このページは、「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集の続編です。
誤解を避けるため、以前の文章をお読みでない方はまずそちらからお願いします。(特に、ここで言う直リンクの
定義についてはご注意下さい。)
一応改めて簡単にこのページの趣旨を述べますと、
……です。
という主張をする人が現れましたが、人は必ずこのような感じ方を認め、言うことを聞くべきなのでしょうか?キャラクターの名前や設定、台詞等ネタが被ったものを見つけたら、
- 先にUPした者(以後「先発」)と後にUPした者(以後「後発」)は話し合え
- 話し合いがこじれたら、後発は作品を下ろせ
『検閲は、これをしてはならない。 (日本国憲法第二十一条二項より)』と、明確に否定されていますので、ご注意下さい。 (正確に言うなら、検閲は「公権力によるチェック」を指すのであって、それ以外の組織や個人が「チェックさせろ」と主張することは 別に違法ではありません。ただ、違法ではないにせよ、そのような主張が望ましくないことは明白かと思います。)
A44.「儀礼的無関心」とは元々、社会学者のゴフマンが提示した概念で、
松谷氏の「はてなダイアリー - recent events@TRiCK FiSH「ネットでの儀礼的無関心の可能性」」にて
リンクの自由を否定する考え方の根拠として紹介され、「羊堂本舗 ちょき - 儀礼的無関心反応リンク集」に
見られるように、いくつかの議論を生みました。(※注1)
「儀礼的無関心」には、いくつかの主張が込められています。発端となった記事や、
加野瀬氏による批判「ARTIFACT −人工事実− ネット教習所をシステムとして作る−儀礼的無関心について−」、
松永氏による批判「「ウォッチャー」の権利など守る必要はない。儀礼的無関心2 ウェブログ@ことのは」、
松谷氏による反論「はてなダイアリー - recent events@TRiCK FiSH「ネットでの儀礼的無関心」結」
などを読むと(コメント欄でのやりとりにも要注目)、その主張は四種類に分けられるでしょう。
一つ目は「考えなしにリンクするとリンク先が該当記事を消したり閉鎖したりしてリンクした側も損をするかも知れないので、リンクする際は気をつけよう」という打算論。
二つ目は「あまり見られたくないサイトにはリンクしないことが優しさだ」というマナー論。
三つ目は「あまり見られたくないサイト(A)に大手サイト(B)がリンクし、Aが閉鎖することになれば、
それはAのサイトをこっそりと見ていた人々(C)の権利をBが侵したということだろう」という法律論。
四つ目は「あまり見られたくないサイトがリンクされて閉鎖することになれば、
それは元からそのサイトをこっそり読んでいた人々の利益(=「公共の利益」)が侵されたということであり、
あってはならないことだ」という社会論。
以下に、一つ一つ検討します。
A44-1.この主張はリンクする側に対して「〜だからリンクするな」というような性質のものではないので、 特に検討する必要はないでしょう。 何がリンクする側にとって得なのか損なのかは、リンクする側にしか判断できないのですから。
A44-2.この主張には二つの問題があります。第一に、確かにリンクしないことが「思いやり」と思われる場合もあるでしょう。 しかしリンクしないことが本当に思いやりかどうかは各状況ごとに各人が判断するべきことであって、一元的に決めていいことではありません。 多くの人から陰でこっそり笑われているサイトに対し、リンクして間違いを指摘するのもまた一つの思いやりでしょう(参考:「void GraphicWizardsLair( void ); --「A が悪いかどうかに関わらず B や C がどうするのが良いかというようなことらしい」」)。 「思いやり」とは各自が判断し、自分で実行すべきものです。「自分は相手を思いやった結果、こうすることにした。 これで相手は間違いなく喜ぶし、他の人も相手を思いやったら同じようにするはずだ」というのは傲慢であり、 危険な考え方ではないでしょうか。
そして第二に、他人に対して親切だと思える行為があったとして、人は必ずそれをすべきなのか、という問題もあります。 実際のところ人は他者に無限に尽くすことはできず、どこかで「ここまでは他人の言うことを聞ける」 「これ以上は言うことは聞けない」という境界線を引かざるを得ません。例え「ここではこうするのが親切だ」と 思える行為があったとしても、「必ずそれをするべきだ」というのは無茶と言うものではないでしょうか。 (※注2)
……但し、そもそも『「儀礼的無関心」はリンクする側に思いやりを求めた主張だ』という受け止め方は 誤解である可能性もあるように思えます。松谷氏は一連の議論の中で
私がこのトピックにおいて、「『優しさ全開で万事はオッケー』なんて思っていない」と書きました。それは、文脈上いろんな意味を孕ませたつもりですが、この場合において簡潔に書きますと、自分が「他者を思いやること」が、とても横柄な態度に思えるからです。
もちろん、だれかを「思いやる」のは勝手です。しかし、それはその相手から「余計なお世話だ」と言われた瞬間に却下されます。
