馬の作品に関するメモ書き
大阪府豊中市の大阪大構内にある待兼山5号墳(5世紀末)で、最古級の馬を曳く人物形と、馬形の埴輪がセットで出土し、20日、同大学が発表した。
2005年度の調査で、直径15メートルの円墳の周溝から埴輪片約5000点が出土、馬曳人形と馬形埴輪の破片はまとまって見つかった。復元した結果、馬曳人形(高さ64センチ)は左手を上げて手綱を曳き、顔に入れ墨を線で刻んでいた。
馬形(高さ78センチ、長さ98センチ)は鞍やひづめなど細部まで表現されており、福永伸哉・大阪大大学院教授(考古学)は「大型前方後円墳の出土品と比べても遜色(そんしょく)のない出来栄え。新しい習俗の乗馬を取り込んだ埴輪の祭りが、広く浸透していたことがわかる」。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070320-00000418-yom-soci
2007年3月21日付読売新聞。
府教委は8日、5世紀中ごろの木製の鞍を見つけたと発表した。国内最古級という。同遺跡は朝廷に馬を供給し、日本書紀にも登場する渡来系氏族「河内馬飼」の牧場跡とされ、これまでに同時期の木製の鐙や鉄製の轡、馬の全身骨格が出土。
出土したのは鞍の背もたれ部分「後輪(しずわ)」で幅46センチ、高さ27センチ、厚さ5センチ。黒漆塗りで、表面が摩耗し、実際に使用していたとみられる。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20060808AT1G0802Q08082006.html
2006年8月8日付日経新聞。
奈良県平群町の剣上塚古墳(直径23メートル、円墳)で、5世紀後半とみられる馬具の飾り金具が見つかったことが7日、分かった。日本で出土した馬具としては最古級。
飾り金具は「剣菱形杏葉(けんびしがたぎょうよう)」3点で、いずれも長さ約11センチ、最大幅約6センチ。鉄板に金銅板をかぶせ、びょうで留めていた。全体的にさびているが残りは良く、似たタイプが朝鮮半島南部で発掘されているという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060707-00000017-kyodo-soci
2006年7月7日付共同通信。
東京国立博物館常設展にて。「近代美術」に展示。
木彫。たてがみをなびかせ、躍動する馬。全身これリアル。作者は、リアルを追及する余り血管の浮き出し具合まで気が行った様子。腹部を走る血管が目に付く。
一部、ひび割れているのが気になった。明治 19世紀
後藤貞行は、軍馬局に勤めながら彫刻を行う。明治天皇所有の金華山号の彫刻を手掛ける。明治23年(1890)、東京美術学校へ。高村光雲監督の元、皇居前に立つ楠木正成銅像の馬の原型を制作。創作活動のため、馬の解剖を行ったりしたらしい。
葵祭(15日)に先立って京都市左京区の御蔭神社と下鴨神社で12日に行われる御蔭祭で、行列の馬を飾る唐鞍が42年ぶりに復活する。黒漆や金箔、螺鈿を施した飾りが馬の体を彩り、きらびやかな平安絵巻を再現する。
下鴨神社によると、唐鞍は平安時代の儀式の飾り馬に使われた中国風の馬具で、天皇行幸などに使われた。葵祭でも勅使が乗る馬に使われている。
御蔭祭の唐鞍は江戸時代前期に東山天皇が奉納し、1964年まで使われてきた。しかし傷みが激しく、馬の列も途絶えたことからその後、姿を消していた。
今回、2年がかりで修復され、平安王朝の華やかな装飾がよみがえった。鞍には黒漆が塗り直され、螺鈿の一部も張り替えられた。馬の胴を覆う革製の大なめや顔にあてる銀面、馬の背に乗せる雲珠、首にぶら下げる頸総に、金箔と銀箔が押し直された。
御蔭祭は12日正午から御蔭神社で神事があり、続いて左京区北大路下鴨中通から行列が出発。河合神社を経て下鴨神社に至る。神霊を乗せる神馬も復活する。
2006年5月11日付京都新聞。
「流鏑馬神事」が3日、京都市左京区の下鴨神社糺の森で営まれた。
流鏑馬は飛鳥時代の7世紀ごろから行われてきたとされる神事で、明治初期に一度途絶えたが、約100年後の1973年に古式の作法に基づいて復活した。
