続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集

 このページは、「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集の続編です。 誤解を避けるため、以前の文章をお読みでない方はまずそちらからお願いします。(特に、ここで言う直リンクの 定義についてはご注意下さい。)
 一応改めて簡単にこのページの趣旨を述べますと、

……です。

目次

想定問答集

Q23. 「トップページ以外にリンクされるとサーバーに負荷が掛かり、ページの表示が遅くなったり、 最悪の場合サイトを閉鎖しなければならなくなる」
A23.どのページにリンクされようと、サーバーに掛かる負荷は変わりません。 むしろ負荷の増大に悩んでいるサイトに対しては、トップページを経由して目的のコンテンツを表示させる よりも直接目的のコンテンツにリンクした方が余計なページを表示させない分負荷が少なくて済み、親切なのですが。
Q24. 「多くの人が閲覧するようになれば、その中には私の大切な作品を盗作するような人もいるかも知れない。 だからリンクは許可制にし、限られた人にだけ見せるようにしたい」
A24.確かに、多くの人に見られれば盗作される可能性は高まるでしょう。しかし、少数の人にしか見られていなくても 盗作される可能性はあります。 あなたの言っていることは結局、次の内いずれかなのではないでしょうか。
  1. 「私が許可したサイトからリンクを辿って来た人は盗作しないが、そうでない人は盗作するかも知れない」
  2. 「私が許可したサイトからリンクを辿って来た人が盗作しても許せるが、そうでない人の盗作は許せない」
いずれにしても、他者に受け入れられる理由とは思えません。(関連:Q25)
Q25. 「多くの人が閲覧するようになれば、その中には私のサイトの掲示板を荒らすような人もいるかも知れない。 だからリンクは許可制にし、限られた人にだけ見せるようにしたい」
A25.Q.24への回答の「盗作」を「荒らし」に置き換えてお読み下さい。 やはり、そのような主張に説得力があるとは思えません。
 無論、「頻繁に荒らされているサイト」「荒らしを奨励しているサイト」からリンクされたような場合等は、 そのような要望にも説得力があるでしょう(荒らしは犯罪です)。 しかし、だからと言って「頻繁に荒らされているサイトや荒らしを奨励しているサイトから リンクされるかも知れないので、無断リンクは禁止」という主張はやはり変だと言わざるを得ません。
Q26. 「リンク先のウェブサイトを作った人への感謝の気持ちはないのか。そういう気持ちがあったら、 管理人の意図に反するリンクなどはできないだろう」
A26.人は、相手が例え恩人でも納得の行かない命令には従わないものだと思います。 感謝していれば必ず命令を聞くはずだ、とはあんまりな主張ではないでしょうか。
 無論、確かにリンク先への感謝の気持ちがリンク先の希望を叶えるよう働くことはあるでしょう。 しかしそれを言うなら、自サイトの閲覧者への感謝の気持ちが閲覧者への便宜を図るよう働くこともある。 恐らく、リンクした人はリンク先への感謝の気持ちもあったのでしょうが、この場合は自分のサイトの閲覧者への感謝の 気持ちが優先される、と判断したのではないでしょうか。(関連:Q29)
 ……と言うかそもそも、WWW(ワールドワイドウェブ)を作ったティム・バーナーズリー博士は、Links and Law: Mythsで見られるように リンクの自由を説いているのですが。利用者は製作者の意図に従うべきだとするなら、 それに従っていないのはむしろあなたではないでしょうか。
Q27. 「サイトを公開する誰もが“より多くの人に見てもらいたい”と思っているわけではない。 ひっそりとやって行きたい管理人もいるのだ」
A27.ひっそりとやりたいのなら、わざわざ全世界に公開するためのシステムを使わないことをお勧めします。
 あなたが言っていることは、書店で売られている本の作者が「あまり私の本を買うな」と言ったり、 舞台に上がった役者が「あまり私に注目するな」と言ったりするのと変わらないのではないでしょうか。
Q28. 「ホームページを“家”のように感じ、自由に出入りされると傷つく人がいることを分かって欲しい」
A28.世の中には、他者に認められる感じ方と認められない感じ方があります。
 例えば、かつて一部で問題になった「提言騒動」(参考: 「忙しい人のための簡略「集い騒動」話」)では、 既に発表された自分の作品と共通点のある作品を他者が発表することを嫌がり、