と、むしろ先ほど述べた、この主張への第一の反論に近い主張をしています。
ここから考えれば、「儀礼的無関心」はむしろ第二の主張を否定するものであり、その真の意図はこれ以外の第一・第三・第四の主張にあると
考えるのが妥当だということになります。
しかし、その捉え方にも疑問があって、氏は
私は自らの権利主張とともに、 こっそりとサイトを運営している方への配慮も主張した上で、「儀礼的無関心」の話を書いたわけですね。 「どちらか片方」っていうことではありません。
私はたしかにAさんのことも思いやってこの話をしましたが、 同時に自分(Cさん=ウォッチャー)のメリットも要求しています。
とも書いているのです。これは矛盾しているように思えますが、 では前に引用した氏の発言は間違いだったと考えるべきなのでしょうか? しかし氏は、
実際にぼくはそんなに優しくありません。 先のコメント欄にもちょっと匂わせましたが、だって、裏を返せば、僕はこっそり見る権利(チラ見)を失わせるな、 と言ってるんだもん。
等、「こっそり見るのは優しくない行為だ」とも主張しているのです。
……どうやらこの主張の内容を正確に把握することは不可能そうなので、ここでまとめます。
これらの記述から「儀礼的無関心」の二つ目の主張の問題点をまとめると、以下のようになるでしょう。
A44-3.そもそも好きなサイトをこっそり見続ける権利なるものが何を根拠に主張されているのか分かりませんが、
仮にそのような権利があるとしても、上の主張は二つの点で間違っています(※注3)。
第一に、Cにそのような権利があるのなら、Bを見ていた人々(D)にも「Bで面白いサイトの情報を得続ける権利」が
あることになります。つまり上の主張に基づくなら、BはDの権利から生じる義務を果たしたに過ぎません。
第二に、BがAに対して閉鎖するよう脅迫等をしたわけではない以上、Aを閉鎖したのはBではなくA自身です。
つまり、Cの権利を侵したのはBではなくAであり、上の主張に基づくならばCはBではなくAを自身の権利に基づいて批判し、
糾弾するなり再開の要求をするなりすべきでしょう。
思うに、注3で引用した発言や
静かに読む人の権利もありますからね。それでも「覗き見している読者」に「権利がない」というならば、その論拠を示してみてください。たぶん、できませんから。
等からすると、恐らく松谷氏は前稿のQ2と同様の誤解をしているのではないでしょうか。 つまり、「人間には自由な希望を持つ権利がある。権利があるということは、 周囲の人間はその希望が叶うよう協力する義務があるということだ」と。 無論、これは間違いです。 人には「本を読みたいと思う権利」も「読む自由」もある。だからといって「私のためにあの本を買え」と言うのは、他人の財産権を否定することになる。同様に、 人には「サイトをこっそり見続けたいと思う権利」も「見続ける自由」もある。だからといって「私のためにあのサイトにリンクするな」と言うのは、 他人の表現の自由を否定することになるし、「私のためにサイトを公開し続けろ」と言うのは他人の著作権を否定する(※注4)ことになる。 それだけのことではないでしょうか。松谷氏は
私は先に「原初的にはどんな権利も認められる」と書きました。しかし、そのなかで、唯一認められないのは、「『他者の権利』を侵害する権利」です。
等と述べていますが、ありもしない権利を主張して他者の正当な権利を否定しているのは、氏自身であると言わざるを得ません。
最後に三つ目の主張の問題点をまとめます。
A44-4.この主張は、一つ目の主張をさらに発展させたものと言えるでしょう。 管理人は自分の利益だけでなく、多数者の利益が最大になるように配慮しなければならない、と。 この主張には四つの問題があります。
まず第一に、現在こっそり読んでいる人々の利益は そこまで重要視されなければならないものなのでしょうか。松谷氏は
僕が「誰も幸せになっていない」というのは、結果として当該の日記が消えることで、匿名掲示板の人たちも永遠に見られなくなるということを意味します。つまり、こっそりのぞき見できる可能性が失われるわけです。共有されるメリットを維持するための儀礼的無関心、とも言い換えることができるでしょうね。しかし、これが、誰かひとりがリンクを張ることによってスポイルされる。それは道徳的・倫理的な問題ではなく、公共の利益を害してしまうという点で、ひどくお粗末な振る舞いだなぁ、と僕は思うんです。
等、こっそり見ることの利益を繰り返し述べていますが、この主張には疑問を抱かざるを得ません。
ひっそりとサイトを運営していたつもりの管理人にとって、
「予想外に多くの、あるいは予想外の意図を持った閲覧者にこっそり見られていた」というのは残念な事態であるかも知れません。
しかし、そのような事態が現に起きているなら、例え残念な事実ではあってもそのことを知りたいと思うのは
少なからぬ管理人の自然な希望なのではないでしょうか(「知りたくない」という管理人もいないとは思いませんが)。
しかし、「儀礼的無関心」の主張からすればそのような管理人の希望は否定されるべきであり、
こっそり見ている人々の希望だけが叶うべきだ、ということになります。
これが果たして真に「公共の利益」と言えるのでしょうか?