参道横の馬場(350メートル)では、弓馬術小笠原流一門の射手が平安装束を身にまとって登場。全力で馬場を駆け抜ける馬上で巧みに弓を引き、50センチ角の3つの的を次々と打ち抜いていくと、見物客からは拍手とどよめきがわき起こっていた。
2006年5月3日付京都新聞。
5日に行われる神事「賀茂競馬」を前に、馬の状態を確かめる足汰式が1日あり、10頭の馬が境内の馬場を疾走した。
競馬はもともと宮中で行われていた神事。1093(寛治7)年に天下泰平や五穀豊穣を祈願して上賀茂神社に移して行われるようになった。市登録無形民俗文化財で、乗尻と呼ばれる騎手は神社の神職を代々務めた社家の子孫が務める。
境内の小川で「足洗の儀」などの神事があり、神職が馬の毛並みや歯を見て、健康状態や馬齢を確認した。続いて、150メートルの馬場で1頭ずつ走る素駆で乗尻の姿勢や馬の速さを比べ、同じような状態の2頭で速さを競う競馬を行った。
2006年5月1日付京都新聞。
小牧市教育委員会は1日、奈良から平安時代に作られたとみられる「土馬」の頭部を出土したと発表した。土馬は奈良・平城京などで多く見つかっており、市教委は「律令制度の全国波及とともに都の風習がこの地まで広がったことを示している」と話している。
今回最大の発見である土馬は、遺跡東部の外堀付近で見つかった。比較的低温で焼かれた土師器質で、大きさは鼻先から後頭部までが約5センチ、頸部から最頂部が約7センチ。耳は欠損しているが、焼く前にへらで描いた顔の表情やたてがみがはっきり見て取れる。頸部から下は見つからなかった。
市教委によると、土馬は6世紀後半から10世紀初頭までの遺跡から出土しており、律令制度とともに大陸から導入された思想に基づく祭祀用品。当時は河や雷の神が馬を好むとされ、雨乞いの儀式に用いられたとする説があるという。県教委文化財保護室は「土馬の県内での出土例は少なく、当時の人々の暮らしぶり解明にとって貴重な発見だ」と話している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060302-00000014-mailo-l23
2006年3月2日付毎日新聞。
東京国立博物館常設展にて。東洋工芸 新春特集陳列「吉祥」(2006年1月2日〜2月12日)に展示。
文房具の一種の書鎮。座る馬の背というか腰辺りに猿。馬は振り返り猿を眺めている。猿は孫悟空系。顔に愛嬌あり。清時代・19世紀
69-70:馬上は中国で間もなくという意味であり、猿を意味する猴は侯と発音が同じであることから、間もなく侯に〜領土を与えられ諸侯に取り立てられることを意味する。出世で吉祥。馬上の猿は、普通は猿ではなく猴が描かれる。
東京国立博物館常設展にて。中国の絵画 新春特集陳列「吉祥―歳寒三友を中心に―」(2006年1月2日〜1月29日)に展示。
眠る馬の背に手長猿。繊細な描写がなされており、馬には「夜目」まで付いている。明時代・15〜16世紀
東京国立博物館常設展にて。歴史資料 日本の博物学シリーズ 特集陳列「江戸の見世物」(2005年12月23日〜2006年1月15日)に展示。
両国で興行されたという曲馬*1各種。走る馬の側面にしがみついたり、走る馬から走る馬へ飛び乗りをする図が見られた。天保14年(1843)
*1:上方から始まり、文政頃より江戸にも一座が立ったとのこと。幕末明治以降は、西洋曲馬に人気が取って代わられた。 関連:明治4年、スーリエ率いるフランス曲馬団が招魂社・浅草寺境内にて興行。この様子を三代広重が描いたりしてる。翌年には第1回京都博覧会、新潟でも興行あり。
古墳時代に朝廷の馬を生産、管理した一族「河内馬飼」の牧場が周辺にあったとされる大阪府四条畷市の蔀屋北遺跡で、馬の口にかませる鉄製の轡の一部が見つかり、同府文化財保護課が11日、発表した。朝鮮半島の百済で5世紀前半につくられ、馬とともに運ばれたと考えられ、国内最古級とみられる。
口にくわえるハミが左右にずれないよう、両端にシカの角を付けたヒョウ轡と呼ばれる種類。大人の馬には小さく、子馬用らしい。国内2例目の出土。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060111-00000162-kyodo-ent
2006年1月11日付共同通信。