キャラクターの名前や設定、台詞等ネタが被ったものを見つけたら、

  1. 先にUPした者(以後「先発」)と後にUPした者(以後「後発」)は話し合え
  2. 話し合いがこじれたら、後発は作品を下ろせ
という主張をする人が現れましたが、人は必ずこのような感じ方を認め、言うことを聞くべきなのでしょうか?
 あるいは、「このHPに来た人は、必ず掲示板にカキコすること!  カウンターの数字よりカキコの数が少ないなんて耐えられない!」なんていう注意書きをする サイト管理人もいるわけですが、そのサイトを見た人はそういう気持ちを理解し、 必ず書き込みをするべきなのでしょうか?
 無論、人がどのような感じ方をしようとそれは個人の自由です。が、他者に理解できない 感じ方を主張して従わせようとしても多くの場合は無駄であり、むしろ笑われるだけでしょう。
 他者に理解できない感じ方をして傷つくのはあなたの責任だとしか言いようがありません。 できる限り傷つきたくないのなら、他者と同じような感じ方をするよう心がければよいのではないでしょうか。 (無論、実際には人の感じ方は様々であり、どのような感じ方をしても衝突はあるでしょう。 ただ、社会生活を営む以上、自分と違う感じ方をする人がいることを常に想像しておくべきだと私は考えます。 他人に自分と同じ感じ方を求めるのは、無理というものでしょう。)
Q29. 「確かに、リンクの自由は否定できないものかも知れません。しかし、他サイトの管理人が傷つかないよう気を遣うことが、 人としての優しさであり、マナーなのではないでしょうか」
A29.リンクに関する要望に従わなければ、確かに相手サイトの管理人を傷つけることになるかも知れません。 それが望ましいことだとは私も思いません。しかし、リンクに関する要望に従えば、結果として思うような情報提供ができずに、 自分のサイトの閲覧者を傷つけることになるかも知れません。それもやはり望ましいことだとは思いません。
 私は、「リンク先サイトの管理人が傷つくべきだ、閲覧者は傷つくべきではない」などと言うつもりはありません。 いずれが傷つくべきかは、結局はケースバイケースとしか言えないでしょう。 ただ、上記の主張、「リンク先の管理人を傷つけるべきではない、閲覧者を傷つけるのは構わない」という考え方は 間違っていると考えます。
Q30. 「リンクされるのが嫌ならアクセス制限するべきだなんて、自己中心的だ」
A30.アクセス制限を提案すると「自己中心的だ」「押し付けるな」等と怒る人は時々います。 が、これは勘違い以外の何物でもありません。 別に無断リンク/直リンクをされるのが嫌だからといって、管理人がアクセス制限をする義務など全くないのですから。 無論、ウェブサイト管理人がアクセス制限をするのは自由ですが、同時にそれをしないのもまた自由なのです。 「アクセス制限をすることを勧められた=アクセス制限をすることを強制された」と捉える人は確かにいますが、 その二つは全く繋がるものではありません。
 ただ、アクセス制限をしない自由が選択され、尚且つ納得のいくリンクされたくない理由の説明等もないサイトは 無断リンク/直リンクを受け入れたサイトと他者から見做される可能性がある、それだけのことでしょう。
 ところでそもそも、『自己中心的』とは、自分の希望を叶えるために他人に命令するような人のことを指す言葉だと思うのですが。 「無断リンク禁止」や「直リンク禁止」などと命令するのは『自己中心的』とは言わないのでしょうか?
Q31. 「他人が苦労して作った作品を作者の意図に反する形で紹介するなんて、おかしいのではないか。 サイト製作者の意図を汲むべきだ」
A31.あらゆる公開された作品は、受け手それぞれの自由な解釈・判断に委ねられるものです。
 誰しも、「この本は○○の所だけは面白い」「あの映画はつまらなかった」等と 人に紹介した経験はあるのではないでしょうか。 確かに作者はそれを残念がるかも知れませんが、 公開された作品とはそういうものだとしか言い様がありません。
   いえ、それどころか、トンデモ本、ゴールデン・ラズベリー賞、VOW、ボツマン、カスハガ、イグ・ノーベル賞等の 作者の意図を全く無視した方法すら、作品の扱い方の一つとして認められているのです。 公開する以上、作品を意図通りに受け取られない覚悟はしておいた方がよいのではないでしょうか。
Q32. 「ウェブサイトはその管理人の物であり、管理人がその使い方を自由に指示するのは当然だ」
A32.確かにウェブページは作者の作品、つまり「著作物」であり、 読者は著作権法その他の規則・規範には当然従わなければなりません。 しかし、それ以上に作者が読者に命令をしようというのは無茶というものでしょう。
 ウェブページは、サーバーにアップロードされた時点ですでに作品として作者の手を離れています。 作品をどう受け止め、どう使うかはそれをダウンロードした読者が決めるべきはないでしょうか。(関連:Q31)
Q33. 「トップページ以外のページなどに直リンクされても、その作者には全く利益がない。 作者の名前が知られるわけでもないし、カウンタが回るわけでもない。そんなのはおかしいのではないか」
A33.作者はウェブに公開した時点で権利の行使を終了しており、 その状態から更に利益を求めようというのは強欲であると思います。 作家が本を買った読者に「私の名前を覚えろ」「私の他の本も買え」などと言えないでしょう。
 無論、システム的に利益が出るようにすることは作者の自由であり、例えば上の主張にしても各ページに署名を入れるなど の方法で作者がその「利益」を得やすくすることは充分可能でしょう。 そういった努力もせずに他人を悪者扱いして利益を得ようとする姿勢には、問題があるのではないでしょうか。
Q34. 「なるほど、リンクは自由、という主張があることは分かった。だが、そんなものは結局個人の主張に過ぎず、 考慮に値するものであるとは思えない」 (リンクの自由を説明するページを紹介された人の主張)
A34.個人の主張だから考慮に値しないと言うのなら、あなたの主張も考慮に値しないと考えて構いませんね。 私があなたの主張を聞く理由は最早ありませんので、自由にリンクさせて頂きます。
Q35. 「創作者なら、自分の作品を思い通りに見て欲しいと思うのは当然だ。 創作をしている人ではないので、創作系サイトの管理人の気持ちとはズレがあるようだ」 (リンクの自由を説明するページを紹介された人の主張)
A35.なるほど、確かに紹介されたサイトは、少なくともあなたの考える創作系ではなかったのでしょう。 しかし、創作をしない人には創作者の気持ちは分からない、というのは差別としか思えません。 そんなことが言えるのなら、「創作系サイトの管理人には普通の人の気持ちは分からない」と言われても文句は言えないと思うのですが。