私は別に、「こっそり見る人々の利益を高く評価し、管理人の利益に価値を見出さない価値観」を否定する気はありません。
しかし、「この価値観が正しい、皆がこの価値観を持つべきだ」と言われれば、「それは違う」と答えざるを得ません。
(参考:「ただのにっき「儀礼的無関心反応リンク集」」)
第二に、リンクすることによってこっそり読む人々の利益が損なわれる可能性はそこまで重要視されなければならないものなのか、という問題もあります。 冒頭で述べたように、この主張は「人々の利益を最大化させよう」という主張だと解釈できるでしょう。 ならばリンクする側はおおよそ以下のような利益/損失・可能性について計算するべきということになります。
「儀礼的無関心」は1・3の利益・可能性を繰り返し主張しますが、2・4・5の利益・可能性については全く触れていません。
当然1・3が他より優先される理由は一切説明されませんし、実際にそのような理由があるとは全く思えません。
確かに、何かをしようとする際に既にある利益とそれが失われる可能性を考えるのは自然なことではあるでしょう。しかし、それを重視するあまりに
新たな利益が生み出される可能性や、不自然な状態で利益を無理に守ろうとして却ってそれが損なわれる可能性を
無視していいものでしょうか。1・3のみを重視すべきだという主張は、暴論であると考えます。
第三に、仮にAの閉鎖が公共の利益に反するとした場合、確かにBのリンクは問題でしょうが、
それではCがやっていたことは一体何なのか、という疑問があります。
Aの閉鎖が公共の利益を損なうとし、Aが閉鎖する可能性を生むような行為は慎むべきだと考えた場合、
確かにBの行為は問題になるでしょう。しかし、別に特にどこからもリンクされなくても
閲覧者が徐々に増えていって、結局プレッシャーを感じて(あるいはウォッチされていることに気付いて)
サイトを閉鎖する管理人もいるのです。
もし「儀礼的無関心」の想定したケースのAがそういうタイプだったら、
BがリンクしなくてもCが閉鎖させることになっていたでしょう。
この場合、「儀礼的無関心」の立場を取るなら、Cは『公共の利益を害してしまうという点で、ひどくお粗末な振る舞い』
をしたことになります。
つまり、「儀礼的無関心」の第四の主張を認め、Aが閉鎖する可能性を生むような行為は慎むべきだとするなら、
そもそもCの行為には問題があると言わざるを得ないのです。
なぜ、自ら問題のある行為をしているCを、Bはそういうことをせずに守るべきだということになるのでしょうか?
Bを否定するならCも否定されるべきですし、Cを肯定するならBも肯定されるべきでしょう。
Cを肯定しBを否定する「儀礼的無関心」は、ダブルスタンダードであると言う他ありません。
そして第四の問題として、仮に「こっそり見る利益が極端に大きく、他の利益は問題にならない」
という主張を認めたとしても、「ではどうやってその利益を守るのか」が見えてこないという疑問があります。
この主張が成立するためには、管理人がそれぞれこういう問題について高い意識を持つ必要があるわけであり、
松谷氏はそのことについて『リンクを張ることでAさんに変化が起こる可能性を、Bさんは想像できなかったのか。もしくは、Aさんに変化が起こる可能性について、どれほどの覚悟があったのか。』
と、サイト管理人に想像力や覚悟を求めています。しかし、サイト管理人は想像力や覚悟を持つべきというなら、
そもそもAに「リンクされることを想像する力」や「リンクされる覚悟」が欠けていたことは明らかです。
サイト管理人は想像力や覚悟を持つべきと言うならAのような管理人が存在するのは問題ということになりますし、
サイト管理人に想像力や覚悟を求めないならBの行為は否定できない。
しかし、「儀礼的無関心」は想像力や覚悟のないAの存在は肯定しつつ、
想像力や覚悟のない(かも知れない)Bをそれゆえに否定している。これはやはりダブルスタンダードというものでしょう。
「儀礼的無関心」は結局何を望んでいるのでしょうか。管理人を啓蒙したいのか、してはいけないのか?
