2011年
09/06 新潟市美術館の館長に塩田純一氏が就任へ
新潟市は6日、公募していた同市美術館の新館長に青森県立美術館の美術統括監などを歴任した塩田純一氏を10月1日付で採用すると発表した。
同市美術館は美術品にカビやクモが発生した問題で昨年3月に当時の北川フラム館長を解任。組織の立て直しを図るとともに、今年5月に新館長を公募したが該当者がなく、7月に受験資格などを緩和した上、再公募していた。
新潟市美術館長の任期は来年3月末までで、契約は1年ずつ更新ができる。
産経新聞より。
文化庁は7日、台風12号で二条城(京都市)の国宝二の丸御殿の障壁画が破損するなど、8府県で36件の文化財被害を確認したと発表。
各府県教委を通じて7日午後4時時点で集計。それによると、国宝の被害は二条城を含め計3件で、金峯山寺本堂(奈良県)と善水寺本堂(滋賀県)ではそれぞれ屋根が破損した。重要文化財では、世界文化遺産に登録されている熊野那智大社(和歌山県)の本殿の一部が土砂で埋まるなど10件を確認した。
共同通信より。
ロイターより。
「ポップアートの父」と呼ばれた英国のアーティスト、リチャード・ハミルトン氏が13日、死去した。89歳。AP通信などが伝えた。
1922年ロンドン生まれ。英国の美術学校で学んだ後、コラージュ「一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか?」で注目を集めた。ビートルズの「ホワイトアルバム」のジャケットデザインでも知られる。
共同通信より。
奈良・東大寺の法華堂(三月堂)で進められている年輪年代調査で、仏堂の建築に使われた部材の一つが、731年に伐採されたヒノキとわかったとのこと。堂内の八角須弥壇で729年伐採のヒノキ材が見つかっているが、建物本体でも730年代前半に建立されたとみられる痕跡が確認され、記録集「東大寺要録」の記述が正しい可能性がさらに高まった。
光谷拓実・総合地球環境学研究所客員教授が調査し、天井近くにある部材で表皮が削り残されていたことが判明。その下にある年輪の幅を計測して、731年伐採が確認されたとのこと。過去の調査では、古代の木材は伐採から数年内に使用されたとみられる例が多いという。
平安時代に編まれた東大寺要録には、「733年に羂索院(法華堂の旧名)が創建立された」「本尊の不空羂索観音像が造立されたが安置場所が定まらず、数年後に都(平城京)の東側の山に決まった」などと記されている。調査結果からは、不空羂索観音像が載る八角須弥壇が当時の東大寺の中心施設、法華堂より数年古いことになり、これも要録の記載と合致する。
朝日新聞より。
文化庁は16日、6月に施行した展覧会美術品損害補償法に基づき、展示品が破損したり盗難に遭った場合の損害の一部を国が補償する初めての契約を結び、近藤誠一長官が主催者側に書類を交付した。対象は「プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影」(国立西洋美術館、読売新聞社主催)と「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」(愛知県美術館、東京国立近代美術館、読売新聞社主催)の2展覧会。
同法は海外の優れた美術品展覧会の国内開催を支援する目的。国は50億円超から1千億円以下までの損害を補償するとともに、美術品の安全管理の徹底や作業マニュアル整備を主催者側に求める。
共同通信より。
谷崎潤一郎が購入し、志賀直哉に譲られた後、行方が分からなくなっていた平安時代の作とみられる木造観音菩薩像(高さ約95センチ)が、早稲田大会津八一記念博物館に保管されていたことが分かり、相愛大の呉谷充利教授らが20日、発表したとのこと。
観音菩薩像は昭和2年、志賀と奈良市内の骨董店を訪れた谷崎が3000円(約1500万円相当)で購入。奈良市に住んでいた志賀が7年に譲り受けたとされる。志賀は志賀直哉旧居として現在公開されている当時の自宅2階客間に飾っていたが、13年に東京に転居。21年ごろに手放したとされ、その後所在が分からなくなっていたとのこと。
同旧居の修復に携わった呉谷教授によると、今月、インターネット上のブログで観音菩薩像に関するやり取りを偶然知り、会津八一記念博物館の収蔵庫に保管されているとの書き込みを見つけた。芦屋市谷崎潤一郎記念館と志賀直哉旧居に残る写真と、同博物館から取り寄せた写真を比べた結果、光背の模様や台座の割れなどが一致したという。また、観音菩薩像は当初両腕がなく、谷崎が両腕を修復したとの記録があるが、譲り受けた志賀は両腕を取り外したという。
産経新聞より。
福岡市西区の元岡古墳群で、西暦570年とみられる「庚寅」の干支と、「正月六日」の日付が刻まれた鉄製大刀が見つかったとのこと。福岡市教委が21日、発表した。年と月日を組みあわせて表記した古墳出土の刀剣類の発見は初めて。暦が認識され、使われたことを示す国内最古の例とみられる。