 ……まあ一歩譲って、仮に「創作系サイトの管理人には、そうでない人には理解できない何らかの気持ちがある」と認めたとしましょう。 しかし、だったらあなたは、創作系サイトの管理人以外に自分のサイトを見せてはいけません。 創作系サイト管理人以外にはその気持ちが分からないのなら、普通の閲覧者にあなたの気持ちが分かるわけがないのですから。 一部の人にしか理解できないサイトを公開しながら、理解されなかったから「あなたには私の気持ちは分からない」と文句を言うなど、 おかしな話ではないでしょうか。
 ちなみに、かの故・黒澤明監督にはこんなエピソードがあります。
『ある新人映画監督が、自分の作品を是非見てもらいたいと黒澤監督を試写会に招いたが、 黒澤氏は映画開始早々に退席してしまった。新人監督が理由を聞くと、「つまらなかったからだ」という答え。 新人監督が「でも、私は一生懸命に作ったんです」と言うと、「それなら、冒頭に“一生懸命作った映画なので、 どうか最後まで見てください”というテロップでも入れてはどうだ」と答えた……。』
 あなたからすると、きっと黒澤監督は創作者ではないのでしょうね。むしろ私には、創作者の気持ちが分かっていないのは あなたではないかと思えるのですが。
Q36. 「Web利用のルールやマナーといったものは、科学法則等と違って、 それを利用する人の総意によって決められるべきものでしょう」 (リンクの自由を説明するページを紹介された人の主張)
A36.リンクの自由を説くページというのは、『利用する人の総意』を無視して 「無断リンク禁止/直リンク禁止」などと一人でルールやマナーを決めてしまう人がいるから 存在しているのですが。『利用する人の総意』を一人で決めるべきではないというなら、 一人で「無断リンク禁止/直リンク禁止」などとルールやマナーを決めてしまう人の方をまず批判するのが筋ではないでしょうか。
 「無断リンク禁止/直リンク禁止」といった命令をする人がいなくなれば、リンクの自由を説くページもなくなるでしょう。 そうなった時に『利用する人の総意』が「無断リンク/直リンクは良くない」だったら誰もそういう行為はしないでしょうし、 もし万が一してもその人は周囲から非難されることになるでしょう。 総意によって決まるルールとは、そういうことではないでしょうか。
Q37. 「入って欲しくなければ鍵をしておけばよい、と単純に相手まかせの考えが私はどうしても持てません」 (リンクの自由を説明するページを紹介された人の主張)
A37.相手まかせなのはどちらですか。
Q38. 「すべての内容を当方でチェックすることが不可能なため、個人サイトからのリンクについては、 基本的にお断りしています」
A38.リンク先にはリンク元の内容をチェックする義務はありませんので、ご安心下さい。 無論あなたが「義務はなくても、リンク元をチェックしたい」と思うのは勝手ですが、 それはあなたの希望であって、あなたがすべきことです。 あなたの勝手な希望に他人を付き合わせるのはお止め下さい。
 ちなみに、他者の発言を事前にチェックして発表の可否を決定するというのは一種の検閲でしょう。 検閲は日本国憲法によって『検閲は、これをしてはならない。 (日本国憲法第二十一条二項より)』と、明確に否定されていますので、ご注意下さい。 (正確に言うなら、検閲は「公権力によるチェック」を指すのであって、それ以外の組織や個人が「チェックさせろ」と主張することは 別に違法ではありません。ただ、違法ではないにせよ、そのような主張が望ましくないことは明白かと思います。)
Q39. 「私は管理人として、閲覧者一人一人と丁寧に応対したいと考えている。 だから無断リンク等、閲覧者を増やすようなマネを勝手にされては困る」
A39.管理人には、閲覧者一人一人と丁寧に応対する義務はありません。 あなたがそうしたいのならそれはあなたの信念として否定はしませんが、 「だから勝手にリンクするな」というのはおかしな話です。 あなたの信念は、あなた自身が責任を持ってまっとうして下さい。
Q40. 「責任を持ってサイトを運営していきたいので、リンクする際には必ず連絡をしてもらいたい」
A40.一体何故、無断リンクをされると責任が持てなくなるのでしょうか? リンクした人がおかしな紹介をするかも知れないからでしょうか?
  だとすれば、それはリンクのコメントの問題であってリンクの問題ではありません。 それならあなたは、「リンクする際には〜」ではなく「コメントする際には〜」と 主張を改めた方がよいのではないでしょうか。 ウェブサイトに対して、リンクせずにコメントする人だっているのですから。 しかし、そもそも自分の作品の紹介を全て把握しないのが無責任だとするなら、 作家も映画監督も歌手も皆無責任ということになってしまいますが。 作者に作品の紹介のされ方を把握する責任があるとは思えません。
 尤も、リンク元とそこでの紹介コメントを全て把握するのがサイト管理人の責任だと 思うなら、それはあなたの信念として否定はしません。 ただ、あなたの信念はあなたが責任を持ってまっとうすべきでしょう。 自分に信念があって、でも自分だけではその信念をまっとうできないから他人に命令するとは、 それこそ無責任というものではないでしょうか。
Q41. 「ウェブもまたある種のコミュニケーションであり、守るべき礼儀というものがある」
A41.あなたの言う礼儀正しいコミュニケーションとは、 事情も説明せずいきなり他人に命令をすることを指すのでしょうか。
Q42. 「“リンクされたくないのならアクセス制限をするべきだ”なんて、強い者の考え方だ」
A42.リンクされたくないウェブページを公開することには更に強い精神力が必要かと思いますし、 ましてや人に「リンクするな!」等といった命令をすることには更に更に強い精神力が必要かと思うのですが。
 都合よく自分を弱者に見立て、被害者面をするのは止めて頂けませんか?
Q43. 「皆が自由にリンクをすれば、多くの人はリンクされることを恐れ、サイトを作らなくなってしまうのではないか。 それは皆にとってもウェブにとっても、望ましいことではないだろう」
A43.一理ある考え方だと思います。確かに、多くの人がリンクの自由を笠に着て無責任なリンクをするようになれば、 そのような問題が発生するかも知れません。そのような状態は望ましくないと私も思います。
 が、実際にはそのような無責任な、批判されるべきリンクは滅多になく、 むしろ現時点ではおかしな根拠から無断リンク禁止/直リンク禁止を主張する人のために 迷惑している人が多い、というのが実状であるように私には思えます。
 ちなみに、「リンクされるのを恐れてサイトを作らない/リンクされて傷ついて閉鎖」というケースは確かにあるでしょうが、 逆に「全然リンクされなくて傷ついて閉鎖」というケースもあるでしょう。 現状では、トラブルを恐れてリンクをあまりしないようにする管理人が多く、 その結果むしろ後者のケースの方が多くなっている可能性もあるのではないでしょうか。
Q44. 「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」

