寿蔵碣銘
生前、若冲が相国寺に建てた墓に刻まれた銘文。明和3年(1766)に建立。
この文から、若冲の画業に対する移り変わりを窺い知ることが出来る。尚、寿蔵(じゅぞう)とは生存中に建てる墓のこと。
▼寿蔵碣銘より抜粋
「狩埜氏の技を為す者に従ひてあそび、既に其法に通ずるや」 狩野派に学び、既に画法を獲得した。

「一日(あるひ)、自ら謂いて曰く、是の法は狩埜氏の法なり。即ち吾れこれを能くするも、狩埜氏の枠を越えず」 あるとき、若冲は考える。狩野派の画法を獲得しても、狩野派の枠を越えることはできないと。

「如かず、舎(す)てて宗元に之くを。是によりて宗元画を取りて之を学ぶ。臨移すること十百本を累(かさ)ぬ」 狩野派を捨て、宗元画を学ぶことにした。模写はおびただしい数に上った。
しかし若冲は、人が描いたものを自分がまた写ししてるにすぎないことに気付く。
中国人はものそのものを見て描く。それなのに自分はその絵を真似て描くのみ。どちらが優れているかはいうまでもない。
そこで、直接見ることができる鶏を庭で飼い観察、写生するようになった。
藤景和画記
大典の詩文集「小雲棲稿」巻八に所収された一文。若冲について書かれている。
*「藤景和」とは、伊藤の「藤」に字(あざな)である「景和」をつけた呼び方。
▼若い頃の若冲に関する記述
「少して学を好まず、字を能くせず、凡百の技芸、一も以す所なく」 学ぶことが嫌いで、書も下手、技芸に秀でたところなく、ひとつも身に付けたことがない。

「凡そ声色宴楽、人の娯しむ所、一としてしたがう所無く」 芸事も全く駄目で、娯楽も一切受け付けなかった。
▼動植綵絵についての記述
「平安の藤景和、丹青を以て家に名あり。まさに花鳥三十幅を作り、以て世に遺さんとす。而して十有五幅既に成る。余ために其の題を命ず」 若冲が花鳥画三十幅を作って後世に伝えたいと望み、そのうち十五幅は完成している。

さらに大典は、十五幅について一図ごとに詳細な内容を記し、それぞれに漢字4文字の題を命名している。
*この十五図のうち、最終的に収められたのは十二図。残る三図は水墨の花鳥画だった。当初、三十幅には水墨画も含まれる予定だった。
小雲棲稿
「雀が売られているのを見た若冲は、焼き鳥にされるのを可哀相に思い、数十羽を買って庭に放してやった」
*「幸に君斯(こ)の心を拡げて、大悲開士(菩薩)に同じかれ」と大典は結んでいる。






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