7世紀に造られた同古墳群G6号墳の石室内から8月末に出土したとのこと。長さ75センチの刀身の背の部分に「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□(1字不明、練か)」の19文字が、象眼で記されていた。市教委によると、「庚寅の年の正月6日庚寅の日に、この刀を作った。12回練り鍛えた」と読め、年の干支と日付の干支を照らして570年と判断したという。
出土当初、表面はさびで覆われていたが、福岡市埋蔵文化財センターがX線撮影をした結果、文字が確認されたとのこと。製作地は朝鮮半島の可能性も捨てきれないが、同時代の関東や九州、山陰地方に国産品の象眼刀剣類が複数出ていることなどから、国産である可能性が高いという。
「日本書紀」には554年、暦が朝鮮半島にあった百済から日本へもたらされたとある。見つかった表記は暦にしたがったとみられ、伝来から十数年後には国内で暦が普及していたと考えられる。
文字を象眼した古墳出土の鉄剣類は6例見つかっている。うち、年号が入ったものは埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣など3例があるが、具体的な日付が入った例はこれまでなかった。
朝日新聞より。
長崎県対馬市の西海岸で8月上旬、漂着しているのが見つかった木造の仏像について、韓国教員大の鄭永ホ名誉教授が23日、14〜17世紀の中国・明代に作られた菩薩座像との見方を示したとのこと。(ホは金へんに高)
鄭氏によると、仏像に制作者や年代などの表記はなかったが、明代の作品の特徴と一致する点が確認されたとのこと。宗教的な文化財が破壊された文化大革命(1966〜76年)の頃、海に捨てられて流れ着いた可能性もあるという。
読売新聞より。
丸亀市は27日、同市にある丸亀藩の武家屋敷の遺跡から、オランダ東インド会社の備品の印である「VOC」マークが入った有田焼の皿の破片が見つかったと発表した。同マークの入った皿が九州以外で見つかったのは初めて。
見つかった破片はVOCマークが入った縦8・3センチ、横3・5センチ、同じ皿の一部と見られる縦5・5センチ、横3・6センチの計2個。丸亀消防本部庁舎建設に伴う発掘調査で出土、佐賀県立有田窯業大学校の大橋康二教授の鑑定で、18世紀前半に有田で作られた7寸(約21センチ)の「染付芙蓉手鳳凰文皿」であることが判明した。
この皿は、東インド会社が有田に特注したもので、世界各地のオランダ商館やオランダ船内で使用していた。国内では同社が拠点としていた長崎県の出島のオランダ商館跡で割れた皿やつぼなどが出土したほか、福岡県久留米市でも破片1点が見つかっているが、その他の地域での出土事例はない。
同市教委によると、この皿は、京極丸亀藩3代藩主高或の時代。京極丸亀藩では初代藩主高和らが陶器に造詣が深く、高和のコレクションを示す「萬御数奇道具御印帳」にはオランダの焼き物が入っていることなどから、市教委は「藩主や家臣が興味を持って取り寄せたか、出入りの商人が長崎から持ち込んだのでは」と推測しているとのこと。
四国新聞より。出土品は10月4日から丸亀市立資料館ロビーで展示するとのこと。
発掘調査が行われている渡島管内福島町の館崎遺跡で、岩を人の形に加工した縄文時代前期末(約5千年前)の「岩偶」が見つかったとのこと。高さ37センチと大きく、発掘した道埋蔵文化財センターは「国内最大の岩偶の可能性が高い」と話しているとのこと。
北海道新聞より。
群馬県立近代美術館(高崎市)で開催予定だったロシア国立エルミタージュ美術館所蔵のガラス工芸品展が「東京電力福島第1原発に近い」との理由で開催中止になったことが28日、近代美術館への取材で分かった。
エルミタージュ美術館の意向で「放射性物質による展示品の汚染が懸念される」との説明を受けたという。
近代美術館によると、展覧会は6月から北海道、東京で既に開催。10月からは岡山で開かれる。高崎では12月から開かれる予定だったが、5月にエルミタージュ美術館から中止の申し入れがあった。
共同通信より。
群馬県立歴史博物館は28日、国指定の重要文化財「上杉房定書状」(新潟県立歴史博物館所蔵)など古文書4点に、水滴の染みが見つかったと発表した。天井の空調設備にできた結露が落下したとみられ、修復に数カ月かかるという。
群馬県立歴史博物館によると、「上杉房定書状」は室町時代後期に書かれた原本で、縦5センチ、横3.5センチの染みが二つできていた。また、同館所蔵の「長尾氏系図」の写しには長さ約107センチの染みがあり、国学院大所蔵の「太田道灌状」「香蔵院珍祐記録」にも染みが確認されたとのこと。いずれも15世紀後半ごろの戦国時代の様子が記された資料で、7月に開かれた企画展のために借り、館内のケース内に展示していた。
時事通信より。
長野県阿智村の画家が保管する屏風絵「虎之図」が、菱田春草(1874〜1911年)の作品と鑑定されたことが29日、分かった。
屏風絵は高さ95センチ、幅274センチ。保管する吉川さんによると、春草が東京美術学校(現東京芸大)の学生だった17歳の時、親戚宅で描いた。これまでも春草作と伝えられており、吉川さんが東京美術倶楽部鑑定委員会(東京)に依頼、本物と認められた。
共同通信より。






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