神奈川県立近代美術館 鎌倉「昭和の名作展 1930年代から1950年代まで」(2005年11月23日〜20061月22日)にて。数多くの馬絵を描いた、海老原喜之助による作品。
馬の埋葬。土に横たわる遺骸には骨が浮き出しており、取り囲む家族と思しき人々の間には悲しみが漂っている。ような気がする。1951年
17、18の両日、岩手、宮城両県内で実施した。牛馬の守り神として馬小屋に猿の頭骨などをまつった厩猿信仰は、生活様式の変化とともに忘れ去られており、関係者は「民俗学、動物学的にも貴重」と情報提供を呼びかけている。
調査したのは同大研究所の川本芳助教授、毛利俊雄助手、中村民彦共同研究員。前沢町内の住宅では、仏壇に納められていた猿の左手(または足)が見つかったほか、胆沢町の民家の倉庫からはミイラ状態の頭骨を確認。東北でこれまでに確認されている厩猿は岩手29、秋田19、宮城5、青森1に上る。
厩猿信仰は牛馬の無病や安産、火災防止、五穀豊穣などを祈願した民間信仰。古い時代の人間と家畜とのかかわりを知るうえで重要という。途絶えたのは、自然環境の悪化で猿が少なくなったことが一因と指摘している。
中村研究員は「厩猿信仰は各地で伝承形態が違い謎が多い。馬産地の岩手でも記録がないため早急に調査し記録を残したい」と話している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051220-00000120-mailo-l03
2005年12月20日付毎日新聞。
埼玉県立近代美術館「ゲント美術館名品展」(2005年10月29日〜12月25日)にて。レアリスムから自然主義までに展示。
首根っこを襲わんとする鹿毛馬に、のけぞる栗毛馬。闘争心溢れる2頭が、山のような塊の如く表現されています。身体も脚も太く逞しい*1。両馬共たてがみを結われ、尻尾が丸くまとめられています。傍らには、綱を持った付添い人あり。馬同士が、好き勝手に暴れまくるというわけにはいかない様子。
闘いの場には影がのびています。青空が広がり、オレンジ色の屋根に白壁の家々が並ぶ背景とのコントラストが際立つ。明るい空の下にもまた、馬が待機しているのですが。油彩・カンヴァス
*1:「ブラバント」という、フランドル地方原産の重種馬がいるらしい。ただ、基本的には農耕馬だったようで、闘馬に使われていたかは不明。単にモデルにしたとか?
埼玉県立近代美術館「ゲント美術館名品展」(2005年10月29日〜12月25日)にて。レアリスムから自然主義までに展示。
草がまばらにはびこる荒地。張られた天蓋の元に、馬が集っています。馬たちは佇んだり、他馬の背に頭を乗せたり、近付く犬に蹴る素振りを見せたり。茶色の群れの中には、1頭だけ黒と白の斑馬が混ざっています。手前に目を向けると、つながれたロバが2頭。それぞれ白と茶の毛色でボサボサな毛質、どちらも痩せているような。心なしか目元が寂しそう。馬もロバも鞍を装着。借り手がいつ来てもいいよう準備万端といった所か。店番?のおばさんや馬車も見える。油彩・カンヴァス
千葉市美術館「江戸絵画のたのしみ」(2005年10月25日〜12月4日)にて。愉快な動物たちに展示。
双幅。馬を斜め前、斜め後ろから描いています。略した感じと割れた筆致が特徴。馬体は白抜き、たてがみと尾はたっぷりとした薄墨で表現。目に掛かる程長く、ボサボサなたてがみに野馬の匂い。短い脚に在来種の匂い。
千葉市美術館「ミラノ展」(2005年10月25日〜12月4日)にて。スカラ座と19世紀のミラノに展示。
疾走する白馬を中心に据えた作品。緑の地平線、真っ青な空、馬の白が映える。気になるのは、主役である馬の動き。前脚と後脚の間に矛盾があるような。それぞれの動きは間違っていないのだけど、組み合わせると何だかおかしいぞという。全体がリアルな描写なだけに、リアルに見えない部分が目に付いてしまいました。ミラノ市立近代美術館蔵 1886〜1887年 油彩・カンヴァス
東京国立博物館常設展にて。「浮世絵―人びとの絵姿」(2005年11月1日〜11月27日)に展示。
