした三蔵自身が再び睡魔に襲われている。
「さんぞー、起きろよ」
 しかし揺さ振った身体の下からは、衝撃的な答えが返ってきた。
「……俺は休みだ」
「何だよそれズリィ!」
 一気に目が覚めた。
 不幸を分かち合う相手がいればこそ、行きたくもない大学に行く気力も湧いてこようというのに。味方だと思っていた相手が実は敵だったなんて。
「裏切りものー!」
「……ならお前も休めばいい」
 寝惚けた声でそう言ったかと思うと、三蔵は悟空をベッドの中に引きずり込んだ。さらに、ぎゅう、と抱きしめるものだから、悟空は身動きが取れなくなる。
 冗談じゃない。
「休みのくせに邪魔すんな!」
 たとえそれが八つ当たりでも、休める者と休めない者のあいだには、深くて暗い溝があるのだ。



5月2日(火) 曇り

「ただいまー」
 家に誰もいなくても、声をかけるのは悟空の口癖だ。
 鍵を開けて中に入って、一直線にリビングに向かった悟空は、荷物を床に放り出してパタリとソファに倒れ込んだ。
「疲れたー」
 もう1ミリたりとも動きたくない。
 三蔵の部屋に転がり込んでいる身分としては、家事はできるだけやるようにしているので、今も本当は起き上がって洗濯とか夕飯の支度とかをしなければいけないと思うのだけれど――どうにも億劫でそんな気になれない。明日は休みだし、と思うとなおさらだ。
「……眠い……」
 つぶやいた時には、もう半分夢の中にいた。

 次に目を開けたら、真正面に三蔵の顔があった。
「…………?」
「飯だぞ」
 慌てて起きた悟空は、テーブルの上を見て驚く。
「三蔵が作ってくれたんだ、サンキュ」
「時間があったからな」
「でも――なんでこんなに多いの?」
 小さなテーブルは皿で埋め尽くされていた。いつもの夕飯の二倍の分量はあるだろうか。特にお祝い事があるわけでもないのに。
 困惑はやがて疑念に変わる。
「……何かたくらんでるんだろ」
「いや」
「ほんとう?」
 悟空は疑い深い目で三蔵を見つめる。
「食わねぇのか?」
 三蔵は尋ねた。この問いに、答えは一種類しかない。
「食う」
 そうして悟空が箸を持ったのを見計らったように、三蔵がなにげなく付け足した。
「――別に、お前を太らせて食おうなんて思ってない」



5月3日(水) 晴れ

 目覚めたら、ひとりぼっちのベッド。ぬくもりさえ残ってない。
 やけにはっきりと覚醒してしまったことが、こんな時ばかりは恨めしいと悟空は思う。
 三蔵と暮らすようになってからというもの、毎日一緒に寝起きしているから、たまにベッドに一人だと心がさわさわした。
 三蔵は三蔵の生活があって、悟空は悟空の生活があって、それはあたりまえのことで、一人でいることが苦痛なわけではない。
 だけど、ひとりの朝は――さびしい。
 追い立てられるようにして、悟空はベッドを出た。
 三蔵のいない部屋は、がらんとして味気ない。
「……腹減った」
 冷蔵庫を覗くと、三蔵が昨夜盛大に使い切ったようで、ほとんど何もない。後で買い物に行かないと、と悟空は心にメモをして、一つだけ残っていた卵を取り出す。
 目玉焼きを作ろう。フライパンを火にかけて、油をひいて、卵を割る。
「あ!」
 失敗した。黄身が潰れてしまった。
 フライパンの上で黄身と白身が混ざっていくのをじっと見つめていたら、どんどん気分が沈んできた。
 悲しい。目玉焼きが食べたかったのに。
 目玉焼きくらいで、と思うが――いや、そうだ。
 本当に悲しいのは、目玉焼きではない。
 ……三蔵が、ここにいないから。
「――よし。」
 悟空は火を止めて、目玉焼きのできそこないをテキパキと皿に移した。
 塩をふって、「いただきます」、一口で食べる、「ごちそうさま」。
 そして、着替えてすぐに家を出た。
 行き先は大学の研究室。――三蔵のところ。
「どうした?」
 三蔵はきっと訝しげにそう言うから、一緒にお昼を食べようと言おう。