やはり、「儀礼的無関心」は破綻していると言う他ありません。
尚、各議論において、「儀礼的無関心」を持ち出した人が以上の内のどの主張を意識して「リンクするべきではない」
と言ったのかは当然私には分かりません。それを知るには、主張した本人に聞く以外ないでしょう。
「松谷氏は四種類か三種類の意味を込めて儀礼的無関心を主張したと思われますが、あなたはどの意味で主張されたのですか?」と。(※注5)
ただ、どの主張が意識されているにせよ、以上の考察から「儀礼的無関心」はリンクの自由を否定するものには
なり得ないと考えます。
最後に、上で挙げなかった、この議論に関する興味深い意見を紹介します。 この件について興味をお持ちの方は是非ご一読下さい。
尚、この議論が契機となってウェブの一部では上記のような意味で「儀礼的無関心」という言葉が定着した感がありますが、
そもそもこの用法が妥当なのかどうかについては少なからぬ異論があるようです。
が、本稿では便宜上、「松谷氏の主張=儀礼的無関心」として扱っています。
この疑問については、個人的に「it1127の日記 ■儀礼的無関心のロンド」
にて指摘された、小泉信三氏の著作よりの引用『見たいものを見るのは人の権利かも知れぬ。しかし人の観られたくない状態を見ないことも、また吾々の義務である。』
が
興味深く思えます。これをウェブで例えるなら、
「ハッカー(クラッカー)によって無残に改竄されてしまったページをよってたかって見るべきではない」というのが近いでしょうか
(あまりよい比喩ではありませんが)。
このような主張なら、確かにある程度説得力のある、マナーにも則したものであるように思えるのですが。(→Q44に戻る)
その他にも、この第二の主張については『そもそも、そのサイトがリンクされることを望んでいるかいないかが他者に常に分かるものなのか? 儀礼的無関心
という主張を受け入れるなら、「このサイトはリンクされることを望んでいるのか?いないのか?」と悩んだ末にリンクをした
管理人も悪として糾弾されることになる』といった疑問もあります。
しかし、相手がリンクされることを望んでいなくてもリンクすることが思いやりと思える場合もあるでしょうし、
逆もまたありうる。つまり、リンク先がどう思っているかは問題の本質ではなく、結局はリンクする側が何を「思いやり」と考えるか、
が重要なのであると考えます。(→Q44-2に戻る)
ただ、「儀礼的無関心」の主張する「権利」が本当に「こっそりと読む権利」なのかどうかは、疑問の残るところではあります。
冒頭で紹介したページでの議論でも『やはりCさんの権利もあるんです。』
等という言葉は繰り返されるものの、
一体何の権利が主張されているのかが今ひとつ判然としないのです。
私は本稿で、松谷氏の
本来的に「公共の利益」というのは、これらさまざまな立場の方々の権利を平等的に扱い、 その上でバランスを考えて決められていくものです。ゆえに論拠なくCさんの権利を無視することは、本来的にはできません。
(略)
残念ながら、松永さんの言う「ネット珍走団」の人たちにも「珍走」する権利はあります。2ちゃんねる等で「晒す」自由も、 法的には保護されているんです。 それが否定されるのは、その方々が法を犯したときのみです(略)
といった発言から、ここで言われる「権利」とは「こっそりと読む権利」であり、「儀礼的無関心」の主張は
「リンクすることでリンクされた側が閉鎖したりすれば、それはリンクした者がこっそりと読んでいた人々の権利を侵したということだ」という法律論
であると解釈しました。
ただ、ここで言われる「権利」が「こっそり読む権利」ではない可能性も二通り考えられそうです。
一つは、この「権利」とは「- Empty Talk -「永谷園論争で行われていた「権利」とは何か?」」で
の指摘のように、Cが「Aのサイトを見続けたかった」と主張する発言権を指す可能性です。
しかし、だとすればCの発言権が誰にも侵されていないことは初めから明白であり、
やはり「儀礼的無関心」は間違った主張だ、と言う他ありません。
そしてもう一つは、「儀礼的無関心はそもそも権利なんて考えてはいなかったが、こっそり読み続けたいという欲求に
さも根拠があるかのように見せるために権利という言葉を使ってみた」という可能性です。実際に、
氏が最初に「儀礼的無関心」を主張した記事では、権利という言葉は全く登場しませんし。ただ、松谷氏は後に
この件では、いろいろな人の利害が絡まっています。そこで、前提にしなければいけないのは、「(法を犯さないかぎり)すべての人の、どんな欲望にも、それを希求する権利はある」ということです。これは大前提です。