怪力の遊女お兼が、暴れ馬を止めているの図。馬は鹿毛または栗毛のようで、尻っぱねの真っ最中。馬体につけられた段構えの影が、躍動感を表現。西洋人を思わせる瞳、カールしたたてがみや尻尾が異国情緒を漂わせています。馬や背景は、西洋の銅版画の図柄を拝借とのこと。江戸・19世紀
府中市美術館「ベルギー近代の美」(2005年10月15日〜11月27日)にて。ベルギーにおける展開に展示。
キュビスム的手法で描かれた作品。茶色の馬が2頭佇んでいます。木々には三角形の緑がしなり、空や大地、家々は面を強調した形状に変化。それらが馬を取り囲むように積み上げられています。1920年 油彩 カンヴァス
9日、神馬「神山号」の代替わり神事が行われ、1997年3月から神馬を務めた4世が19歳で引退、14歳の5世にバトンタッチした。新しく就任した5世は、千葉県の中山競馬場から寄贈された元競走馬。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2005110900155&genre=J1&area=K10
2005年11月9日付京都新聞。元競走馬って誰?馬名は「神山号5世」になってしまったようだが。追記:「誘導馬ふぁんくらぶ」のBBSを覗いた所、元競走馬=ラグビーカイザーなのではということになっていました。
平安時代初め(9世紀初め)の木簡が、奈良県香芝市の下田東遺跡から見つかった。遺言は板の片面の左側4行にわたり約60字が墨書きされていた。書いた人物の名前は「伊福部連豊足(いふきべのむらじとよたり)」とあり、「重い病気にかかって今にも死にそうなので、預かっている馬を飼えないため返上したい。もう、あなた様にお仕えすることができない」などと読めるという。同じような内容を表現を変えて書き加えた部分があり、推敲(すいこう)していたらしい。
2005年11月8日付朝日新聞。
古墳時代に朝廷の馬を生産、管理した一族「河内馬飼(かわちのうまかい)」の牧場があったとされる大阪府寝屋川市の讃良郡条里(さらぐんじょうり)遺跡で、製造途中とみられる古墳時代後期の鞍(くら)が出土していたことが3日分かった。
この一帯では馬の全身骨格や鐙(あぶみ)など馬に関連する遺物が多数出土しているが、鞍が見つかったのは初めて。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051103-00000068-kyodo-ent
2005年11月3日付共同通信。
大倉集古館「館蔵品による狩野派展」(2005年10月7日〜12月18日)にて。探幽登場に展示(展示は11月13日まで)。
57〜71歳の縮図を貼り合わせ、図巻としたもの。漢画は、駿馬を調教する胡人や撻靼人狩猟を写しています*1。馬が溢れんばかりに描かれており、連銭芦毛、青毛、鹿毛、月毛?、斑など様々な毛色を確認。客がいないのをいいことに数えたら172頭いました(数え間違い必至)。馬の尾の途中がぎゅっと結ばれていた。江戸・明暦4〜寛文12 1巻29図 紙本墨画淡彩
*1:巻頭より3図目の馬と胡人の図は「任氏子明」「月山道人」という印まで写す。原画には中国・元の画馬の名手、任仁発の印が捺してあった可能性がある。とのこと。
大倉集古館「館蔵品による狩野派展」(2005年10月7日〜12月18日)にて。探幽登場に展示(展示は11月13日まで)。
三幅対。桜に馬、呂洞賓*1、紅葉に牛。馬は2頭。黒い馬体に鼻梁白と、後ろ向きの白馬。黒馬は、何気に凶悪な目付き。気性難とみた。江戸・寛文12 絹本墨画淡彩
*1:唐時代の道士と伝えられる八仙人の一人。「龍虎金丹」の秘術を行う様子を描いているとのこと。
東京都美術館「プーシキン美術館展 シチューキン・モロゾフ・コレクション」(2005年10月22日〜12月18日)にて。フランス近代絵画 マネからピカソまでに展示。
白い農耕馬働くの図。馬の後部から捉えており、尻繋(多分)か飾りが見えています。で、荷物を背負いながら働いているのだけど、難儀だ。馬。彼方にポプラの木あり。1898年 多色石版画(4色刷り)
東京都美術館「プーシキン美術館展 シチューキン・モロゾフ・コレクション」(2005年10月22日〜12月18日)にて。象徴主義 ゴーギャンとゴッホに展示。