5月4日(木) 晴れ

「んー、いい天気!」
 カーテンを開け放って、悟空は思いきりのびをした。
 空は真っ青。雲ひとつない。
「三蔵、どっか行こーぜ」
 悟空は部屋の中を振り返り、満面の笑顔で三蔵を誘う。
 が、返ってきたのはつれない言葉だった。
「却下」
「なんで。こーんな晴れてるんだから、外行かないと損だって」
「めんどくせぇ」
 三蔵の腰は重い。
 元々が出不精だ。そのうえ、今は連休の真っ直中。どこもかしこも人が溢れているのは目に見えている。三蔵がいつにも増して出かけたがらないのは当然だ。
 しかし、悟空にだって言い分がある。
 連休の真っ直中。ということは、つまり、明日の講義を気にせず遊べるチャンス。しかも、外は快晴。そうなったら、結論は一つだ。遊びに行きたい!
「なぁ、さんぞー」
 悟空はちょっとだけ「おねだり」の声でうったえてみる。
 効果はあった。
「……どこだ」
 ぱっ、と悟空の顔が明るくなる。
「えーと、海!」
「馬鹿猿。泳ぐ気か。まだ五月だぞ」
「なら、とりあえずドライブ」
「……俺がペーパードライバーだってことは覚えているんだろうな?」
「あっ、今のなし! ……じゃなくて、んー、あ、そうだ、新しくできたあの公園! スポーツいっぱいできるとこ」
「言い忘れてたが、電車は絶対乗らねぇぞ」
「えー!」
 それじゃあどこにも行けない。
 悟空は抗議の声を上げるが、こればかりは三蔵も譲るつもりはないらしい。
 けれど、悟空もあきらめるつもりはなかった。せっかく三蔵が出かけてくれる気になったのだ。
 こうなったら、歩いて行けるところでもいい。
「……だったら河原で花見」
「花?」
「春だし何か咲いてるだろ、きっと」
「花が見たいならここでいいだろ」
 そう言って三蔵が指さしたのは、ベランダ。――確かに、見渡す景色の中に花は見える……が。
 ……悟空は肩を落とした。へなへなと身体のちからが抜ける。
 三蔵は、そうまでして出かけたくないのか。いっそあきれた。怒る、とかより、あきれる。
 もう、悟空の負けでいい。しかたない。
 悟空はため息をこらえて提案した。
「じゃあ、これが最後な。ベランダでひなたぼっこ」
 ――ようやく、三蔵がマルをくれた。



5月5日(金) 晴れ

「なあ」
 携帯の向こう側で悟浄が思い詰めた声で言ったとき、悟空はまだ何の予感もなかった。
「あいつの運転ってどうなの?」
 文脈はないが、この場合「あいつ」とは三蔵のことである。
 この時点で、悟空はかなり嫌な予感を覚えた。
「……何で」
「八戒にも聞いたんだけどよ、乗ってみればわかります、ってしか言わねーんだよ」
 悟浄は悟空の質問からはちょっとはずれた答えを返した。
 そうではない。悟空が知りたいのは、もっと根本的な理由である。悟浄が悟空に、そして八戒にそんなことを尋ねるに至った原因だ。
「何でそんなこと知りたいの?」
「その前に、俺の質問の答えは?」
 悟空はしばし沈黙した。
「……知らない方がいいよ。八戒もそういう意味で言ったんだと思う」

 悟空の予感は、すぐに現実となった。
「出かけるか?」
「えっ、ほんと?」
 連休三日目にしてようやく、待ち望んでいた言葉を三蔵からもらえて、悟空は喜色をあらわにした。
 が、笑顔は一瞬でこわばる。――三蔵の手にある物体を見て。
「……もしかして、三蔵が運転、するの……?」
 記憶にはないが、あれはきっと悟浄の車のキーなのだろう。
 悟浄があんな質問をした理由は、考えればすぐにわかることだった。わからなかったのは、きっと悟空の頭が考えるのを拒否していたからだ。
「お前がするか?」
 三蔵は車のキーをチャラチャラと揺らしてみせる。
 法律が許せば、そうしたいくらいだ。いや、そうでなくても――と、ふと出来心で、免許を持ってない自分の運転と、三蔵の運転を頭の中で比べてみた悟空は、余計に気が滅入った。
「あの、さ。八戒も誘わない?」
 運転手として、だ。八戒にしてみれば迷惑な話だろうが、悟空も必死だ。
「誘ってどうするつもりだ」
 対して三蔵の答えはまっとうだ。分類すると「デート」にあてはまるお出かけに、第三者を入れてどうしようというのか――悟空に返せる言葉はない。
 代わりにため息をついた。
 一度聞いてみたかったことがある。と、悟空は切り出した。
「――三蔵さ、俺のこと怖がらせて楽しい?」
 三蔵は、少し考えて答えた。
「楽しいな。――お前が怯える顔は、結構そそられる」
 聞かなきゃよかった。悟空は後悔した。