A44.「儀礼的無関心」とは元々、社会学者のゴフマンが提示した概念で、 松谷氏の「はてなダイアリー - recent events@TRiCK FiSH「ネットでの儀礼的無関心の可能性」」にて リンクの自由を否定する考え方の根拠として紹介され、「羊堂本舗 ちょき - 儀礼的無関心反応リンク集」に 見られるように、いくつかの議論を生みました。(※注1)
 「儀礼的無関心」には、いくつかの主張が込められています。発端となった記事や、 加野瀬氏による批判「ARTIFACT −人工事実− ネット教習所をシステムとして作る−儀礼的無関心について−」、 松永氏による批判「「ウォッチャー」の権利など守る必要はない。儀礼的無関心2 ウェブログ@ことのは」、 松谷氏による反論「はてなダイアリー - recent events@TRiCK FiSH「ネットでの儀礼的無関心」結」 などを読むと(コメント欄でのやりとりにも要注目)、その主張は四種類に分けられるでしょう。

 一つ目は「考えなしにリンクするとリンク先が該当記事を消したり閉鎖したりしてリンクした側も損をするかも知れないので、リンクする際は気をつけよう」という打算論。 二つ目は「あまり見られたくないサイトにはリンクしないことが優しさだ」というマナー論。 三つ目は「あまり見られたくないサイト(A)に大手サイト(B)がリンクし、Aが閉鎖することになれば、 それはAのサイトをこっそりと見ていた人々(C)の権利をBが侵したということだろう」という法律論。 四つ目は「あまり見られたくないサイトがリンクされて閉鎖することになれば、 それは元からそのサイトをこっそり読んでいた人々の利益(=「公共の利益」)が侵されたということであり、 あってはならないことだ」という社会論。
 以下に、一つ一つ検討します。

Q44-1.「考えなしにリンクするとリンク先が該当記事を消したり閉鎖したりしてリンクした側も損をするかも知れないので、リンクする際は気をつけよう」

A44-1.この主張はリンクする側に対して「〜だからリンクするな」というような性質のものではないので、 特に検討する必要はないでしょう。 何がリンクする側にとって得なのか損なのかは、リンクする側にしか判断できないのですから。

Q44-2.「あまり見られたくないサイトにはリンクしないことが優しさだ」

A44-2.この主張には二つの問題があります。第一に、確かにリンクしないことが「思いやり」と思われる場合もあるでしょう。 しかしリンクしないことが本当に思いやりかどうかは各状況ごとに各人が判断するべきことであって、一元的に決めていいことではありません。 多くの人から陰でこっそり笑われているサイトに対し、リンクして間違いを指摘するのもまた一つの思いやりでしょう(参考:「void GraphicWizardsLair( void ); --「A が悪いかどうかに関わらず B や C がどうするのが良いかというようなことらしい」」)。 「思いやり」とは各自が判断し、自分で実行すべきものです。「自分は相手を思いやった結果、こうすることにした。 これで相手は間違いなく喜ぶし、他の人も相手を思いやったら同じようにするはずだ」というのは傲慢であり、 危険な考え方ではないでしょうか。

 そして第二に、他人に対して親切だと思える行為があったとして、人は必ずそれをすべきなのか、という問題もあります。 実際のところ人は他者に無限に尽くすことはできず、どこかで「ここまでは他人の言うことを聞ける」 「これ以上は言うことは聞けない」という境界線を引かざるを得ません。例え「ここではこうするのが親切だ」と 思える行為があったとしても、「必ずそれをするべきだ」というのは無茶と言うものではないでしょうか。 (※注2)