ですから、松永さんのように、突然感情的に噴き上がって「そんな権利は守ってやる必要などどこにもない」というのは、思考停止した上でのただの暴論です。論拠もたいして明示されていないゆえに、非常にたちが悪いただの感情論以上のものではありません。
等、こっそり読む権利は守られるべき権利だと主張し、感情論を拒否しており、 やはり「儀礼的無関心」は何らかの法的裏付けがある(つもりの)主張だったと思えるのですが。 (→Q44-3に戻る)
著作権法上、著作者の権利には「作品の公開を取りやめる権利」も含まれる、と解釈されています。
(……いや、例えそんな解釈がなくても、ウェブページ製作者に自分のページを削除する権利があるのは自明かと思いますが。)
松谷氏は冒頭で紹介した議論で、BがAに、Cにこっそりと見られていることを教え続け
ることを『主張する権利を剥奪する行為』
と述べています。
恐らく氏は、「作者は常に作品を公開し続けたいと思うものであり、公開を止めるのは権利を剥奪されたからだ」
と考えているのでしょう。
しかし、実際に法律上認められていることからも分かるように、
作者が作品の公開を止めたがる場合というのは普通にあるものなのです。
この例の場合に於いて作品の公開が中止されるのは、作者が権利を剥奪されたからなどではなく、
作者が権利を行使したからに過ぎません。(→Q44-3に戻る)
尚、松谷氏は「儀礼的無関心」について『僕も「啓蒙」をする気はなく、問題提起をしているだけです。』
等、
「単なる問題提起であり、主張しているわけではない」という立場を取っています。
が、本稿は「儀礼的無関心」を根拠にリンクの自由を否定された場合の想定問答ですので、
そのような場合相手は松谷氏の「儀礼的無関心」を主張だと解釈しているはずだと判断し、
「儀礼的無関心は問題提起ではなく主張である」という前提の元で反論を行っています。
もしも相手が主張ではなく問題提起として「儀礼的無関心」を持ち出してきた場合、
「儀礼的無関心はこのような問題提起をしているが、それらの点を考慮しても、リンクするという結論に達する場合もある」
と述べれば良いかと思います。
但し、私にはそもそも「儀礼的無関心」が本当に問題提起なのかどうか、疑問に思えます。
松谷氏はAにリンクをしたBの行為を『公共の利益を害してしまうという点で、ひどくお粗末な振る舞い』
等と激しく非難したり、
Q44-3や注3で引用したようにBがAやCの権利を侵害したかのような
主張をしたりしており、このような記述からは「Bは間違っている」としか受け取りようがありません。
また、氏が記述したはてなダイアリーキーワード(用語解説)の「儀礼的無関心」の記述に
知らない人に、あえて、もしくは、いつの間にか、儀礼的に無関心を呈示をする/している現象のことを指す。見知らぬ他人同士のあいだで、不要な関わりが生じるのを避けるための暗黙のルール。見知らぬ他人に危害を加えることを含めて不快な思いをさせてはいけないが、さらに、みだりに関心も向けてはいけない。
とあるように、氏は明らかに「儀礼的無関心」を「守られるべきルール
」
であると考えており、それを援用していることからも、氏は「Bはルールを破った無法者だ」と主張していると捉えるのが妥当であるように思えます。
(尚、この用語解説の引用箇所は、上で触れたこの件に関する議論が始まって間もなく松谷氏が作成したものであり、
「儀礼的無関心は一般にこのように理解されている」ということではありません。
反論があったため、2004年5月4日時点で引用した解説文の後半部は削除予定となっています。)
※この注5は、2004年3月29日と2004年5月4日に修正・追記を行いました。
(→Q44まとめに戻る)
本稿Q44「儀礼的無関心」の四つめの主張Q44-4の内容は、
上で紹介した「ARTIFACT
−人工事実− ネット教習所をシステムとして作る−儀礼的無関心について−」なくしては気付きませんでした。
また、それ以外にも、「羊堂本舗 ちょき - 儀礼的無関心反応リンク集」から
リンクされた多くのサイトの論説を参考にQ44は作成されました。
その多様々なリンクに関する考察ページ(特に「ウェブページのリンクおよびその他の利用について 」)や、
リンクを否定する数々の主張から前稿および本稿は作成されました。
参考にさせて頂いた方々に感謝致します。
(公開:2004年3月9日 最終更新:2004年5月4日)
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