芦毛馬に乗った女と、後から鹿毛(栗毛?)馬に乗った男がつづく。行く先には、川の流れが横たわり、背後には海と漕ぎ出す船がある。女は腰に巻物をし、頭には被り物をつけている。男は腕を伸ばし、頭上の鳥に食物をやっている。全体を覆う色彩は、まさにゴーギャンといえる美しさ。
作品は、「文明に汚染された土地からタヒチ人が立ち去るというテーマのバリエーションか?」「白馬の人物は死霊の象徴?」等、色々推測されているらしい。個人的に気になるのは鞍の存在で、芦毛馬には鞍が装着されているのだけど、鹿毛馬には有るような無いような微妙な按配。描き跡がのこってるようにも見える。1901年 油彩・カンヴァス
国立西洋美術館常設展にて。
小さな宿屋の前で休息をとる旅人たち。鹿毛(栗毛?)と芦毛の馬2頭も、飼い葉を食しています。しかし、後ろに車を付けられたまま、人も乗っている状態なので、落ち着かないかも。いや、毎度のことで慣れっこだったりして。馬たちの脚は、職種を示すかのように太く逞しい。水辺や木々、通行人などの細かい描写が、ひなびた風景をよく表している。1645年 油彩・板
作者は、白い馬のモティーフがトレードマーク。そういえば、「栄光のオランダ・フランドル絵画展」で見たかも白馬。
東京国立博物館「華麗なる伊万里、雅の京焼」(2005年10月4日〜12月4日)にて。
輸出用金襴手とのこと。壺・瓶全体が色絵で埋めつくされており、色彩を含めとにかく派手。上下部分は牡丹の花が周回、蓋には金の鶏が鎮座する念の入れよう。中央に、桜の木々と戯れる馬が描かれています。馬の毛色は、茶、白と茶の斑、灰色に白の水玉、黒。たてがみは、所々に金があしらわれています。
江戸東京博物館「美しき日本 大正昭和の旅展」(2005年8月30日〜10月16日)にて。「旅のイメージ―川瀬巴水とその時代」に展示。
竹屋にて荷車をひいた馬が停まっています。馬は濃い茶色で背が低く、コンパクトな馬体。荷台では主人が昼寝中。
後ろには、束ねた竹が無数に立て掛けられています。束の隙間から、隅田川と向こう岸、青空がのぞいている所が効果的。大正8年(1919) 初夏 『東京十二題』(大正8〜10 12図)より
1990年から91年にかけて発行。厩図屏風、尾形光琳、葛飾北斎、山口華揚他を採用。
http://kitte.com/catalogue/jpnseries2330_001/
埼玉県立博物館常設展・特集展示「鯰絵」(前期2005年8月23日〜9月25日 後期9月27日〜10月23日)にて。
安政の大地震の際、馬が江戸中を駆け巡り、信心深い人を助けた。助かった人の着物の袖には、神馬の毛が入れてあったという。そんな話を元にした作品。
背中に御幣を立てた馬が、あちらこちらに毛を撒き散らしながら駆けるの図。神馬だからか定かでないが、連銭芦毛。脚元には、蹴散らされたと思しき大鯰が転がっています。画面片隅にには、逃げ惑う鯰も。あっちへ行け地震(鯰)、地震(鯰)から守るぞということで。
戦国時代以降、途絶えていた「諏訪流流鏑馬」が、諏訪大社への奉納行事として約450年ぶりに復活する。古式弓馬術などの復興に取り組む「倭式弓馬会」(東京都)の申し出がきっかけとなり、奉納が実現。24日に下諏訪町赤砂崎の会場で披露される。
同会によると、諏訪地方は鎌倉、室町時代に多くの名騎手を輩出した弓馬術の中心地だった。しかし、戦国時代に武田信玄の侵攻を受け、この地を治めていた諏訪氏が滅亡。諏訪流の伝統も途絶えたという。
諏訪流は、日本で古来から飼育されてきた小型馬を駆る5人の射手が、それぞれ三つの的を射抜くのが特徴。的立て役が黄色の布衣(ほい)をまとうなど、古文書を基に、当時の風俗を再現する。
2005年9月22日付毎日新聞より。
松岡美術館常設展にて。
地中海東部小アジア海岸地域出土。ギリシャ植民都市の神殿か宮殿の破風装飾と推測されているそう。ポロポロと粒子の粗い肌合い。
出っ張った目元、馬具、ゆるやかな流れのたてがみなど、全体を通して写実的。歯もちゃんと生えていたり。また、硬と軟の表現がなされているように思います。両耳、下顎が朽ちている点が惜しい。元武岩 ヘレニズム期(紀元前3世紀)
松岡美術館常設展にて。
ヘンリー・ムーア的仕上がり。丸い穴の目鼻に、丸みを帯びたラインの持ち主。脚と尻尾がちぎれたようになっている。ブロンズ 1984年