 ……但し、そもそも『「儀礼的無関心」はリンクする側に思いやりを求めた主張だ』という受け止め方は 誤解である可能性もあるように思えます。松谷氏は一連の議論の中で

私がこのトピックにおいて、「『優しさ全開で万事はオッケー』なんて思っていない」と書きました。それは、文脈上いろんな意味を孕ませたつもりですが、この場合において簡潔に書きますと、自分が「他者を思いやること」が、とても横柄な態度に思えるからです。
もちろん、だれかを「思いやる」のは勝手です。しかし、それはその相手から「余計なお世話だ」と言われた瞬間に却下されます。

と、むしろ先ほど述べた、この主張への第一の反論に近い主張をしています。 ここから考えれば、「儀礼的無関心」はむしろ第二の主張を否定するものであり、その真の意図はこれ以外の第一・第三・第四の主張にあると 考えるのが妥当だということになります。
 しかし、その捉え方にも疑問があって、氏は

私は自らの権利主張とともに、 こっそりとサイトを運営している方への配慮も主張した上で、「儀礼的無関心」の話を書いたわけですね。 「どちらか片方」っていうことではありません。

私はたしかにAさんのことも思いやってこの話をしましたが、 同時に自分(Cさん=ウォッチャー)のメリットも要求しています。

とも書いているのです。これは矛盾しているように思えますが、 では前に引用した氏の発言は間違いだったと考えるべきなのでしょうか?  しかし氏は、

実際にぼくはそんなに優しくありません。 先のコメント欄にもちょっと匂わせましたが、だって、裏を返せば、僕はこっそり見る権利(チラ見)を失わせるな、 と言ってるんだもん。

等、「こっそり見るのは優しくない行為だ」とも主張しているのです。
 ……どうやらこの主張の内容を正確に把握することは不可能そうなので、ここでまとめます。 これらの記述から「儀礼的無関心」の二つ目の主張の問題点をまとめると、以下のようになるでしょう。

  • 『あまり見られたくないサイトをこっそり見ることは優しくない。 しかし、あまり見られたくないサイトに「実は見られている」ことに気付かれないようにすることは思いやりだ』と「儀礼的無関心」は主張しているが、これは矛盾している。
  • 『あまり見られたくないサイトにリンクする行為は優しくないので否定されるべきだ。 あまり見られたくないサイトをこっそり見る行為は優しくないが否定されることがあってはならない』と「儀礼的無関心」は主張しているが、これは矛盾している。
  • 『思いやりなど一元的に決められるものではない。 しかし、あまり見られたくないサイトに「実は見られている」ことに気付かれないようにすることは常に思いやりだ』と「儀礼的無関心」は主張しているが、これは矛盾している。
  • 以上のような矛盾を差し引いて考えた場合、「儀礼的無関心」は『あまり見られたくないサイトにはリンクしないのが思いやりであり、 そういうリンクをすべきではない』と主張しているか、『そのような主張は傲慢だ』と主張しているかのいずれかだと思われる。 前者だとすると、それはこの項の冒頭で述べたように二つの点で間違っている。 後者だとすると、それは「優しさ」という観点からのリンクの自由の肯定である。
Q44-3.「あまり見られたくないサイト(A)に大手サイト(B)がリンクし、Aが閉鎖することになれば、 それはAのサイトをこっそりと見ていた人々(C)の権利をBが侵したということだろう」

A44-3.そもそも好きなサイトをこっそり見続ける権利なるものが何を根拠に主張されているのか分かりませんが、 仮にそのような権利があるとしても、上の主張は二つの点で間違っています(※注3)。
 第一に、Cにそのような権利があるのなら、Bを見ていた人々(D)にも「Bで面白いサイトの情報を得続ける権利」が あることになります。つまり上の主張に基づくなら、BはDの権利から生じる義務を果たしたに過ぎません。
 第二に、BがAに対して閉鎖するよう脅迫等をしたわけではない以上、Aを閉鎖したのはBではなくA自身です。 つまり、Cの権利を侵したのはBではなくAであり、上の主張に基づくならばCはBではなくAを自身の権利に基づいて批判し、 糾弾するなり再開の要求をするなりすべきでしょう。

 思うに、注3で引用した発言や

静かに読む人の権利もありますからね。それでも「覗き見している読者」に「権利がない」というならば、その論拠を示してみてください。たぶん、できませんから。

等からすると、恐らく松谷氏は前稿のQ2と同様の誤解をしているのではないでしょうか。 つまり、「人間には自由な希望を持つ権利がある。権利があるということは、 周囲の人間はその希望が叶うよう協力する義務があるということだ」と。 無論、これは間違いです。 人には「本を読みたいと思う権利」も「読む自由」もある。だからといって「私のためにあの本を買え」と言うのは、他人の財産権を否定することになる。同様に、 人には「サイトをこっそり見続けたいと思う権利」も「見続ける自由」もある。だからといって「私のためにあのサイトにリンクするな」と言うのは、 他人の表現の自由を否定することになるし、「私のためにサイトを公開し続けろ」と言うのは他人の著作権を否定する(※注4)ことになる。 それだけのことではないでしょうか。松谷氏は