5月6日(土) 薄曇り

 部屋の隅っこのソファで、悟空はのびていた。
 眠ってはいない。けれど、いつ眠ってもおかしくない。そんな調子で、まあつまり、ぐでっとしていた。
 この部屋に一つだけのソファは、三蔵と悟空が二人で暮らすようになってから購入したもので、とても寝心地がよい。あんまりよすぎて、人を堕落させる。何もしたくない。
 しかも悟空は、ソファをわざわざ窓際に寄せて、部屋で一番快適な場所を独り占めしていた。
 薄い雲に遮られた日差しはぬるく、ちょうどいいぬくもりをもたらしてくれる。カーテンを揺らす風は、少しだけ涼しい。
「……あー、これで飯が降ってきたら最高……」
 悟空の「幸せ」の公式は単純だ。
 居心地のいい場所、おいしいご飯、そして三蔵がいればいい。
 みっつが揃えば完璧。でも、とりあえずひとつでも幸せ。
 ああ、だけど、ひとつよりはやっぱりふたつがいいというものだ。
 ご飯は降ってこないだろうけど、三蔵は近くにいた。
「さんぞー、こっち来ない? キモチいーよ」
 悟空は誘惑してみる。
 三蔵は読書の真っ最中だ。研究の資料らしい、小難しいタイトルが背表紙に書いてある。
「な、ひとやすみ」
「――誘ってるのか?」
 三蔵が本から顔を上げて、目を眇める。そして無造作に眼鏡を外した。――そのしぐさこそ、誘ってる、とひそかに悟空は思う。
「……する?」
「どっちでも」
「じゃあ、俺もどっちでも」
 二人分の体重で沈んだソファから聞こえる会話は、次第にひそひそ声になり、やがて消えた。



5月7日(日) 曇りのち雨

「遅ぇ!」
 携帯の電源を入れた途端、待っていたかのようにかかってきた電話に出てみれば、第一声がこんな罵倒だった。
「ご……ごめん」
 悟空は気圧されて、思わず謝る。
 その後で、ようやく声の持ち主が悟浄であることに気付いた。ディスプレイに表示される発信者の名前を見る余裕もないくらい、慌てていたのだ。
「やっっと繋りやがった。お前、一日中何してたんだよ」
「えーっと、それは、まあ、いろいろ……」
「はあ? 何だそれはっきり言えはっきり」
 はっきり言いたくないのだという気持ちを汲んでくれないだろうか。無理か。
「……だから、まあ、寝てたりとか……」
「真っ昼間に?」
「いーだろ別に」
 そういう気分になったのだからしょうがない。
「しかもお前、朝、俺の電話切りやがっただろ」
「え?」
 そんな覚えはなかった。悟空は朝の記憶をたぐりよせてみる。
 ――ああ、それは三蔵の仕業だ。
 言い訳できないので、とりあえず謝っておくことにした。
「ごめん。で、何か用?」
「用があるから電話したんだろうが。なのにてめーはずっと電源切りっぱなしで捕まりゃしねぇ」
 悟空の言葉の選び方が悪いのか、悟浄の話はなかなか進まない。
「あー、だから悪かったって!」
 で、何の用。
 再度尋ねると、ようやく悟浄は本題に入った。
「八戒が、夜メシ食いに行かねーかって。空いてるか?」
「夜? ってもうすぐだよな。……わっ、なに、」
 かと思ったら、今度は別のところから邪魔が入るのだから、ついていない。
「……何だ?」
 そこは聞き流してほしい。
「いやこっちの話…っ、えっと……」
「空いてるか空いてないかだからすぐ答えられるだろ」
「……空いてるような……空いてないような……」
 予定はない。けれど、予約されているも同然だ。
「どっちだよ」
 今もう、それは悟空の背後から迫ってきている。
「――あっ」

 そんな気になる声を最後に、なぜか電話の声が途切れた。
 悟浄はしばらく無言で待っていたが、悟空からは何の反応もない。
「……どうした?」
 やはり返事はない。
 悟浄はじっと耳を澄ませた。
 電波状態が悪いわけではなさそうだった。携帯からは微かに声と物音が聞こえる。
「おーい、ごーくーうー」
 呼びかけに答えたのは、悟空ではなかった。
「――取り込み中だ」
 三蔵の声がそう言って、勝手に通話を切った。
 悟浄はあっけにとられる。
 ――なぜ三蔵が?
 いや、一緒に暮らしているのだから、そばにいてもおかしくないだろう。
 ――取り込み中?
 取り込み中ってのは何だ。どういう意味だ。
 悟浄はひとまず、電話をかけ直してみることにする。――電源が切られていた。
 ……つまり、何だ、この状況は……。
 じわり、じわりと、沁み込むように悟浄は何かを理解してきた。
 ……要するに、何か、あれか。
「昼間っからナニしてんだてめぇら!」
 悟浄のつぶやきは、残念ながら相手に届くことはなかった。


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