私は先に「原初的にはどんな権利も認められる」と書きました。しかし、そのなかで、唯一認められないのは、「『他者の権利』を侵害する権利」です。

等と述べていますが、ありもしない権利を主張して他者の正当な権利を否定しているのは、氏自身であると言わざるを得ません。

 最後に三つ目の主張の問題点をまとめます。

  • こっそり見続ける権利なるものを主張している点(法律上、どこにもそのような条文は見当たらない)
  • (仮に「こっそり見続ける権利」があるとして)作者が他人の作品を読むよう薦める行為が、元からのその作品の読者のこっそり読む権利を侵害することになると主張している点
  • (仮に「こっそり見続ける権利」があるとして)面白い作品を薦める作品を見続けたいという読者の権利を否定している点
  • 作者が他人の作品を読むよう薦める権利を否定している点(表現の自由の否定)
  • 作者が自分の作品の公開を取りやめる権利を否定している点(著作権法の否定)
Q44-4.「あまり見られたくないサイトがリンクされて閉鎖することになれば、 それは元からそのサイトをこっそり読んでいた人々の利益(=「公共の利益」)が侵されたということであり、 あってはならないことだ」

A44-4.この主張は、一つ目の主張をさらに発展させたものと言えるでしょう。 管理人は自分の利益だけでなく、多数者の利益が最大になるように配慮しなければならない、と。 この主張には四つの問題があります。

 まず第一に、現在こっそり読んでいる人々の利益は そこまで重要視されなければならないものなのでしょうか。松谷氏は

僕が「誰も幸せになっていない」というのは、結果として当該の日記が消えることで、匿名掲示板の人たちも永遠に見られなくなるということを意味します。つまり、こっそりのぞき見できる可能性が失われるわけです。共有されるメリットを維持するための儀礼的無関心、とも言い換えることができるでしょうね。しかし、これが、誰かひとりがリンクを張ることによってスポイルされる。それは道徳的・倫理的な問題ではなく、公共の利益を害してしまうという点で、ひどくお粗末な振る舞いだなぁ、と僕は思うんです。

等、こっそり見ることの利益を繰り返し述べていますが、この主張には疑問を抱かざるを得ません。
 ひっそりとサイトを運営していたつもりの管理人にとって、 「予想外に多くの、あるいは予想外の意図を持った閲覧者にこっそり見られていた」というのは残念な事態であるかも知れません。 しかし、そのような事態が現に起きているなら、例え残念な事実ではあってもそのことを知りたいと思うのは 少なからぬ管理人の自然な希望なのではないでしょうか(「知りたくない」という管理人もいないとは思いませんが)。 しかし、「儀礼的無関心」の主張からすればそのような管理人の希望は否定されるべきであり、 こっそり見ている人々の希望だけが叶うべきだ、ということになります。 これが果たして真に「公共の利益」と言えるのでしょうか?
 私は別に、「こっそり見る人々の利益を高く評価し、管理人の利益に価値を見出さない価値観」を否定する気はありません。 しかし、「この価値観が正しい、皆がこの価値観を持つべきだ」と言われれば、「それは違う」と答えざるを得ません。 (参考:「ただのにっき「儀礼的無関心反応リンク集」」)

 第二に、リンクすることによってこっそり読む人々の利益が損なわれる可能性はそこまで重要視されなければならないものなのか、という問題もあります。 冒頭で述べたように、この主張は「人々の利益を最大化させよう」という主張だと解釈できるでしょう。 ならばリンクする側はおおよそ以下のような利益/損失・可能性について計算するべきということになります。

  1. 今こっそり見ている人々の利益/それができなくなる損失
  2. 新たに見る人々の利益/それができない損失
  3. 「リンクされる→管理人が傷ついて閉鎖→閲覧者にとって損」となる可能性
  4. 「リンクされる→管理人が閲覧者を意識してサイトをより充実させる→閲覧者にとって得」となる可能性
  5. 「皆が気を遣ってリンクしない→管理人が寂しくて閉鎖→閲覧者にとって損」となる可能性(参考:「結城浩 - The Essence of Programming (プログラミングのエッセンス)「ネットでの儀礼的無関心の可能性」」)

 「儀礼的無関心」は1・3の利益・可能性を繰り返し主張しますが、2・4・5の利益・可能性については全く触れていません。 当然1・3が他より優先される理由は一切説明されませんし、実際にそのような理由があるとは全く思えません。
 確かに、何かをしようとする際に既にある利益とそれが失われる可能性を考えるのは自然なことではあるでしょう。しかし、それを重視するあまりに 新たな利益が生み出される可能性や、不自然な状態で利益を無理に守ろうとして却ってそれが損なわれる可能性を 無視していいものでしょうか。1・3のみを重視すべきだという主張は、暴論であると考えます。

 第三に、仮にAの閉鎖が公共の利益に反するとした場合、確かにBのリンクは問題でしょうが、 それではCがやっていたことは一体何なのか、という疑問があります。
 Aの閉鎖が公共の利益を損なうとし、Aが閉鎖する可能性を生むような行為は慎むべきだと考えた場合、 確かにBの行為は問題になるでしょう。しかし、別に特にどこからもリンクされなくても 閲覧者が徐々に増えていって、結局プレッシャーを感じて(あるいはウォッチされていることに気付いて) サイトを閉鎖する管理人もいるのです。 もし「儀礼的無関心」の想定したケースのAがそういうタイプだったら、 BがリンクしなくてもCが閉鎖させることになっていたでしょう。 この場合、「儀礼的無関心」の立場を取るなら、Cは『公共の利益を害してしまうという点で、ひどくお粗末な振る舞い』をしたことになります。 つまり、「儀礼的無関心」の第四の主張を認め、Aが閉鎖する可能性を生むような行為は慎むべきだとするなら、 そもそもCの行為には問題があると言わざるを得ないのです。 なぜ、自ら問題のある行為をしているCを、Bはそういうことをせずに守るべきだということになるのでしょうか?
 Bを否定するならCも否定されるべきですし、Cを肯定するならBも肯定されるべきでしょう。 Cを肯定しBを否定する「儀礼的無関心」は、ダブルスタンダードであると言う他ありません。

 そして第四の問題として、仮に「こっそり見る利益が極端に大きく、他の利益は問題にならない」 という主張を認めたとしても、「ではどうやってその利益を守るのか」が見えてこないという疑問があります。
 この主張が成立するためには、管理人がそれぞれこういう問題について高い意識を持つ必要があるわけであり、 松谷氏はそのことについて『リンクを張ることでAさんに変化が起こる可能性を、Bさんは想像できなかったのか。もしくは、Aさんに変化が起こる可能性について、どれほどの覚悟があったのか。』 と、サイト管理人に想像力や覚悟を求めています。しかし、サイト管理人は想像力や覚悟を持つべきというなら、 そもそもAに「リンクされることを想像する力」や「リンクされる覚悟」が欠けていたことは明らかです。 サイト管理人は想像力や覚悟を持つべきと言うならAのような管理人が存在するのは問題ということになりますし、 サイト管理人に想像力や覚悟を求めないならBの行為は否定できない。 しかし、「儀礼的無関心」は想像力や覚悟のないAの存在は肯定しつつ、 想像力や覚悟のない(かも知れない)Bをそれゆえに否定している。これはやはりダブルスタンダードというものでしょう。
 「儀礼的無関心」は結局何を望んでいるのでしょうか。管理人を啓蒙したいのか、してはいけないのか?  やはり、「儀礼的無関心」は破綻していると言う他ありません。

 尚、各議論において、「儀礼的無関心」を持ち出した人が以上の内のどの主張を意識して「リンクするべきではない」 と言ったのかは当然私には分かりません。それを知るには、主張した本人に聞く以外ないでしょう。 「松谷氏は四種類か三種類の意味を込めて儀礼的無関心を主張したと思われますが、あなたはどの意味で主張されたのですか?」と。(※注5)
 ただ、どの主張が意識されているにせよ、以上の考察から「儀礼的無関心」はリンクの自由を否定するものには なり得ないと考えます。

 最後に、上で挙げなかった、この議論に関する興味深い意見を紹介します。 この件について興味をお持ちの方は是非ご一読下さい。

※1……

 尚、この議論が契機となってウェブの一部では上記のような意味で「儀礼的無関心」という言葉が定着した感がありますが、 そもそもこの用法が妥当なのかどうかについては少なからぬ異論があるようです。 が、本稿では便宜上、「松谷氏の主張=儀礼的無関心」として扱っています。
 この疑問については、個人的に「it1127の日記  ■儀礼的無関心のロンド」 にて指摘された、小泉信三氏の著作よりの引用『見たいものを見るのは人の権利かも知れぬ。しかし人の観られたくない状態を見ないことも、また吾々の義務である。』が 興味深く思えます。これをウェブで例えるなら、 「ハッカー(クラッカー)によって無残に改竄されてしまったページをよってたかって見るべきではない」というのが近いでしょうか (あまりよい比喩ではありませんが)。 このような主張なら、確かにある程度説得力のある、マナーにも則したものであるように思えるのですが。(→Q44に戻る)

※2……

 その他にも、この第二の主張については『そもそも、そのサイトがリンクされることを望んでいるかいないかが他者に常に分かるものなのか? 儀礼的無関心 という主張を受け入れるなら、「このサイトはリンクされることを望んでいるのか?いないのか?」と悩んだ末にリンクをした 管理人も悪として糾弾されることになる』といった疑問もあります。
 しかし、相手がリンクされることを望んでいなくてもリンクすることが思いやりと思える場合もあるでしょうし、 逆もまたありうる。つまり、リンク先がどう思っているかは問題の本質ではなく、結局はリンクする側が何を「思いやり」と考えるか、 が重要なのであると考えます。(→Q44-2に戻る)

※3……

 ただ、「儀礼的無関心」の主張する「権利」が本当に「こっそりと読む権利」なのかどうかは、疑問の残るところではあります。 冒頭で紹介したページでの議論でも『やはりCさんの権利もあるんです。』等という言葉は繰り返されるものの、 一体何の権利が主張されているのかが今ひとつ判然としないのです。
 私は本稿で、松谷氏の

本来的に「公共の利益」というのは、これらさまざまな立場の方々の権利を平等的に扱い、 その上でバランスを考えて決められていくものです。ゆえに論拠なくCさんの権利を無視することは、本来的にはできません。
(略)
残念ながら、松永さんの言う「ネット珍走団」の人たちにも「珍走」する権利はあります。2ちゃんねる等で「晒す」自由も、 法的には保護されているんです。 それが否定されるのは、その方々が法を犯したときのみです(略)

といった発言から、ここで言われる「権利」とは「こっそりと読む権利」であり、「儀礼的無関心」の主張は 「リンクすることでリンクされた側が閉鎖したりすれば、それはリンクした者がこっそりと読んでいた人々の権利を侵したということだ」という法律論 であると解釈しました。

 ただ、ここで言われる「権利」が「こっそり読む権利」ではない可能性も二通り考えられそうです。
 一つは、この「権利」とは「- Empty Talk -「永谷園論争で行われていた「権利」とは何か?」」で の指摘のように、Cが「Aのサイトを見続けたかった」と主張する発言権を指す可能性です。 しかし、だとすればCの発言権が誰にも侵されていないことは初めから明白であり、 やはり「儀礼的無関心」は間違った主張だ、と言う他ありません。
 そしてもう一つは、「儀礼的無関心はそもそも権利なんて考えてはいなかったが、こっそり読み続けたいという欲求に さも根拠があるかのように見せるために権利という言葉を使ってみた」という可能性です。実際に、 氏が最初に「儀礼的無関心」を主張した記事では、権利という言葉は全く登場しませんし。ただ、松谷氏は後に

この件では、いろいろな人の利害が絡まっています。そこで、前提にしなければいけないのは、「(法を犯さないかぎり)すべての人の、どんな欲望にも、それを希求する権利はある」ということです。これは大前提です。

ですから、松永さんのように、突然感情的に噴き上がって「そんな権利は守ってやる必要などどこにもない」というのは、思考停止した上でのただの暴論です。論拠もたいして明示されていないゆえに、非常にたちが悪いただの感情論以上のものではありません。

等、こっそり読む権利は守られるべき権利だと主張し、感情論を拒否しており、 やはり「儀礼的無関心」は何らかの法的裏付けがある(つもりの)主張だったと思えるのですが。 (→Q44-3に戻る)

※4……

 著作権法上、著作者の権利には「作品の公開を取りやめる権利」も含まれる、と解釈されています。 (……いや、例えそんな解釈がなくても、ウェブページ製作者に自分のページを削除する権利があるのは自明かと思いますが。)
 松谷氏は冒頭で紹介した議論で、BがAに、Cにこっそりと見られていることを教え続け ることを『主張する権利を剥奪する行為』と述べています。 恐らく氏は、「作者は常に作品を公開し続けたいと思うものであり、公開を止めるのは権利を剥奪されたからだ」 と考えているのでしょう。
 しかし、実際に法律上認められていることからも分かるように、 作者が作品の公開を止めたがる場合というのは普通にあるものなのです。 この例の場合に於いて作品の公開が中止されるのは、作者が権利を剥奪されたからなどではなく、 作者が権利を行使したからに過ぎません。(→Q44-3に戻る)

※5……

 尚、松谷氏は「儀礼的無関心」について『僕も「啓蒙」をする気はなく、問題提起をしているだけです。』等、 「単なる問題提起であり、主張しているわけではない」という立場を取っています。
 が、本稿は「儀礼的無関心」を根拠にリンクの自由を否定された場合の想定問答ですので、 そのような場合相手は松谷氏の「儀礼的無関心」を主張だと解釈しているはずだと判断し、 「儀礼的無関心は問題提起ではなく主張である」という前提の元で反論を行っています。
 もしも相手が主張ではなく問題提起として「儀礼的無関心」を持ち出してきた場合、 「儀礼的無関心はこのような問題提起をしているが、それらの点を考慮しても、リンクするという結論に達する場合もある」 と述べれば良いかと思います。

 但し、私にはそもそも「儀礼的無関心」が本当に問題提起なのかどうか、疑問に思えます。 松谷氏はAにリンクをしたBの行為を『公共の利益を害してしまうという点で、ひどくお粗末な振る舞い』等と激しく非難したり、 Q44-3や注3で引用したようにBがAやCの権利を侵害したかのような 主張をしたりしており、このような記述からは「Bは間違っている」としか受け取りようがありません。 また、氏が記述したはてなダイアリーキーワード(用語解説)の「儀礼的無関心」の記述に

知らない人に、あえて、もしくは、いつの間にか、儀礼的に無関心を呈示をする/している現象のことを指す。見知らぬ他人同士のあいだで、不要な関わりが生じるのを避けるための暗黙のルール。見知らぬ他人に危害を加えることを含めて不快な思いをさせてはいけないが、さらに、みだりに関心も向けてはいけない。

とあるように、氏は明らかに「儀礼的無関心」を「守られるべきルール」 であると考えており、それを援用していることからも、氏は「Bはルールを破った無法者だ」と主張していると捉えるのが妥当であるように思えます。
 (尚、この用語解説の引用箇所は、上で触れたこの件に関する議論が始まって間もなく松谷氏が作成したものであり、 「儀礼的無関心は一般にこのように理解されている」ということではありません。 反論があったため、2004年5月4日時点で引用した解説文の後半部は削除予定となっています。)

※この注5は、2004年3月29日と2004年5月4日に修正・追記を行いました。

(→Q44まとめに戻る)


謝辞

 本稿Q44「儀礼的無関心」の四つめの主張Q44-4の内容は、 上で紹介した「ARTIFACT −人工事実− ネット教習所をシステムとして作る−儀礼的無関心について−」なくしては気付きませんでした。 また、それ以外にも、「羊堂本舗 ちょき - 儀礼的無関心反応リンク集」から リンクされた多くのサイトの論説を参考にQ44は作成されました。
 その多様々なリンクに関する考察ページ(特に「ウェブページのリンクおよびその他の利用について 」)や、 リンクを否定する数々の主張から前稿および本稿は作成されました。 参考にさせて頂いた方々に感謝致します。


(公開:2004年3月9日 最終更新:2004年5月4日)

目次へ